NO.7
お題:女同士の道のり 制限時間:2時間
その夜深く、一軒の屋敷が炎に包まれた。
雨は昼のうちに上がっていたため、湿り気は残って無かった。火は内壁を舐めるように這い回り、燃えるものを全て炭にしていった。
屋敷は街外れよりもその先にあったものだから、いよいよもって気付かれるのが遅れてしまった。
火事に気付いた夜警が笛を吹き、ジャンジャンと辺りに鐘が鳴り響く頃には、誰もがなすすべなく業火を遠巻きに眺めるしか無かったのである。
その屋敷には、一匹の初老の男が住んでいた。
先の戦争の英雄として有名であり、身なりも良く大柄であるものの、その厳しい目付きに似合わずびっこをひいていた。
狼付き合いを好まずいつも一匹でいたらしく、街の誰もがさして彼とは親しくは無かった。
ただ、時折奴隷の兎を連れて散歩をする姿を見かける事があったくらいである。
その奴隷も幾分か前から姿を見せなくなったため、ああ、ようやく食ったのか、と彼女を知る者は皆がそう思った。
「旨そうな雌兎だったよなあ」
「惜しいなあ、俺がいただきたかったぜ。あそこの奴隷じゃなけりゃなあ」
彼女を見ていた狼達はそう言い合った。
奴隷の首枷は所有者の証。
枷を付けている間は不用意に襲ってはならない。
それは、所有者の地位が高いほど絶対的な決まりである。
* * * * *
「はっ! 確かに奴隷はおりませんでした!」
そう証言をしたのは、伝令に出た若狼だ。
「『食った』と仰り、お一人で書簡を持って来られました!」
「そうか。下がれ」
調書を作成しつつ調査官は嘆息した。
おそらくは、煙草の消し忘れか台所の残し火なのだろう。実によくある話だ。
身体の自由があまりきかないと聞いている。深夜帯ならベッドにいただろうが、気付いたところで逃げ遅れてしまったのだろう。
後は瓦礫を撤去し、死体を確認するだけだ。
* * * * *
カチャリとノブを回して開く。
足を踏み入れれば、目の前に広がるのはいつも通りの古く小さなアパートメントの一室。
それでも、大切な自分だけの城。
雌兎は肩にかけたショールを脱ぐと丁寧に畳み、入り口横の小さな棚に置いた。
中古で買ったケトルで湯が沸くのを待つ間、窓を開いて勘気をし、ぐらつく脚にタイルを挟んだテーブルの上の花瓶を手にした。
中には、小さな小さな花が、一輪挿してある。いや、挿して『あった』。
花びらはすべてはらはらと砕けてしまい、瓶に刺さっているのは今やただの細い茎のみとなっていた。
「やはり、売り物と違ってもたないわね……」
呟くと、兎は茎を屑籠に捨て花瓶を洗った。
ピュー、とケトルからくぐもった音がした。
兎がこの町に住み着いてからしばらくになる。
奴隷をしていた狼の国から流れてきた彼女は、あてもなくいくつかの町を転々とした。
仕事を探そうにも、狼から暇を出されたワケ有り女だと聞くと、何処も自分を雇おうとはしてくれなかった。
敗戦後、属国となった彼らにとっての狼とは、普段は直接的な被害を被りはせぬものの、いつ自分達に直接迷惑をしかけてくるか分からぬ存在であった。
狼は気紛れで残酷で平気で裏切り、嘘をつく。
そんな常識がまかり通る中で、「狼の主人に暇を出されて」と切り出されても、
もしそれが気紛れで再び彼女を探しにきたら?
少しずつ狼側に個人情報を流され、自分達がさらわれてしまったら?
何より、身寄りがないなら、何かあった時に責任を被せる相手がいないではないか。
そんな理由から、彼女を雇う工場も店も何処にも無かった。
熱い湯に出がらしの紅茶の葉をもう一度沈めて待つ。
琥珀色とはいえないものの薄く色付いた紅茶に、角砂糖を一つだけ入れ、ゆっくりとかき回す。
本当は砂糖も紅茶と同じく朝だけの贅沢にしたいのだけれど、疲れを早く癒すには糖が最もよく効くのだ。
紅茶は一日一回分を使いまわし、角砂糖は朝と帰宅後の一個ずつと決めている。
兎の生活の中には、こうした節約を意識したルールがいくつもあった。
主人だった狼からの退職金は、できる限り使わないと決めている。
退職金を貰う奴隷など、聞いた事が無い。
しかも、驚くほどの大金であった。
それでも、ぎりぎりの貧しい生活をしながらでも。
兎は、唯一の主人との繋がりとなった、この給金袋を失いたくなかった。
風味の弱い紅茶を啜りながら、洗ったばかりの花瓶――本当は、ゴミ捨て場で拾った洒落たワイン瓶だ。緑色で葡萄模様が入っている――を眺める。
この瓶に似合う花を想像する時、思い浮かぶのは一つだけ。
赤い砂糖細工のハイビスカス。
明るい日差しの窓辺に置けば、きっと、きらきらと花も瓶も鮮やかな影を部屋に運んでくれるのに違いない。
それは、どんなにか美しい光景だろう。
飴を想像していると、正直な腹がくうっと音を立てた。
苦笑して立ち上がり、兎は作り置きの野菜屑のスープを温めると、固くなりだしたぶどうパンを一つ、皿に置いた。
思い出して鞄を開き、中からハンカチに包んだものを取り出す。そっと丁寧に包みを解くと、なかから小さなチーズが出てきた。
『あんた、今日もそれっぽっちかい!?』
いつものように休憩室の隅でぶどうパンを一つ取り出し齧っていると、一匹の中年兎がずかずかとやって来て大声で言った。
『前々から美容の為に減量でもしてんじゃないのかと気になって気になって仕方なかったんだけど、どうもあんたの様子を見ているとそんな訳じゃなさそうだしねえ。
連日そんなにちょっぽりしか食べないのなら、近々ぶっ倒れちまうに決まってるよ!
ほれ、これでもお食べ!』
そう言って、彼女は大きなチーズを割って、自分に分けてくれたのだ。
嬉しくて、ありがたくて、チーズは夕飯用にとこっそりと半分を残しておいた。
兎が働いている工場には、雌兎しかいない。
中年から若い雌兎までが仲違いもせずにせっせと勤勉に働いている。
町で仕事を探し回っていると、断られついでに『あそこに行ってみな』と教えてもらったのがここの職場だ。
『ここはね、戦争時に夫や身寄りを失った雌兎や戦争孤児達を集めて作ったんだ。
苦境を生き抜いてきた兎達だから、皆逞しく結束力がありよく働く。おかげでここまでこれた。
あんたもなかなか面白い経歴持ってるねえ。
よし、ひとつ雇ってやろうじゃないか』
そう言って、パンツスーツ姿の美しい女社長は快活に笑った。
(この町に辿り着いて良かった……)
スープを皿に注ぎ、食前の祈りを捧げながら兎は思う。
そうして、ささやかな食卓を楽しもうとした瞬間。
コツコツと、ノックの音が響いたのだった。