NO.8
お題:絶望的な慰め 制限時間:4時間
【奴隷兎】
これは夢だと、そう思いました。
だって、夢でなければ、どうしてこんなに都合の良い事が起こるのでしょう。
私はドアノブを持ったまま立ちすくみ、目の前の黒い顔を見上げていました。
彼はひどく疲れた顔をしていました。
それでも私を見下ろすその瞳には飢えた光が宿っていて、ああ、彼は私を食べるために来たのだと、そう気付きました。
「どう、ぞ」
掠れた声で呟き身を引くと、彼は足を引きずりながら部屋の中に入ってきました。
私は急いで玄関先からショールを持ってきて、腰掛の上にクッションになるようそれを敷きました。
「あ、あの、お茶を、いれてきます……」
俯いたままそれだけを言い、離れようとしたところで手首を掴まれました。思わず声をあげそうになったのを堪えていると、掌に何かが押し付けられました。
それは、くしゃくしゃに歪んだ新聞紙でした。
そっと広げてみると、べたついて形の溶けかけた赤い飴の花が現れました。
どれだけ経ったものなのか、新聞の紙がところどころくっ付いてしまい、あの時貰ったものよりも、形も歪んで不格好で。
それでも、なんて綺麗なのだろうと思いました。
「……あり、がと……」
胸がいっぱいになり、ようやくそれだけを言えたところで、私は彼に抱きしめられました。
長旅をしてきたのであろう土と埃と汗が混じった匂いを嗅ぎながら、近付く顔を感じて私は目を閉じました。
それはまるで、愛を錯覚しそうなほどに優しい優しいキスでした。
どれだけ交わしても足りなくて、私は泣きそうになりながら、伸びをし彼にしがみつました。
やがて、立っていられなくなった私を彼は抱き上げると、私をベッドまで運んで下ろしました。
「……食べて、ください」
ずっと伝えたかった言葉を、私はようやく口にしました。
例え夢でもいい、恋する相手に食べられてこの生を終わりたかったから。
「私、ずっと……あなたに食べてほしか」
最後まで言い終わらないうちに、私は再び口を塞がれました。先程までの優しさが嘘のように、嵐のように激しく舌で蹂躙され、息をするのも絶え絶えになって、私は小さく喘ぎました。
「――俺もだ」
彼は私の服を脱がしながら、じっと見下ろしそう呟きました。
日が落ちきっていない窓辺からは、オレンジと紫が入り混じった空が見え、黒い毛皮を儚く照らしています。
眼光は、写真で見た時と同じ鋭い光をたたえていて、これから食べられるというのにも関わらず、私はうっとりと見惚れてしまいました。
「お前を食いたい」
「はい」
幸福な恐怖に身を震わせていた私は、続いて呟かれた言葉をあまり聞こえていませんでした。
やがて、恐怖ではなく悦びに身を震わせてはじめてから、ようやく、
「――雌として」
という意味を知ったのです。
短い眠りから覚めた私は、愛しい顔が傍にあることで、ようやくこれは夢ではなく現実なのだと気付いたのでした。
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【退役狼】
「元軍人、それも英雄様がここに来るとはねえ」
訪れた工場の奥の社長室にて、パンツスーツを着た麗兎が艶やかに笑った。
「誰のツテかは知らないが、ここの工場はね、戦争時に夫や身寄りを失った雌兎達が金を出し合い作ったものだ。
とまあ、ここまでが表に向けた話。
もしその先を聞きたいのなら、こちら側に付くと誓ってもらおうじゃないか」
「元よりそのつもりだ」
「そんなら話が早いね。こちらの手の内も知ってるようだしねえ。
戦後、身寄りの無くなった雌兎の多くが街の片隅にひっそりと立ち、観光に来た狼相手に愛を売った。いつ食われるかもしれない恐怖と戦いながらね。
だけどね、一概に『狼』といっても、あんたも知っての通り、別に残虐非道ってわけじゃあないんだよ。捕食対象ではあるものの、生きて言葉も通じる相手だ、情も湧けば愛も生まれる。
ただ、あちらの国のお偉いさんは、敵への愛を許しはしない。使え、喰えと、そんな法律が生まれちまい、そんな常識がまかり通っているのさ。
身寄りのない子ウサギ達を可哀想に思い、手を差し伸べた狼もいる。こっそりと、種別を超えた愛を育む二匹もいる。
そんな狼達が裏で手を貸し資金を出し合ってくれたのが、この工場だ。
表向きは工場だが、裏は新しい共存生活と平等世界を目指すレジスタンス組織なのさ。
あんた、こんな町まであの娘を探しに来たってことは、よっぽど好いているんだろう?」
「ああ」
「死ぬ覚悟はできてるかい?」
「会うこと叶えばな」
「ふぅん、そんなら教えてやろう。あの子が抜け殻になっているのも、きっとあんたのせいだろうしね。
ただし、もう戻れないよ。
あんたはアタシの駒になるんだ」
そうして俺は、レジスタンス組織に加担する契約書に署名をし、彼女の居場所を聞いた。
窓から落ちる満月の明かりが、腕枕で眠る長い睫を照らしている。
そっと頬を撫でてみれば、ピクリと耳が反応し、うっすらと赤い瞳が開いた。
兎は俺を認めると嬉しげに微笑み、手を伸ばした。引き寄せて浅い口付けで応えると、ため息をつき頬を寄せてきた。
「――こんなに幸せな夢って、初めて」
呟きに、彼女が俺を幻と思っている事に気付いて、くつくつと笑みが零れてしまった。不思議そうに見上げる彼女に、
「夢じゃない」
と教えてから、今度は時間をかけて口を塞ぎ、慕情を隠さず覆い被さった。
俺は戦争参加者、しかも戦績を残した狼軍側の英雄である。
レジスタンス側のリーダー達は、俺を集会で数回おきに講演させ、士気を高めるカンフル剤として扱った。
戦争で活躍した男が、間違いを認めた。
この事は、多くの兎や狼達への意識革命となったと後々リーダー達に教えてもらった。
俺が兎権運動総連合にて目立つ立場になるにつれ、兎との日々に終わりがきている事は分かっていた。
狼軍側に知られるのも時間の問題だろう。焼死体が無いと知り、捜索の手は伸びている事だろうから。
レジスタンス組織の規模は日に日に拡大の一途を辿る。
戦争が遠い過去のものとなりつつある現代において、抑圧された兎権が復活する流れは自然だといえる。
だが、よりにもよって英雄だった狼が敵側に加担するなど、狼軍側にとって許し難い事なのは想像に難くない。
焦がれる想いを幾度囁き合い、愛を誓った事だろう。
幸福がいつしか絶望へと向かう事への恐怖を、俺達は日々愛しあうことで慰めあった。
そうして、俺が兎の元を訪れてから、数か月。
その日、俺は運ばれた高台にてスピーチをしていた。
レジスタンス運動が表立って広がりだし、最近ではこうしてゲリラ的なアピールをする事が増えるようになっていた。
勿論、いつでも逃げ出せるよう固まって行動はせず、集結も解散もバラけて行い、万が一政府に捕まっても決して自供はしないと誓い合っていた。
俺はたくさんの兎を前に、紛れる観光狼にも呼びかけながら、過去の戦争で失った兎権、抑圧された制度への反抗をスピーカー片手に話していった。この闘いで得るものを語り、いかに自分たち狼の中にも同じ想いを抱えた者がいるかを訴えた。
スピーチが終わり拍手が一斉に湧き上がる。
無事終えた事にホッとしたように、チラシを配っていた覆面姿の彼女がこちらを見上げる。
パン!
乾いた音が、酷く遠くに聞こえた。
胸で弾けた衝撃は、痛みを超えて一瞬で視界を回転させた。
台から転げ落ちた俺の耳に、一斉に悲鳴と怒声が入ってくる。わんわんわん、と煩いほど頭の中で騒音が響き、彼女が俺にしがみついてきたのが分かった。
「に、げろ……」
言いかけた途端、耳が聞こえなくなった。
濁っていく。世界がどろどろと溶け出し、首を振って涙を流す彼女の白い顔だけが俺の目に映っていた。
「こども……いきろ……」
ようやくそれだけを吐き出すと、ややあって、力一杯掌を握られた。それから、するりと温もりが消え、彼女がその場を去ったのだと知った。
無事に彼女が逃げきれるようにと、俺は最後の力を絞り、いるのか知らぬ神に祈った。
そうして、もう一度撃ち込まれた衝撃を最後に、俺の意識は完全に途切れた。
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【奴隷兎】
狭い裏路地を駆けながら、私は止まらぬ涙を袖で拭い、彼の懐から抜き取った護身用の銃を握りました。
逃げろ、とあの方は仰いました。
――子供と共に生きろ、と。
「生きます……生きますから……っ」
泣きながら、私は何度も何度も誓います。
「あなたの分まで絶対に生き抜きます。
この子を必ず守ります」
アパートのドアを開け、私は誰もいない部屋に入りました。
あの方のいない小さな部屋は、とても寒くて、冷たくて。
でも。
もう、独りじゃないのです。
私はお腹にそっと手をあて、まだ見ぬ子供に話しかけます。
「大丈夫、大丈夫。
きっとあなたが大きくなる頃には、自由な世の中になっている。
お父さんとお母さんが願うような、誰とも愛し合える世界に」
そうして私は、そっと小さく、彼と同じ名で呼んだのでした。
<Lonely and lonely : 完>




