風の前兆と溶けゆく仮面 3
遺跡の奥へ進むにつれて、空気はどんどん湿り、冷たくなっていった。
苔に覆われた壁。崩れかけたアーチ。魔力の残滓が、まるで「ここは忘れられていない」と囁いてくるかのようだった。
「やっぱり⋯⋯変な場所だね」
フィリアが小声で呟くと、すぐ隣でエリオンが言った。
「“喋ってる”わけじゃない。けど⋯⋯“残ってる”んだ、感情が」
「感情?」
「ここで何かが、誰かが、“何かを願った”。⋯⋯強く、必死に」
まるで、それが今でも空気の中に浮いているかのようだった。
リリィが先に立ち止まり、指先で空間をなぞる。
「ここ、“歪んでる”。魔法陣の形跡⋯⋯召喚魔法に失敗した痕ね」
足元にはすでに風化した術式の痕が残り、ところどころ焦げたように焼けていた。
「でもこれは⋯⋯ただの失敗じゃない。誰かが“無理やり止めた”痕跡がある」
リリィの言葉に、全員が顔を見合わせた。
「⋯⋯じゃあ、誰かが“召喚される前に止めた”ってことか?」
ジークが眉をひそめる。
「そういうこと。⋯⋯そしてその“誰か”は、今もギルドの中にいるかもね」
その瞬間、フィリアの胸がちくりと痛んだ。
――“感情察知”が騒いでいる。
誰かの“残り香”に、記憶が触れた。
(⋯⋯この感覚、どこかで――)
「⋯⋯フィリア?」
エリオンの声に、フィリアは一瞬だけ身体を強張らせたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「ううん、大丈夫。ちょっと⋯⋯懐かしい空気なだけ」
けれど――エリオンには、分かっていた。
フィリアの笑顔の奥に、ほんのわずかな“逃げ”があることを。
「⋯⋯俺に言いたくなったら、言えばいい。言いたくないなら、それでもいい」
エリオンは、それ以上は何も言わず、彼女の前を歩いた。
フィリアは、その背を見つめながら思う。
(“信じてる”って、言葉にしなくても、分かる時があるんだね)
彼の尾が、静かに石畳をすべる音が、妙に心地よく感じた。
調査はその後、目立った魔物の出現もなく終了した。
けれど、“何もなかった”はずの任務を終えて、ギルドへ戻った夜――
フィリアは一人、部屋の窓辺に座っていた。
そして、思い出す。
過去のパーティー。ヴァルとリールの、冷たい声。
それをかばおうとしたライザの声。
自分が“何も言わず仮面をかぶった”あの頃。
(あのとき、あたしがちゃんと怒って、ちゃんと拒絶できてたら⋯⋯)
でも、それはできなかった。
相手の気持ちが分かるからこそ、できなかった。
「⋯⋯あたし、また仮面をつけてるんだろうな」
ぽつりと呟いた声に、返事はなかった。
けれど、耳元に思い出された声がある。
――“巻き付きは、護るためのものだ”
エリオンの声が、胸の中に優しく残っていた。
「⋯⋯ありがとう。あたし、もう少しだけ、ちゃんと“あたし”になるから」
その言葉が、小さく部屋に溶けていった。
一方、ギルドマスターのカルドは、古びた紙片を眺めていた。
そこには、かつてファルナ街のギルドから送られてきた報告書の一部があった。
その隅に、こう書かれていた。
《未遂の召喚魔法、関係者:ヴァル、リール、補佐役不明》
「⋯⋯あの遺跡、やはり“あいつら”の痕跡か」
カルドは重く唸ると、書類をそっと伏せた。
「火種は、まだ消えちゃいねえな――」




