44◇最後の
今日は疲れたけれど王都から領地まで戻ることにした。明日にはライエ名誉教授にもアンと会わせてやりたいと思う。
領地へ戻る一番の理由は、マナーハウスにあの砂糖を置いてあるからだ。
アンは精神的苦痛を散々味わった後なので、あの砂糖に癒してもらいたい。最後のひとつだが、これからはもう砂糖に頼らないという決意の表れでもあった。
転移魔法で到着した時、屋敷のファサードを見上げながらアンは目にいっぱいの涙を浮かべていた。
それが嬉し泣きであることはすでにわかっている。ディオニスも感無量だった。
横からアンのことを抱き締め、ズラリと並んで頭を下げている自動人形たちの中央を歩いて屋敷へ入った。
そして、自動人形のメイドに命じる。
「紅茶を淹れてくれ。俺の部屋まで運ぶように」
「畏まりました、ご主人様」
ディオニスはアンの手を引き、自分の部屋へと連れていく。
まず、ソファーにアンを座らせた。
そして、自動人形が紅茶を持ってくるのを待つ間、一緒にソファーに座ってアンとキスを繰り返した。
そういうつもりではなかったのだが、隣に寄り添っていると、つい。
自動人形が部屋をノックしたから、アンがビクリと体を強張らせる。相手は人形なのに落ち着かないらしい。
「紅茶をお持ちしました」
自動人形は二人分のティーカップを用意してきた。その両方に紅茶を注ぎ入れる。
まだ湯気の立ち上る紅茶を二人が座っているソファーの手前のテーブルに置いた。
「お熱いのでお気をつけください」
そうして、自動人形は再び部屋の扉を閉めて去っていった。
ディオニスは立ち上がり、机の引き出しから砂糖の入った小箱を取り出す。
最後のひとつにはスミレの花飾りがついていた。それをアンの紅茶に入れ、ティースプーンでかき混ぜる。砂糖は跡形もなく溶けて消えた。
その紅茶をソーサーごとアンに差し出した。
「ほら、アンの分」
「ありがとうございます、ディオニス様」
アンは笑顔で紅茶を受け取った。
そうして、コクリ、コクリ、と砂糖入りの紅茶を飲む。ディオニスはそれを黙って見つめていた。
最後の砂糖は、健気に耐えたアンの心を癒す手伝いをしてくれる。
――ところが、アンは半分ほど紅茶を飲むと、残りをディオニスに差し出してきた。
「半分頂きました。私はもう十分ですので、あとはディオニス様に差し上げますね」
予想外の展開になった。
ディオニスは目を瞬かせ、え、と声を漏らしていた。
断るのも不自然だが、これはアンのための薬のようなもので、ディオニスが飲んだらなくなってしまう。かといって、断ったらアンを傷つけるかもしれない。
「あ、うん……」
受け取るしかなく、それでも受け取ってから悩んでいると、隣でアンがクスクスと楽しげに笑っていた。
「ごめんなさい、ディオニス様。実は、フリーデル様がお渡ししたあの砂糖は、ただの砂糖なんですよ」
「はぁ?」
体を揺らしたら、砂糖入りの紅茶を零しそうになった。ひと口飲んでみたが、味は実際にただの砂糖だ。前にも少しだけ口に含んだ時にそう思ったのだが、その感覚は正解だったらしい。
「あ、あの――っ」
タヌキばばあ、と暴言を吐きそうになったが、呑み込んだ。
思えば、心を癒す砂糖なんて、これまで聞いたことがない。回復魔法の権威であるライエ名誉教授がもっともらしい顔をして言うから疑わなかったが、冷静に考えたらなんで引っかかったのだろうと愕然とした。
アンはディオニスの膝に手を添え、顔を覗き込みながら話し始める。
「私がここでお世話になると決まった後、フリーデル様に言われたんです。もし自分で砂糖を入れていないのに甘い飲み物が出てきたら、それはディオニス様が私を傷つけたと思っていて、謝りたい時だって」
「そんなことを……」
強情なディオニスは謝れなかった。かといって、アンが傷ついて怯えるのもいけないというわけで、ライエ名誉教授はそんな手を使ったらしい。
素直にごめんと言えないディオニスは、甘い飲み物を差し出す。
あの頃のディオニスの心の動きがアンに筒抜けだったことが今更ながらに恥ずかしい。
アンはその時のことを教えてくれた。
「気まずい思いをしたのは私だけではなくて、ディオニス様も同じだと知った時にはほっとしました。それから、ディオニス様は何も悪くないのに、私が苦しい時にも甘いものが出てきました。ディオニス様のお気遣いは、私にとって涙が出るほど嬉しいものでした」
砂糖そのものにはなんの効力もなかったと知らされた。それでも、アンが癒されたように感じたのは、ディオニスの気持ちを受け取ってくれたからだった。
「俺は他人と接し慣れていなかったから、色々とごめんな」
「謝られることは何もありませんでした。……ディオニス様」
「うん?」
呼ばれたので返事をしたのだが、アンは急に顔をくしゃりと歪めた。どうしたのだろうと思ったが、アンは目を潤ませて言う。
「私の名前を呼んで頂けますか?」
「アン。アンネリーゼ」
自分の存在を確かめるように噛み締めている。
今のアンは家をなくした不安定な状況だからだろうかと思ったが、そんな単純な話ではなかった。
「私、名前を呼ばれるのが好きではありませんでした」
「可愛い名前だと思うけどな」
そこでふと、この名前をつけたのは父親かと思い至った。
「父は、顔を合わせるとまず私の名前を呼びました。愛情からではありません。名前を授けた父親である自分が私の所有者であるという確認です。名前を呼ぶことで父は子供たちを支配していました」
「最悪だな」
「でも、今はディオニス様に名前を呼んで頂くのは好きです。この名前がようやく好きになれました」
アンが最後まで言い終える前に、ディオニスはアンをかき抱いていた。耳元で何度も名を囁く。
「アンネリーゼ。体の傷も心の傷も、俺が癒すから。背中の開いたドレスをいっぱい買ってこような」
「はい……」
どうせ自分はシュペングラーの血など流れていない。結婚なんてしなくても、父がしたように優秀な子供を養子にすれば事足りると思っていた。
親の愛情を知らないから、自分の子供などとても育てられない。血を分けた子供がいると考えることすら嫌になるだろうと疑いもなく思っていた。
その考えは生涯変わらないと。
それがどうだ。今は一日も早く結婚したい。
アンも親の愛情など微塵も受けてこなかったけれど、アンほどの優しさがあれば不安はない。親だから、子だから、の前に誰しも一人の人間で、相手を尊重し、思い遣ることができたならそれでいい。
母親になったアンを見てみたいのなら、ディオニスが父親になるしかないのだ。
アンがいれば、ディオニスの屋敷は穏やかな癒しの場となる。
そこは陽だまりのようにあたたかい、大切な居場所だ。
「アンの傷を消してから式を挙げたい。それを原動力にしたら、多分学校の成績もついてくる」
卒業まであと一年。なんとか一年で目立たないようにできないものだろうか。
ライエ名誉教授ですら手こずる傷跡ではあるけれど、今のディオニスならどうにかできそうな気分だった。
「私がディオニス様の学業のお役に立てるのでしたら嬉しいです。あの……末永くお願い致します」
アンの体を気遣いながら、それでも抱き締めた腕に力が籠る。アンの腕もディオニスの背中に回っていた。恐る恐るではなく、互いが求め合う。
「……傷の治療には肌に触れる必要があって」
「はい」
「治療はしばらくかかる。毎回触るわけだが」
「はい?」
アンは婚約者だ。いずれ結婚して責任を取るわけだから、もう我慢しなくていいだろうか。
他の男に取られてしまわないように、という意味合いもあって、早くアンのことがほしい。けれど――。
「…………」
「ディオニス様、どうされました?」
ちゃんと結婚まで待たずに手をつけたら、他に行く当てのないアンは、遊ばれただけでディオニスにいつか捨てられるかもしれないという不安を抱きはしないだろうか。
この傷を治すまでの婚約期間を、結婚式を指折り数えながら幸せに過ごしてほしい。アンに、自分は大事にされているのだと感じてほしい。
――そのために、どうするかという問題である。
「いや、ちょっと自分の理性と相談してた」
「え、えっと、その……っ」
意味がわかると、アンは首筋までほんのりと赤くなる。
とても愛しい、命よりも大事な人。
「アンの幸せが一番だって俺の理性が言ってる」
この発言を、何回かは後悔するのだろうけれど。
「あ、ありがとうございます。私、とても幸せです」
「うん」
アンを不安にさせないことが第一で、そのためには多少の我慢もしなくてはならない。
――色々と頑張ろう。




