40◇こんなもの
――トイレというけれど、王宮のトイレはだだっ広い部屋だ。
薄青いタイルが敷き詰められていて、漏れそうだと駆け込んだら、用を足せるまでの距離に絶望しそうなほど広くて綺麗だ。
学校の教室より広い。休憩用のソファーも備えてある。
奥の方から王太子が戻ってきた。
白髪頭、口髭、深紅の仮面。貂のマント。
ディオニスは壁際で、早鐘を打つ心臓を落ち着けるために強く叩いた。すると、王太子は口元に笑みを浮べ、ディオニスに歩み寄ってきた。
「シュペングラー卿。大きくなったものだ。最後に会った時、君はまだこれくらいだった。また会えて嬉しいよ」
と、自分の腰の辺りに手をやる。
正体がバレている上、王太子はディオニスのことを覚えているらしかった。
「お、王太子殿下におかれましては……っ」
さすがにこの状況で淀みなく言葉が溢れてくるなんてこともなかった。
ひどい疲労感を覚えつつ、なんとか口を開いたのだが、王太子はそれをあっさりと聞き流している。
「ここは人払いしてあるから、心配は要らない」
――王太子は一体、何を察知したのだろう。
侯爵の手の者が潜んでいるように、王太子の密偵もどこかにいたのかもしれない。
トイレに誘い込まれたのはディオニスの方だったのだ。
「さて、私を暗殺しに来たとのことだが」
面と向かって笑顔を交えて言われ、嫌な冷や汗が噴き出した。
どのようにして知ったのかは不明だが、ここは土下座くらいしてみせなくてはならないのかもしれない。
「あ、あの、これには深いわけがございまして……私の話を信じて頂けるのなら正直にお話致します」
王太子は、ほう、と感情の読み取りにくい声でつぶやいた。
「暗殺者の言葉を信じろと言うのかね?」
さっき、会えて嬉しいと言ったのは誰だったか。王太子の言葉は冷たかった。
「何も好き好んでのことではありません。けれど、どうあっても救わなくてはならない相手がいて、どうか私の話を信じて頂きたく――」
何を根拠に信じろと言えるのだ。
エーレンフェルス侯は力のある貴族で、王太子といえどもそう易々と手を出せない。ディオニスが悪事の証拠を提示できるわけでもなかった。
それでも、正直に話す以上にできることはない。信じてほしいと心から願った。
その願いが通じたとは思わないけれど、不意に王太子は緊張を解いた。
「まあ、不意打ちもせず、こうして正直に話すと決意した点を評価しないわけではない。話を聞こうか」
「あ、ありがとうございます」
体が強張りすぎて痛いくらいだった。それでも、この選択は誤りではなかったのだと思いたい。
ディオニスが言葉を選んでいると、いつの間にかソファーに座っていたコーネルがのんびりとした声でいきなり口を挟んだ。
「僕の友人が困っています。あまり苛めないでください」
コーネルは誰に対しても同じように、分け隔てなく接するヤツだと思ってきた。それがまさか王族に対してまで公平だとは知らなかった。
ディオニスが焦っても、コーネルも王太子も自然体である。嫌な予感がした。
「遊んでいるのはお前の方だろう? 可哀想に」
「遊んでいませんよ。僕は彼の力になりたくてはるばる来たんですからね」
「まあ、そうだな。お前は友達のことは大事にする。それは知っているが」
王太子はディオニスのことを覚えていると言っていたが、コーネルのことまで知っているらしい。
貧乏准男爵家の息子まで覚えているとは恐れ入る。
――いや、その認識はおかしい。
ディオニスは改めてコーネルを見遣った。すると、コーネルは苦笑した。
「僕が一番最初にディオニスと会ったのは、七歳くらいの時だったかな。シュペングラー伯の養子になった男の子だって紹介されて。喋ったりはしていないんだけど、ディオニスは小さいのにもう魔法を使えて、それで火の輪とか水の球とか、手品師みたいに出して披露してた。大人たちはすごいって褒めてたけど、終わってからディオニスの膝がガクガク震えてたのを見たよ。どんなに緊張していたのかなって。それでも立派にやり遂げて、努力家だなって思った」
そんなこともあったような気がするけれど、あの時は王族たちを前に、大道芸人のように芸をさせられたようなものだった。
コーネルがそれを見ていたと。
「お前、准男爵の息子じゃないのか?」
思わず素で尋ね返すと、コーネルは照れたように笑っていた。
王太子はどうも呆れている。
「コルネリウス。少しも褒めるつもりはないが、お前は上手く溶け込んでいるらしいな」
――コルネリウス。それが本名か。
「学校は楽しいですよ。条件つきで通わせて頂いているのは残念ですが」
「馬鹿者。お前の本分は学生生活を満喫することではないぞ」
わかった。今日、どうしてすぐにコーネルだと気づけなかったのか。
見た目も変わっているが、それ以上に違うのは魔力だ。
コーネルはカスみたいな魔力しか持たないはずが、今日はかなり良質の魔力を持っているように感じられる。普段はなんらかの道具によって封じられているのかもしれない。
こうして並べてみるとわかる。似ているのだ、二人は。
王太子の仮面に遮られた目元が綻ぶ。
「一番下の息子だ。放蕩息子でな、あまりにも城の外へ出たがるものだから、そんなに城が嫌なら学生になって寮生活でもしてこいという話になったのだ。しかし、こんなものが学業に励む学生に混ざったのでは申し訳がない。それで、魔力の大半を封じる約束で入学させた」
王太子が笑いを噛み殺しながら教えてくれたが、息子は〈こんなもの〉扱いでいいらしい。
あのクラスはダイヤモンドと石ころとを一緒に並べる宝石箱だった。そして、石ころはどちらだという話だ。
「堅苦しいのは嫌いです。僕は皆と対等の関係になりたくても、身分を知ったら皆が畏まるんですから、お忍びで出かけたくもなりますよ」
フラフラしている息子だから、いっそ学生寮に放り込んだ方が居場所がわかっていいと思われたらしい。
なんて相手に相談してしまったのだろうか。
「貧乏准男爵の長男ってのは?」
「そういう設定。姉弟が多いのは本当だけど、実は兄、姉ばっかり。長男どころか七男だし」
「……シンディはこのことを知っているのか?」
思わず言ってしまったら、王太子は女の名前が出たことで興味をそそられたらしく、耳が広がりそうな勢いだった。
コーネルはもう少し困惑するかと思ったのだが、明るい声で答えた。
「まだ知らない。明日言うよ」
「明日って……」
「今日の方がいいと思う?」
「いや……、もう少し待てば?」
ようやく少し親しくなったというところでこんなことを言われても、シンディはどうしていいかわからないだろう。
けれど、コーネルはもう決めたらしい。
「うーん、まあ近いうちに言うよ。それでよければつき合ってほしいって」
「潔いな……」
さすがと言うか、なんと言うのか。
シンディの目は確かだったということが今、証明されたのだった。




