第三話 統括官
遅くなりました。
2060年3月17日午後2時30分
千葉県美浜区稲毛海岸駅前
その事務所を訪れて驚かされたのは、その規模だった。二十人ほどの事務員が働けるスペース、機能的なレイアウト、落ち着いた内装、開放的な窓を含めて働きやすさを意識されている。
入口から様子を窺っていると、デスクの並ぶ間を一人の大柄な男性が歩き回って事務員とやりとりしている。小豆色と白のチェック柄のシャツとデニムというカジュアルな服装ながら、温和な風貌とその立ち振る舞いは青年実業家といった雰囲気。
しかし、この男が中華人民共和国から指名手配されている元テロリストであり、犯罪都市で辣腕を揮った元傭兵だと分かる者はどれだけいるだろう。
私に気付いた事務員に、名前と用件を告げると、彼も私に気付いたようだった。
見る人に丸い印象を与える温和な表情が、露骨に面倒くさいと告げる。再三アポイントメントを取ろうとしたのに、全てを拒む彼が悪いのだ。
さすがに直接乗り込んできた連邦司法局調査官を無碍には出来ないらしく、事務員に何事か指示を出している。
奥に向かう事務員と入れ替わるように、彼は私の方へと歩いて来た。
「ご無沙汰しています。周さん。すっかり実業家ですね」
先制の言葉をかける。すると周は、細い目をさらに細め苦笑いを形作る。
「元々本業だからね。てか、あんた何しにここまで来たんだよ。悪いけど、忙しさは特防課並だからあんまり時間は無いよ。それでもいい?」
「はい。せめて今回の調査の趣旨だけでも説明したんです」
「分かったよ。三十分ならなんとかなる」
なんだかんだと言っても受け入れてくれる。彼女が彼を夫に選んだのは、そういうところなんだろう。
防音の応接室に案内される。機能的な事務所と違い、柔らかく沈み込むようなソファ、木目の美しい自然木を利用したテーブル、花瓶には沈丁花を中心とした花束――通された人を包み込みリラックスさせるための空間。
「いい香りですね」
「そう?選んで正解だったな」
「周さんが選んだんですか?」
周はまた露骨に顔を歪める。
「悪かったね。毎朝花屋で選んでんだよ。時々、不評の時もあるけどね」
意外だ。三〇口径のライフル片手に戦場を駆け回っていたとは思えない。
「どうせ、似合わねえよ」
「いえ。所長ご自身がそういうことするとは意外だったんですよ」
「はいはい」
「でも、そういうところで、奥様はあなたに惹かれたんでしょうね」
自分で言ってて紛れもない本音だったのだが、予想以上の反応が出た。細い目が真ん丸になってる。激しく動揺しているようだ。
自分でも悪い癖だと思うのだが、悪戯心が擡げてきてさらに畳み掛けようとしたところで、ドアがノックされてしまった。
入って来たのはスーツ姿の若い女性。着慣れていない感じが初々しく、新入社員に見える。
それでも周と私の前にお茶を置き、速やかに退出しようとした。
「あ、そうだそうだ」
唐突に周は彼女を呼び止めた。
「はい、なんでしょう代表」
「この人、お前がいつも話してるFLAの相沢涼江さんだよ」
え?
「え?」
ハモってしまった。
「あ、申し遅れました。司法行動局の相沢です。今日は忙しいところお邪魔して申し訳ありません」
「本当にFLAの相沢さんなんですか?」
いきなり食いついて来た。年若い女性に迫られ対応に困っていると、ニヤニヤ笑う男の顔に気付いた。
「あの、楯報告書の?特別調査官の?」
嫌な予感がした。
「尊敬しています!」
それから自己紹介の後、キラキラ輝く瞳で、私の調査官としてのキャリアについて延々と語られそうになったことは割愛する。
副島康や中河由美に比べれば私は全然黒子だと思っていたのだが、自分の意外な知名度に打ちひしがれていると、周はもはや笑みを隠そうともしない。私が、彼をおちょくった仕返しってことだろう。
思わず睨み付けた私に、彼は少し表情を緩めた。
「まあ、そう言わないでよ。あの子は司法志望の法学部生で、ここには法務関係のアルバイトをしているんだ」
「学生を雇っているんですか?」
「うちの従業員は八割パートだよ。学生、主婦、資格試験の浪人生とか」
「セキュリティコンサルタントって、業績いいんですか?」
「いや。全然」
はっきり言い切るので、呆気に取られてしまった。後で調べたところ、この法人は従業員六十名、年商は三億円といったところだという。
犯罪が多様化している現在、警備、安全管理、情報管理等に対する世間の関心は高まっている。しかし、元来特殊な業種であるセキュリティ分野は専門性が高く、民間には馴染まない分野が多い。警備会社と民間企業の意識のすれ違いというものが、意外にも問題になっている。画一化された技術提供や過剰すぎるサービスは、時にその会社の実態にそぐわず、余計な負担となるのだ。
周はそれら民間企業や個人の経営、生活実態に即した安全をコーディネートすることで、民間の支出を抑えつつ警備会社にも負担をかけない仲介で業界を先導している。
「こんな駅前の一等地に事務所を構えているのに、ですか?」
「正規の社員は六人。元傭兵三人と弁護士と会計士とプログラマー。その下に常勤の事務員が四人。残りはパート。二十四時間体制を維持するための人員だね」
「それなのに儲けは無いと?」
「うん。そのつもり無いし」
あっけらかんとしている。
「つもり?」
「うん。俺達みたいな仲介業ってのは、基本的によそ様の仕事に横槍入れてお代を掠め取ってるわけじゃん。そういう人は儲けちゃいけないよね。それにあと五年もすれば、大手はみんな自分達の過ちに気付いて、俺達はお金にならなくなるよ」
「それでは従業員のみなさんは」
「うん。出て行って貰うよ」
あっさりと酷いことを言う。
「ここでまともな給料払ってるのは、俺達傭兵だけだね。他の子達はさっきも言ったようにパートだったり、弁護士でも経験の浅い子だからここに長く居させるつもりはないよ」
「経験を積ませるのが目的?」
「うん。将来見据えて勉強に来る学生もいるし、社会活動に復帰したい主婦やニートだっているだろ?そういう人達の職業訓練。だから、給料は安い代わりに、俺は色々面倒見てるわけ」
そういえばこの男は多種多様な資格を有しているのだった。
あの磯垣海司ですら言ったのだ。
――天才ってのはなんでも直感で出来る人間のことであって、思考してる俺はまだまだだ。
――しかし、この男はそれを全て直感でこなす本当の天才だ。
「ここで経験積んで、巣立ってくれれば俺は万々歳だね」
「でも、娘さんもいらっしゃるのに、そんなことを言ってられるんですか?」
「アイヤー。それ言われると痛ったいんだよね」
全然痛くも痒くもなさそうだ。
「ま、あと五、六個は事業のネタがあるからそれで続けてみるさ」
「慈善事業なのに、凄いバイタリティですね」
「このあいだ監査通ったから、法人税全額免除だぜ」
そう言って人の好さそうな笑顔で、左手の親指を立てる。
「なるほど。それで緑営も特防課も経営していたと」
残念ながら私の問いかけは、その笑顔を吹き消してしまった。
「緑営は俺の手元を離れたし、特防課は今はジョージのもんだ。でもあんたが来たってことは、例の話か?政府や州の調査が終わった今、戦闘に参加していなかった俺に話すことは無いはずだ」
「表面的な事件の調査は、ですね」
呆れ顔で溜息を吐かれた。私は何か変なことを言っただろうか。
「……海司の言った通りだな」
その一言には、今までの軽薄な遣り取りが嘘だったかのように重い物が込められていた。もし、人類の中で楯――磯垣海司を最も近くで見ていた人物を挙げろと言われれば、私は間違いなく彼を挙げるだろう。
それほど近くで接し、言葉を交わし、そして最期だけはどうしようもなく遠かった。
「あんたは本当に事件の流れとか意味とか、どうでもいいんだな。あんたが知りたいのは、現場にいた、現場を見たその瞬間の感情なんだろうな」
「そんなものを文章に描けるはずがありません。神様じゃないんですから」
「多くの調査官や学者、有識者って奴らは神になったつもりでなんでもかんでも言葉にして文章にするものさ。――あんたが凄いのは、その分を弁えていることだよ」
私にとっては恐縮してしまうほどの賛辞だった。だから、思わず茶化そうとしてしまった。
「そうはおっしゃいますが、そんな私の趣味だけでは国費はおりませんよ」
細い目がさらに細められ、周は頷いた。
「分かった。協力しよう」
「は?」
「あんたの事情はだいたい察した。なら、俺はあんたとその事情を利用して仲間の恩赦を勝ち取るとしよう」
東京内戦時、作戦実行部隊の指揮官でありながら唯一訴追されなかった男は、ただでは屈しない男の笑みを見せつけてきた。