第七章 その煌きは嘗ての貴女に似て
一.
源博雅が賀茂家を訪ねてきたのは、正午を過ぎた頃であった。
宮務が終わった後に直ぐ、此方へ来たらしい。
「博雅殿、どうして此処へ!?」
庭の掃き掃除をしていた晴明は、門を潜ってきた博雅を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。
博雅は、直衣に付いた砂埃を手で払いつつ、「漸くたどり着いた」と笑った。よくみると、やんごとなき身分であるにも関わらず、供の者を一人も連れていない。
「まさか、内裏から此処まで徒歩でいらっしゃったのですか? しかもお一人で」
「うむ。その……そなたに用があって、な」
博雅は晴明から視線を逸らし、俯いた。
「先日、俺の所為で保憲殿と喧嘩になってしまったであろう。それをどうしても謝りたくてな。本当に、すまなかった」
深々と頭を下げる博雅を、晴明は慌てて止めた。
「否、謝る必要などござりませぬ! 心配せずとも、俺と保憲はすっかり仲直りしました故!」
「それは、誠か?」
博雅が、縋るような目で見上げてくる。
「無論です! 昨晩も二人で寝床を共に――」
そこで晴明は急に口を噤んだ。一気に、身体中の血液が顔に集まってくる。
――何を、口走っておるのだ俺は。
博雅も同様に、顔を赤く染めて呆然としていた。
「あ、ああ……ええと」
博雅が言葉になっておらぬ声を漏らし、瞳を移ろわせた。
「し、知らなかったぞ。まさか保憲殿と晴明殿が恋仲であったとは」
道理で保憲殿が俺に冷たかった訳だ、と努めて明るい声で言う。だが、その瞳には悲しみに満ちた黒い影が落ちていた。
「博雅、殿」
晴明は、きゅっ、と拳を握り締めた。
申し訳なくて、堪らない。
だが自分はもう、あの男しか愛せぬのだ。
あの男にしか、愛されることが出来ぬのだ。
「申し訳ありませぬ……」
だから、こうして謝ることしか出来ない。
「お前が、謝る必要はない」
晴明の肩を、無骨で大きな手が叩いた。
「他の公達ならば、地位にものを言わせて無理やり奪うだろうな」
ふっ、と小さく嘲笑する。
「なれど、俺には出来ぬよ。嫌われたくないのだ。嫌われるのが、怖いのだ。臆病な男だ、俺は」
「博雅殿、そのようなことはござりませぬ」
「故に、晴明殿に頼みがあるのだ」
晴明の肩から手を離し、懐を探り出した。
やがて、出てきたのは――。
「……葉双?」
「そうだ」
博雅は頷き、無理やり握らせた。
「これは友好の証だ」
「友好……?」
「友人になって、くれないか?」
「ええ!?」
博雅は、「やはり、厭か」と肩を落とした。
「下心がある訳ではないのだが……。只、もっとそなたのことが知りたくて」
「厭ではありませぬ」
「何」
驚く博雅を見上げ、微笑んだ。
「俺も、貴方と友人になりとうございまする」
「あ、ああ」
博雅が、照れくさそうに顔を横に逸らす。
貴族らしくない方だ、と思う。
大抵の男は、彼のように簡単に感情を曝け出さない。だが、博雅は自然に胸のうちを露にしてしまう。
童のように己が隠せぬ程――純真、なのだ。
「……素晴らしい貴方と友人になれて、うれしゅうございます」
自然と、かような言葉が出ていた。
「そっ、そのようなことを簡単に口にするでない」
「本当のことを言った迄ですぞ」
咄嗟に言い返すと、博雅は困惑した表情で低く唸った。
「そなたは、少し正直過ぎるのだ。晴明殿」
「晴明殿、ではありませぬ」
「へ?」
間の抜けた声を出した博雅に、くすりと悪戯っぽく微笑んだ。
「友人なら、晴明とお呼びくだされ」
「なっ、それはそなたも同じこと」
「貴方が呼んだら博雅とお呼びいたしましょう」
「うう……」
博雅は情けなく顔をくしゃりと歪ませた。
「そなたは思うていたより、意地悪な奴だな。……晴明、よ」
肝心の語尾は、聴き取るのがやっとな程にか細いものであった。
「意地悪くなくては、陰陽師は勤まりませぬよ。博雅」
そう返すと、博雅の顔が、茹蛸の如く赤くなった。
二.
その夜。
いつもはひっそりと静まり返っている賀茂家が、妙に騒がしくなっていた。
「……燃やしてやる」
事の原因は――賀茂保憲であった。
瞳を爛々《らんらん》と翡翠色に光らせ、憤怒の形相で呪を唱えようとしている。
その姿はまるで、阿修羅のようだ。
「保憲様! 落ち着いてくださいっ!」
保憲に縋りつき、必死に叫んでいるのは寿朗である。
――やれやれ、面倒なことになったでござる。
護白は、取っ組み合いをしている陰陽師達を冷やかに見つめ、嘆息した。
二人は、晴明の寝屋の前で攻防線を繰り広げていた。
僅かに開かれた障子の隙間からは、二人の男女が談笑している声が絶え間なく漏れている。
晴明と、博雅であった。
晴明が、友人となった博雅を酒盛りに誘ったのだ。
無論、二人きりである。
保憲はそれが許せなくて、こうして暴れているのであった。
――我が主ながら、情けない。
おかしな話だと、思う。
保憲のような優秀な陰陽師が、何故半妖などを寵愛しているのだ。
あのように、我を忘れてしまう程に。
「……ま、拙者には関係のない話でござるな」
踵を返し、立ち去ろうと歩き出す。
――妖も半妖も、本来人間とは相容れぬもの。保憲殿も、近々それを思い知ることになるでござろうよ。
ちらりと、視線を保憲にもどす。
寿朗と騒いでいる姿は、随分と楽しそうにも見えた。
「おい、歪殿。まだ起きてはござらぬのか」
御簾を捲り上げ、声を掛ける。
が、返事の変わりに穏やかな寝息が返ってくるだけであった。
「ちっ、式の癖に貧弱な奴でござるな」
小さく舌打ちをし、そろそろと御簾を潜った。
此処は、保憲の寝屋であった。
きちんと整頓された部屋の真ん中に、寝床だけがぽつねんと置かれている。
その上で、衾に包まれた歪が眠っていた。
今朝、怒った保憲の殺気に中てられて気絶したのだ。
護白は、歪の看病を命じられていたのであった。
「ふん、御主も莫迦でござるな。人間の為に何故そのように尽くそうとする」
額に、ごつ、と手を当てた。
刹那、白髪の男の姿になった。
手を伸ばし、歪の頬に触れる。
「お前は、あの大妖怪と呼ばれた桂男なのだろう? 何故、人間と手を組ん――ぐっ!」
突然、額に刻まれた印が痛んだ。
『名は、良いものだぞ』
脳裏に、初めて会った日の主の笑顔が浮かんだ。
「……ふん、まさかあの笑みに騙されたというのか。桂男よ」
くつくつと笑い、問う。
馬乗りになり、首に手を掛けた。
「人間は、醜い生き物ぞ。幾度でも甘い言葉で騙し、誘惑し、捨て去る。だからこそ我々妖は、人間を憎んできたのではないか。奴等を、喰らってきたではないか」
「ぐっ」
指先に力を込めると、歪の身体が弓形に跳ねた。
「若旦那……否、保憲は違うとでも? その考えを、今消し去ってやろう」
「――何をしているのじゃ」
突然、背後から声が聞こえた。
振り向く。
忠行が、御簾の直ぐ傍に立っていた。
月に照らされた黄金の髪が、眩い輝きを放っている。月光の中に佇む姿は美しくもあり、恐ろしく感じた。
彼の瞳から、並々ならぬ殺気を感じたからだ。
「式同士の喧嘩は感心せぬな。御主が保憲から受けた命は歪の看病の筈。幾ら主がポンコツだからといって、命令違反は駄目じゃぞ」
ほ、ほ、ほ、と高らかに忠行が笑った。
「歪は保憲と良く顔が似ておるからのう。首を絞めたくなるのも分かるわい」
忠行の言葉に、慌てて歪から離れた。
「……申し訳ありませぬ。歪が中々起きぬ故、苛立ってしまって首を絞めて起こそうかと」
なんという、見え透いた嘘。
子供じみた言い訳に、内心苦笑した。
「ふふ、面白い奴じゃな、御主」
忠行が、愉快愉快と、再度笑う。
「じゃがな、かような悪戯は見つからぬところでやるものぞ――小僧」
ぱちり、と目配せをした瞳が、翡翠色に染まる。
「ま、この屋敷ではそれも難しいが。わしの目はごまかせぬからのう」
……温和な口調と笑顔。
それとは裏腹に、恐ろしい程の殺気が放たれていた。
「今度は、説教では済まされぬぞ」
――こいつ。
殺気と威圧感で、びりびりと肌が痺れる。
冷や汗が、つうっと頬を伝った。
――一体、何者だ。
目の前に立ちふさがる老爺を睨みながら、小さく呟いた。
三.
「全く、御主ときたらもう少し自分の立場を弁えて行動出来ぬのか」
忠行のほう……と嘆息する声が、部屋に響く。
御簾の隙間から漏れた朝日の光が、彼の憂い顔を照らしていた。
「申し訳ありませぬ」
床に手を付いて頭を下げる愛息子を見下ろし、忠行はがくりと肩を落とした。
謝罪を述べた保憲の声音からは、全く反省の色が感じられない。
「御主を説教するたびに思うのじゃが、本当に反省しておるのか」
「……申し訳ありませぬ」
返ってきたのは、先ほどと微塵も変わらぬ無機質な声。
「ええい、もう良いわ」
やけくそになって、勺で脇息を叩いた。
「保憲よ。御主が晴明を案ずる気持ちは分かるがの、過ぎる愛情は下手をすると命取り
になりかねん。昨晩もわしが止めなければどうなっていたことか」
……昨晩のこと。
晴明と仲良く談笑していた源博雅に嫉妬し、呪で燃やしてやると暴れ始めた保憲を、忠行がどうにか止めたのであった。
その時の表情ときたら。まるで修羅か羅刹かと見紛う程に、殺気だっていた。
――恋をすれば人は変わる、と良く言うが。
未だに頭を下げている保憲の烏帽子を掴み、うりうりとめちゃくちゃに揺らした。
幼い頃から、何事にも興味を示さぬ男であった。特に、色事に関しては此方が心配になるほど疎かった。そんな彼が唯一執着していた母が亡くなって以降、性格も表情もより一層冷たさを増していった。
晴明に、会う迄は。
「ちっ、父上」
保憲が珍しく戸惑ったような声を出して、忠行を突き放した。
「いきなり何をするのですか」
乱れた髪を直しつつ、頬を微かに紅潮させて此方を睨む。その様は、保憲を少しだけ幼く見せた。
――昔は、かような表情を見せてもくれなかったのだが。
忠行はふっ、と小さく笑み、深く息を吐いた。
恋をすれば人はおのずと変わる。
それは忠行も良く知っている。
己を変えてしまう程の幸福も、切なさも、どきめきも。
……その、苦しみも。
だからこそ、息子の変貌が嬉しくもあり、恐ろしくもある。
かつての兄弟弟子を復讐の鬼に変えてしまった、若かりし頃の自分と同じ道を歩むのではないか、と。
「――御主ならばどうするかのう、紅華よ」
「父上?」
ぼそりと呟くと、保憲が小さく顔を顰めた。
「母上が、どうかしたのですか」
「……否、どうもせぬよ」
忠行はくつくつと喉の奥で笑い、立ち上がった。
「ま、今回はこのへんで勘弁してやろう」
さあっ、と御簾を上げると、眩い光に身体が包まれた。
「じゃがな、保憲よ」
振り向き、保憲の鋭い瞳を見つめる。
「恋とは、世で一番恐ろしい呪じゃ」
「呪、ですか」
「左様。恋は人を簡単に狂わせる。幸福にもなれれば、下手をすると鬼に姿を変えられてしまう。御主も、そうであったろう」
「!」
保憲が小さく息を呑む音が聞こえた。
「呪にかかるのは容易きこと。なれど、自ら呪を解くのは難しきことぞ。ましてやその力を抑えるなどと……未熟な御主には出来ようかのう」
見上げると、空には虹が掛かっていた。雨に濡れた屋根から落ちた雫が、簾の子に小さな縁を描いている。
雨上がり、だ。
「されど、じゃ。御主には大切な仲間がいる。一人で為すのが難しいことでも、仲間の協力があれば出来ぬことはない。今までも、そうであったろう。それは御主が一番良く分かっておる筈じゃ」
「では父上も、そうだったのですか」
「――」
咄嗟に答えが出ず、閉口したまま保憲に向き直った。
しまった、と思ったらしい。気まずそうに忠行から視線を逸らした。
「申し訳ありませぬ。思えば、父上に母上のことを訊いたことがなかった故」
「謝ることはない」
目を伏せ、乾いた唇を舐めた。
「わしは、自分のことしか頭になかった。その所為で大切な者を、深く傷つけてしまった。己に向けられた想いにも、答えることが出来ないでいた。それがたとえ、大切な弟弟子であっても」
「父上……」
「だからわしは、御主に警告しておるのじゃ。御主には、わしと同じ道を歩ませたくないのじゃよ」
歩み寄り、ぽんっと肩を叩いた。
保憲が、顔を上げる。曇りのない凛とした彼の表情は、かつて愛した女が最期に見せたそれと酷似していた。
――紅華よ。わしには一体何が出来る。
あふれ出しそうになる激情を抑え、言葉を紡いだ。
「それがわしから紅華への、唯一の償いじゃ」