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第八章 春の夜の咎



一.



「では、失礼します」

 忠行《ただゆき》の寝屋から出た瞬間、心地いいそよ風が保憲《やすのり》を包んだ。寝屋中に立ち込めていた薫物《たきもの》の香りでぼんやりとしていた思考が、急速に覚醒してゆく。

ふと、朝餉の匂いが鼻腔を擽る。途端に、腹の虫が高々と存在を主張した。

まだ食事の時間ではない。だが、保憲の頼みとあらば調理場の者達は喜んで朝餉を差し出してくれるだろう。

――致し方ない。

衣擦れの音を響かせながら、保憲はゆるりゆるりと調理場に向かって歩きはじめた。

ふと。

『御主には大切な仲間がいる。一人で為《な》すのが難しいことでも、仲間の協力があれば出来ぬことはない』

 脳裏に、忠行の言葉が蘇った。

「大切な、仲間か」

 ぼつりと一人ごちた唇に、微かな笑みが灯る。忠行の言いたいことはよくわかっていた。

 ――分かっております、父上。私は恋情に呑まれなどしない。仲間を傷つけはしない。もう、二度と。

そう誓っていた。

……筈《はず》、なのに。

『護白のことは信じて、わてのことは信じてくれへんねん』

 自分と酷似した顔を歪ませた、青い群青の髪を持つ男が頭に浮かんだ。

 ……どくん。

 心臓が嫌な音を立てて痛んだ。

――愚か者は私の方であったな、歪《ひずみ》よ。

自然と、足が止まっていた。もはや、食事を楽しむ気分ではない。

やはり朝餉は、後にするか。

そう思い直して踵《きびす》を返した瞬間――。

「――よう」

 一瞬前まで思考の大部分を占めていた男が、目の前にいた。

「な……っ」

 突然のことに頭がついていかず、保憲は瞠目《どうもく》したまま固まった。

「なーにらしくもない阿呆面かましてんねや!」

 頭を強い力で叩かれ、漸く我に返る。

「全く、その阿呆面拝むわての気持ちも考えろっちゅうねん。まあ姫さんのなら寧ろ何回でも拝みたいけ、ど……」

 早口で捲くし立てていた歪の声が、ふいに途切れた。

 保憲の腕が、彼の身体を包み込んでいた。

「……歪」

 唇が紡いだ言葉は、普段の自分からは考えられぬほどに穏やかであった。

「身体の具合は、大丈夫か」

「お、おん。もうすっかり元通りや」

「そうか」

 小さく呟き、保憲は口を閉じた。

 沈黙が流れる。

 それに耐えかねたのか、歪が身をよじり始めた。

「っていうか、いい加減離せや。男同士で抱き合うなんて気色悪いやろ」

「――先日は、すまなかった」

 遮るように謝罪を口にする。歪の動きが、止まった。

「え?」

「仲間を疑うことは私にとって忌むべきことだ。なれど」

 歪の肩を掴み、引き剥がす様に身体を離した。

「仲間を傷つけることは、最もしてはならぬことだ。だが私は、貴様を……大切な仲間を酷く傷つけてしまった。貴様に怒る資格なぞなかった。愚か者は、私の方であったのだ」

「やっすん……、もうええんや」

「なれど、私は」

「もうええって。わても悪かったんや。護白のことで頭がいっぱいになってしもうて周りが見えなくなっとった。大した証拠もあらへんのにな」

 にぃっと口角を上げ、保憲の肩を強く叩いた。

「せやから、やっすん一人が悪いちゅう訳やない。おあいこや」

「……おあいこ」

 じんじんと痛む肩を擦りながら、呟いた。

「ま。やっすんと仲良うしとかな、椿樹《つばき》に怒られそうやし。それにやっすんのこと頼んだって、託されたからな」

 風で、群青の髪が揺れる。伏せられた瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。

「椿樹は護れへんかったけど、やっすんだけは失いたくない。式として、しっかり支えてなあかんのやから、喧嘩なんてしてられへんわ」

「何を言うか」

 ふっ、と小さく笑む。

「貴様に護られるほど私は弱くない。寧ろ、私が護らねばならぬ」

「なっ、その言葉そっくりそのままお返しするわ!」

「ほう。私の呪《じゅ》で、一晩中寝込んでいたのは何処のどいつであったか」

「くっ、かわいくないなあ自分! もう仲直りなんてやめや、やめ! この高慢ちき堅物野郎!」

 捨て台詞を吐き、くるりと踵を返して立ち去ろうとする。そんな歪の背中に向かって、呼びかけた。

「喧嘩をしている場合ではなかったのではないのか」

 ぴたり、と立ち止まった。と、思いきや、どずどすと乱暴に足音を立てて此方へ戻ってきた。

 その様が何故だか変にかわいらしく思え、思わず頭を撫でた。

「な、何や」

 棘のある声を発しながらも、手を振り払うことなく大人しく撫でられている。

「貴様、かわいいところもあるのだな」

「な!」

 思ったことを正直に口にすると、歪の顔がみるみるうちに赤く染まった。

「ややや、やっすんの癖に何を顔に似合わんこと言ってんねや! だだだ大体、野郎にかわいい言われても嬉しくないっちゅうねん!」

「その割には顔が赤いが」

「うっさい!」

 屋敷中に、歪の怒鳴り声が響き渡る。

 その刹那であった。

 腹の虫が空腹を訴える音が、聞こえた。

 ――そういえば、腹が減っていたな。

 見ると、歪もばつが悪そうに腹を擦っていた。

「――やっすん、調理場は何処や」

「ほう、私のような高慢ちき堅物野郎と一緒に食事を供にしても平気なのか」

思わせぶりにため息を吐くと、歪がぎょっとして問うた。

「なっ、まだ根に持っていたんか、自分」

「無論だ」

「や、あんなのほんの冗談やないか。そないに気にするなんてらしくないで?」

「知らなかったぞ、貴様にそう思われていたとはな」

「やっすん……!」

「ふん、何をそんなに焦っておるのだ歪。……ほんの冗談ではないか」

 沈黙。そして、数秒後。激昂《げきこう》した歪の声が轟いた。



二.



 その夜。

 高らかに響く笛の音が、保憲を覚醒させた。

 ――何だ。

 がばりと身体を起こし、御簾を上げる。

 庭園の中に、人影を見た。

 女であろうか。

 今宵の月は雲に隠されているらしく、辺りは闇に呑まれてしまっている。

 かろうじて、背中まで下ろされた黒い髪が風に靡く様が、見えるのみである。

 女は保憲に気付かないらしく、一心不乱に笛を鳴らし続けていた。

「誰ぞ」

 低い声で、問う。笛の音が、止まった。

 瞬間。

 それまで群雲《むらくも》に包まれていた月が、顔を出した。

 月光が、人影を照らした。

 蜜色の瞳と目が合う。薄い唇が、小さく言葉を紡いだ。

「保憲……」

……晴明であった。

浅葱色の薄物に身を包んでいる。烏帽子を脱ぎ、長い黒髪は結わずに下ろしていた。

薄物から透けて見える肌は、桜の花弁を落としたかのようにほんのりと赤い。

その姿からは溢れんばかりの色気が感じられ、実に艶かしく思えた。

慌てて視線を逸らす。顔に熱が集中するのが分かった。

――相変わらず、危機感の足りない奴よ。以前、警告した筈なのだが。

初めて契った夜のことを、思い出す。肌で感じた温もりや感触が鮮明に思い出され、顔が余計に熱くなった。

――何を考えているのだ、私は。恋仲であるとはいえ、かように煩悩《ぼんのう》に塗れたことを……。

「――くしゅんっ」

 保憲の思考は、小さなくしゃみによって途切れた。

 見ると、晴明の身体が小さく震えていた。

 咄嗟に、寝床から衾《ふすま》を持ち出し、庭園に降り立った。

「そのような格好では身体を冷やすぞ」

 ふわりと、晴明の肩に掛けてやる。

 晴明は一瞬だけ目を見開き、微笑んだ。

「ありがとう」

「……、風邪を引かれたら困るのでな」

ふい、とそっぽを向いて呟く。晴明の顔が直視出来なかったのだ。

 ――また一段と、綺麗になった。

 少し前までは。

 晴明と結ばれるまでは、そうした彼女の変化を喜ぶことが出来なかった。

 だが今は。

「――保憲、何を笑っているのだ」

 晴明が、訝しげに問う。

 何でもない、と答えると、不機嫌そうに頬を膨らませた。

「目が笑っているぞ」

「錯覚だ。疲れておるのだろう、子供は早く寝ろ」

「こ、子供扱いするな! 俺はもう十九だぞ!」

 顔を真っ赤にして喚く晴明の頬を摘み、左右に引っ張った。

「なっ」

 見開かれた瞳を睨みつけ、囁くように言った。

「ならば、自覚しろ。晴明」

「じ、かく?」

「そうだ」

 晴明の手元に、視線を向ける。葉双《はふたつ》が、大事そうに握られていた。

 不快感が、胸に押し寄せた。

「貴様が、女だという自覚をな」

私の、と付け加えそうになるのを堪えつつ、晴明から手を離した。

頬が、僅かに赤く腫れていた。

 それが少し痛々しく思えて、気がつくともう一度顔に手を伸ばしていた。

 いたわるように、ゆっくりと頬を撫ぜてやる。

 びくっ、と晴明の身体が跳ねた。だが、抗おうとはしない。寧ろ身を委《ゆだ》ねようとしているのだろう――緊張した面持ちで目を閉じた。

「晴明」

 顔を、近づけた。晴明の睫《まつげ》が小さく震えているのが分かる。

「これ以上私を、嫉妬させるな」

「え」

 小さくおどろいた声を上げて、晴明が目を開く。

 瞬間、唇が重なった。

 晴明の手が、おずおずと背中に回される。保憲も負けじと、強く抱き締め返した。

 名残惜しげに唇を離すと、晴明が胸に顔を埋《うず》めてきた、

「ふふ、珍しいこともある。貴様が自分から素直になるとはな」

 くつくつと、腕の中で楽しげに笑う声が聞こえた。

「かわいいではないか」

「……貴様」

 言われなれぬ言葉に、思わず眉を顰《ひそ》めた。

 その、刹那だった。

「氷華《ひょうか》」

 呪《じゅ》を唱える声が、周囲に響いた。

 ――この声は。

 瞬時に晴明を抱き寄せ、懐から札を取り出した。

 呪を唱えようと口を開いた。

「保憲!」

 晴明が金切り声で叫んだ。

 見ると、地面が全て氷で覆われていた。足までもが凍らされており、動けない。

「これは、道満《どうまん》殿の術の筈だ……、一体誰が」

「喋っておる暇はないぞ、晴明」

 晴明を抱く手に力を込め、口元を歪ませた。

「貴様を狙う、刺客のご登場だ」

 札を挟んだ人差し指と中指を立て、頭上に掲げた。

 翡翠色の光が、瞳に宿る。強い風が吹き、袖がひらひらと靡いた。

「焔《えん》!」

 瞬く間に、あたり一面が炎に覆われた。じゅうっと音を立てて氷が解けてゆく。

 その中から、ゆっくりと此方《こちら》へ向かってくる人影が見えた。

「……保遠《やすとお》、やはり貴様か」

 晴明を庇うように、立つ。

 抜刀し、鋭い眼《まなこ》で睨みつけた。

 一方の保遠は、保憲とは対照的に、微かな笑みを浮かべていた。

「ふん、久し振りに会ったというのに随分とつれないのだな。兄上よ」

 兄上。

 もう呼ばれることはないと思っていた呼称《こしょう》が、耳を通る。

 激しい怒りが、身体中を駆け巡った。

 地面を蹴り、駆け出す。

 刀を振り上げ、叫んだ。

「私を、兄と呼ぶな。貴様に、母を殺し、一族を裏切った貴様に……私を兄と呼ぶ資格なぞない!」

 一瞬。

 保遠の瞳が見開かれた。戸惑っているような、表情だった。

 ――何だ、その表情《かお》は。

 保憲は一瞬気を取られ、刀を持つ手を緩めた。

「保憲!」

 晴明の、声が聞こえた。

「ぐっ!」

 腹部の凄まじい痛みと圧迫感で、息が止まった。

視線を、下ろす。

保遠の杓杖《しゃくじょう》が腹に減り込んでいた。

「言われずとも、己《おれ》は貴公を兄と思っておらぬわ」

 めりめりと、身体が悲鳴を上げて軋《きし》む。

「ごほっ、がはっ」

 赤黒い血反吐が、地面を汚した。

「今の己にとって貴公は、目的の邪魔をしてくるだけの只の虫けらだ」

「貴、様……」

 ぎろり、と睨みつける。

「何だ、その目は」

 すう、と鳶色の瞳が細まる。

「目障りだ、失せろ」

「ぐあっ!」

 杓杖で、身体を突き飛ばされた。

「保憲!」

 地面に叩きつけられる前に、晴明が受け止める。

「大丈夫か、保憲!?」

 必死に声を掛ける彼女の目に、涙が溜まっている。

 嗚呼、また泣かせてしまった。

次第に薄れてゆく意識の中で、そうぼんやりと思った。

痛みを堪え、口を開く。

今は、晴明を救うことだけを考えねば。

自分のけがなぞ、どうでも良い。

「晴明……、逃げ、ろ……!」

「え」

「奴は、貴様を……殺しにきたのだぞ……」

「――その通り」

 頭上から、声が響いた。

 保遠が、近くまで来ていた。

「本当は、もう少し時間をかけようと思っていたのだが。今回の依頼主は酷く我侭《わがまま》なのでな」

「っ!」

 晴明が大きく息を呑む音が聞こえた。

 そして保憲を守るかのように、抱き寄せた。

「何故、貴様は俺を殺そうとするのだ……!」

「ふん。今から死にゆく貴公には、関係のないこと」

「言った筈だ。貴様に殺されはせぬと」

 晴明の瞳に、蒼い炎が灯った。

 ぶわり、と。

 霊気が吹き荒れ、晴明の肩から地面に落ちた。

「保憲が居る限り、俺は死なぬとな!」

 力強く言い放った晴明を見つめ、保憲は目を細めた。

 ほんの一瞬前までは、腕の中で甘い口付けをされるがままに享受していたというのに。

 今は、大の男でも気圧されそうな勇ましい表情をしている。

 ――晴明、貴様は本当に不思議な女だ。

 くすりと、小さい笑い声が漏れた。

「ふふん」

 保遠もまた、兄と同じように笑みを浮かべた。

「やはり、面白い奴だな貴公は。このまま殺してしまうのは惜しい」

「なれど、俺を見逃しても此処から無事で帰れると思うでないぞ」

「ほう」

 晴明は保憲をそっと地面に横たえ、身構えた。

「保憲にけがを負わせた者を簡単に許すほど、俺は優しくない」

「ふん、言うてくれる」

 風が、吹き抜けた。

 二人は、睨みあったまま動かない。

 相手の隙を窺《うかが》っているのだ。

「はあああっ!」

 晴明が、動いた。

振り上げた刀身が、杓杖で受け止められた。

「ぐうう……っ」

 晴明は小さく呻いたが、力を緩めようとはしない。

 歯を食いしばり、保遠を睨みつけている。

 ふと、保遠の力が緩んだように見えた。

 目を見開いて、呆然としている。心なしか、頬が赤いように見えた。

 それに気付いたのか、晴明の瞳が妖しく光った。

「漸《ぜん》!」

 刀を握る指先から、蒼い光が放たれた。

 刃物の形のそれが、保遠の身体を貫いた。

「ぐっ!」

 かしゃん、と音を立てて保遠の刀が落ちた。

「貴様の負けだな、保遠」

 晴明は、すうっと双眸《そうぼう》を閉じ、刀を納めた。

 同時に、保遠を貫いていた光も消えた。

「げほっ、ごほっ」

「……どういうつもりだ」

 膝を付いて咳き込む保遠を、晴明が冷やかな目で見下ろす。

 その声色は静かではあるが、強い怒りが感じ取れた。

「何故、貴様は本気を出さなかったのだ。貴様は、本当に俺を殺す気があるのか」

「何が……、言いたい」

 晴明は、すっと瞼を伏せた。

「貴様、本当は俺を殺したくないのではないか」

「――何を、言っているのだ。晴明」

 保憲は思わず会話に割り込んだ。彼女の言っていることが、信じられなかったのだ。

「今まで、保遠と俺が二人きりになることは多々あった。俺を殺す好機《こうき》なぞ、いつでもあった筈だ」

「ちぃっ」

 保遠は視線を晴明から逸らし、小さく舌打ちをした。

「貴様は一体、何を考えているのだ」

「……貴公の、思い違いだ」

「何」

 保遠はよろよろと立ち上がり、背を向けた。

「貴公を今殺すのは惜しいと思った。それだけのことぞ」

 ふらついている身体とは対照的に、声色はぞっとする程に殺気立っていた。

「……晴明」

 鳶色の目がぎろりと、晴明を睨《ね》めつけた。

「己は貴公をけして逃がすつもりはない。よく肝に銘じておけよ」



三.



 ……そう、あれは丁度桜が咲いて初めて雨が降った夜だった。

 私は、椿樹達と共に、母上の看病に寝屋へ向かったのだ。

 雨で湿った外を歩く訳だから、身体中がべとついて気持ち悪かった。

 でも、三人でいつものように下らぬ話をしながら歩いていた。不思議と、いつものよいうに不機嫌な顔をしようとも思わなかった。

 ただ、母上に早く会いたい。元気にしたい。

 それだけで。

 それだけで、母上の寝屋に向かったのに。

「……良いこと、保憲。保遠の、こと頼んだよ……。それ……と、あの子のこと、恨まないで……ちょうだい、ね。あの子に、は貴方が、必要なの……よ」

 母上は、血塗れになっていて。

 只、父上が犯した重たすぎる業《ごう》を語り、保遠の許しをひたすらに請うて亡くなった。

「今まで、ごめんなさいね……、貴方を……愛して、いるわ。保憲」

 最期に見た母上は、悲しげに、そして美しく笑っていた。

 なれど、母上が申したことを鵜呑みになぞ、出来なかった。

 出来る筈もなかった。

「保遠……、今何て」

「分からぬなら、もう一度言おうか。母上は、己が殺した」

 賀茂家から。父上から。

 私から母上を奪ったのは、紛れもなく保遠だったのだから。



「母上っ!」

 自分の声に愕いて、保憲はがばりと起き上がった。

 冷や汗が、じっとりと身体を濡らしている。

 息は乱れ、目尻から涙が一筋、伝い落ちていた。

 ――また、あの夢……。

 保憲は髪をわしゃわしゃとかき乱し、ため息を吐いた。

 ……保遠に再会したあの日以来、頻繁に見るようになった。

 母と弟を失ってしまった、あの夜の夢を。

 御簾を上げる。

雨が降っているのが見えた。

まだ、辺りは暗い。

真夜中であった。

「雨、か……」

 小さく、呟いた。

「そうやなー。ていうか自分、もう立ち上がって大丈夫なん? けがしたんやろ?」

「――っ!」

 突然背後から聞こえた声に、身体がびくついた。

 咄嗟に振り返り、ぎろりと睨みつけてやる。

「歪、角虫のように何処からともなく現れるな」

「うわ、酷い奴やな。わては角虫と一緒かい」

「では角虫以下だ」

「なお悪いわ!」

 これ以上喋るのが面倒になって、歪のつっこみに返答することなく外を見た。

 沈黙が訪れた。

「――えらいう魘《うな》されとったな」

 答えずにいると、歪の遠慮がちな視線を感じた。

「姫さん、心配しとったで。けがの所為じゃないかって」

「……そうか」

 再度、静寂が二人を包む。

「姫さんがこれ以上気に病まへんよう、自分も早よその辛気臭い顔やめや。見ているこっち迄《まで》気分が沈むわ」

「歪、貴様」

 ぴしり、とこめかみに筋が浮かんだ。

「な、何やほんの冗談やないか」

 慌てて歪が両手を突き出す。

 構わず、手を伸ばした。

「ひっ」

 歪の肩がびくりと跳ねた。

 ぽんっと軽く頭を叩いた。

「……へ?」

 涙を浮かべた瞳が、此方を見つめる。

 その様がまるで小さな童のようで、柄にもなく噴出しそうになった。

「まさか、貴様に励まされる日が来るとはな」

「や、やっすん……?」

 歪は面食らっているのか、目を白黒させている。

 少し照れくさくなって、そっぽを向いた。

「か、感謝する」

「お、おう」

 歪も恥ずかしいのか、保憲から視線を逸らした。

「やっすんってば、普段もそんなんだとええのにな」

「どういう意味だ」

「今のやっすん、表情が凄く優しいんやもん」

「……莫迦《ばか》」

 むきになったのか、歪が立ち上がった。

「ほ、ほんまやで! 普段のしかめっ面より断然かっこええで! ま、わてには負けるけどな。こんな時、姫さんが羨ましいわ」

「奴は特別だ」

「惚気《のろけ》か、自分」

「ああ、悪いか」

「うわ、むかつく。認めやがったわ」

 成敗やで、と首を絞めようとしてくる歪を押しのけ、御簾を潜った。

 雨は、まだ降っている。

 だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。

「保憲!」

 声が、聞こえた。

 向かい側の渡殿《わたどの》から、晴明が駆けてくるのが見えた。

 ――もう、悪夢を見る必要はなさそうだ。母上。

 近づいてくる想い人を待ちうけながら、保憲は頬を緩ませた。


今回は姫さんが珍しく男前でした(*ノv`//)

最近歪とやっすんの絡みがすきです笑

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