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第九章 桜色の記憶よ、紅涙となり消えろ



一.



保遠やすとお

 声が、聞こえた。

 振り返った、刹那。

 ふわり。

 薄桃色の花びらが、宙に舞い上がった。

 思わず目を細め、袖で顔を覆った。

 ……花嵐であった。

 その中で、一人の女が柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

 肌は、透き通るように――今にも消えてしまうのではないかと錯覚する程に、白い。

 おぼろげな、霞を思わせる女だった。

「母上!」

 名を叫び、とてとてと覚束おぼつか無い足取りで駆け寄った。

「あらあら。転んでしまいますよ」

 女はころころと声を出して笑い、飛びついてくる幼子を器用に抱きとめた。

「ほうら、御髪おぐしに花びらが付いていますわ。おまけにあちこち乱れてしまって……」

 風で乱れた保遠の髪を、手櫛で丁寧に整える。

 それが余りにも心地よくて、保遠はうっとりと目を閉じた。

「母上」

「はい?」

 頭を撫ぜ続ける女の手に、自分のそれを重ねた。

「僕の髪は何故黄金色なの? 僕、母上と同じ黒髪が良かったのに」

 女はきょとん、として保遠を見つめた。

「あら、どうして? 貴方の髪はとても綺麗なお色をしているではありませぬか」

「――僕はこの髪色が嫌いだ!」

 保遠は語気荒く言葉を遮った。

 涙が零れそうになるのを堪え、目を伏せる。

 ……物心ついた頃から、そうだった。

 和人わじんには馴染みのない、黄金色の髪。

 それを異常だと恐れ蔑む者は五万と居たに違いない。が、なんといったって天下の大陰陽師と謳われている賀茂忠行の息子だ。

 大人達は、表面上は保遠のことを大切に扱っていた。

 しかし、影で何を言われているかくらい、子供の保遠でも分かった。

「私は、この髪が好きよ」

 はっ、と顔を上げる。

 女の指先が保遠の目尻を拭った。

「忠行殿を初めて見た時、綺麗だと思った。何もかもを暖かく包み込んでくれるその色に私は魅かれたの」

 女は続けた。

「他の人は、自分達と違う色だからって良い顔をしないかもしれない。でもね、保遠。いつか、貴方の髪を好きになってくれる人が現れるわ。その人はきっと誰よりも貴方のことを愛して、誰よりも貴方を分かってくれる」

「本当に? その人は、母上とも仲良くなれるかな」

「ええ。きっと、ね」

 保遠は、やったあ、と顔を輝かせた。

「じゃあその時は母上も一緒に遊ぼうね」

 女は一瞬だけ目を見開き、笑った。

「勿論よ、保遠」

 眩しい、笑顔だった。

 父や兄、そして自分の髪色よりも暖かで。綺麗で。

 思わず、見惚れた。

「愛する貴方の、大切な人ですもの」

 いとおしげに呟いた彼女の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。

 “紅華”。

 その名がこれほど良く似合う人はいない。

 つられて顔を赤くしながら、保遠は幼いながらに思った。



「――何の夢を見ていたでござるか」

 護白ましろの問いに、保遠は眉を顰めた。

 寝起きで、しかも夢見が悪かった。機嫌の悪さは今、最高潮だ。

 ちっ、と小さく舌打ちをする。

 逆さまに映る天井から、枕元へと視線を移動させた。

「何の話だ」

「いや、先程の御主の寝顔が随分と穏やかだったのでな」

「貴公には関係のない話よ」

 胸元に重みを感じた。見ると、白い猫がふすまの上でごろごろと喉を鳴らしている。

 猫と化した、護白である。

 保遠は鬱陶しげに護白を払いのけた。

 ――何故、今更かような夢を。

 ゆっくりと起き上がる。

 額に掛かった金糸が、視界に映った。

 頭に手を遣ると、短い髪が指先に絡みつく。

『私は、この髪が好きよ』

 夢の中で見た笑顔が、脳裏を過ぎった。

 ――母上、申し訳ありません。己は、貴女が望むような幸せを手に入れることなぞ、出来ませぬ。

 母を手に掛けて直ぐ、髪を切った。

 母に褒められた髪が、自慢だった。その髪をもう、汚い血で染めるのは嫌だったのだ。

 それが、唯一の償いであった。

 罪を犯してしまった自分には、母が思っていたように生きることなぞ、出来ないのだから。

 幸せ、という言葉は最も忌むべきものなのだから。

「辛くはないのでござるか、今回の任務は」

「な……」

 思わず、護白を凝視する。

 護白は、やはりか、と苦笑混じりに呟いた。

「辛いのは当たり前でござるな。未だ賀茂家への罪悪感が消えておらぬのでござる。故に御主は殺しを仕事にしているのだからな。人を殺すことで、自分が不幸になることで、罪を償おうとしておるでござろう」

「――違う」

 居た堪れなくなり、護白の言葉を遮った。その声は、情けなく震えていた。

「何が違うでござるか。では何故今回の標的に手間取っておるのでござる。賀茂家が関わっておるからでござろう。それとも何か? もしや標的に妙な感情でも持ったか」

「黙れ」

 ぎろり、と護白を睨みつけた。

 だが彼は怯むことなく保遠を見つめている。

「やはり貴様も人間なのでござるな。感情を完全には消し去れぬか」

 頬に、手が触れた。

「顔が、赤くなっているでござるよ」

 かあっ、と頬に朱がはしる。

 素早く抜刀し、脇差を喉元に突きつけた。

「違うと、言った筈だが」

「ならば、早く安倍晴明を殺すことでござるな。藤原穏子ふじわらのおんしも我慢の限界のようだ」

「ああ」

 保遠は小さく頷き、脇差を鞘に納め、懐に入れた。

 瞬間。

 どくん、と心臓が跳ねた。

「がはっ、ごほっ、ぐ……っ」

 口元を押さえ、激しく咳き込む。

 赤い雫が、指の間からしたたり落ちた。

「御主、まさか労咳か」

 護白が、呆然と呟く。

「ああ。皮肉にも、な」

 ふっ、と自嘲気味に笑った。

 口元から、手を離す。

 見ると、鮮やかな紅色が掌の上でぬらぬらと光っていた。

 長い間自分を戒めてきた、死の色。

 自分が生きていることを示す――深いごうを示す色。

「己には、この色が良く似合う。そうは思わぬか」

 ぎゅっ、と。

 痛いほどに手を握り締めた。

「なあ、母上」



二.



「はあ……」

 晴明は、また一つため息を吐いた。

 昨晩の出来事が脳裏をちらついていた。

 ――保遠の奴は何を考えているのだ。

 晴明は深く眉を寄せた。

 ――俺を保憲から奪うといってみたり、かと思えば手に掛けるのをためらってみたり……。

 そして。

 何よりもわからないのは、時折彼が見せる表情。

『乱暴な真似をしたな、すまぬ』

『やはり、面白い奴だな貴公は』

 あれは人を殺そうとしている人間のものではない。

 そう、例えるならあれは――。

「俺を見る保憲と、同じ表情……?」

 ばかな、と小さく呟いた。

「何を言っているのだ、俺は」

「――本当にな」

 ごつり、と頭に鈍い衝撃が奔った。

 そろそろと、目線を上げる。

 檜扇ひおうぎを片手にした鬼が、此方を見下ろしていた。

「私との座学中に何を上の空になっておるのだ」

「す、すまぬ」

 昼下がりの陰陽寮。

 宮務をいち早く終えた晴明は、保憲と勉学に勤しんでいた。

 学生である陰陽得業生おんみょうとくぎょうしょうは、こうして陰陽助の指導を受けることがざらにあるのだ。

 無論、恋仲になる前は保憲に指導を受けることはめったになかったのだが。

「ふん、大方保遠のことでも考えておったのだろう」

「うっ」

 ぎくり、と身体を竦ませる。

 保憲は、分かりやすい奴だな、と苦笑した。

「余計なことを考えるな。前も申したろう。保遠には手出しさせぬ。貴様はこの私が護る故、何も案ずることはない」

「保憲……」

 保憲の鋭くも優しげな眼差しが、晴明を包む。

 安心するような、心地のよい暖かさが胸を満たした。

 思わず、顔が綻んだ。

 ――そうだ。俺には保憲がいる。

 保憲がいる限り、晴明の居場所は変わらないのだ。

 誰に何を言われようとも、どう思われようとも。

 保憲の隣にいれることが、一番の幸福であり、生きる糧なのだから。

「有難うな」

 ふうわりと、笑みを浮かべる。

「……、ああ」

 此方を見つめる保憲の視線が、僅かに熱を帯びる。

 端整な顔が、ゆっくり近づいてきた。

 はらり。

 柔らかな金糸が、晴明の頬に掛かった。

「――お取り込み中悪いんやけど、お邪魔するで」

「ひゃっ!」

 突然、背後からぐいっと肩を引き寄せられ、晴明は小さく悲鳴を上げた。

「全く最近の若い者は昼間から節操もない。幾ら倦怠期から抜け出したからいうて、あまり調子に乗りなさんなや、ご主人サマ」

 歪であった。

 わざとらしいすまし顔で保憲を見つめている。

 保憲は呆れ混じりにため息を吐き、歪を睨んだ。

「何用だ」

「あらら、言い返さへんの? 珍しい。調子に乗っていたのは事実とか?」

 ぴしっ、と保憲の額に筋が浮かぶ。

 懐から札を取り出し、歪の眼前に突きつけた。

「……何用かと訊いておるのだが」

 鋭い双眸に翡翠色の炎が宿る。

 殺気で、部屋中の空気が凍りついた。

「あ、あはははは」

 歪は乾いた笑い声を発しながら、冗談やないか、と肩を竦めた。

「実は、やっすんに客人が来ているんや」

「客人?」

 保憲が、訝しげに眉を顰めた。

「友人もおらぬ保憲にか? ふふ、珍しいな」

「笑うな、晴明」

 晴明が笑うと、保憲が決まり悪げに咎めた。

 そこへ、するすると衣擦れの音と共に客人が姿を現した。



「何故貴様が此処へいるのだ」

「こら、無礼だぞ」

 不機嫌を隠そうともしない保憲にはらはらしながら、晴明は内心嘆息した。

 その向かい側で、源博雅みなもとのひろまさが円座に腰掛けていた。目にも涼しげな白い直衣のうしをさらりと身に纏っている。

「はは、相変わらずだな。保憲殿は」

「気安く名を呼ぶな」

「保憲! 口を慎まぬか!」

 思わず声を荒げる。

 すると、保憲はぷいっとそっぽを向いてしまった。

 まるで、童のようである。

「姫さんのことになると、やっすんって結構子供っぽくなるんやね」

 歪がにやにやしながら、保憲の肩に寄り掛かった。

「んもう、かわいいとこあるんやから」

「――ね!」

「ぎゃっ!」

 鼻を思い切り拳骨された歪が、床の上で悶絶する。

 博雅が、首を傾げて晴明に問うた。

「保憲殿はどうかされたのか? 羽虫でもいたか?」

「え、まあ」

 晴明は言葉を濁しつつ、視線をゆっくりと逸らした。

 ……歪達、式神は、晴明や保憲のようなある程度の霊力ちからを持った者にしか視ることも出来ぬし、使役することも出来ぬ。

 故に、何の霊力もない博雅には歪が見えていないのだ。

「ところで、博雅。用件は」

 晴明が訊ねると、博雅は、ああ、と小さく頷いた。

 心なしか、顔が赤い。

「お前たちは、朱雀帝と仲が良いそうではないか。俺も帝とは幼い頃からの腐れ縁でな」

「……別に仲が良い訳ではない」

 むっつりと保憲が呟いた。

「奴が勝手に関わろうとするだけだ」

「そういえば、最近帝を見かけなくなったな」

 晴明が言うと、博雅が身体をずいっと乗り出してきた。

「そこなのだ、本題は」

「は、はあ……」

 勢いに気圧され、思わず顔を後ろへ逸らす。博雅も我に返ったのか、慌てて身体を引っ込めた。

「み、帝は最近内裏の中に籠もりきりでな、女房とすらめったに顔を合わせようとしないのだ」

 語り出した博雅の瞳に、憂いが帯びる。

「食事もまともに摂っておらぬらしくてな。たまに見かけはするのだが、別人のようにやつれておられる」

「帝に、何があったのだろうか」

「俺もそれが知りたくて、お前たちを訪ねたのだ」

 晴明は顎に手を添え、思考をめぐらせた。

 だが、全く心当たりがない。

「否、俺にも分からぬ……」

「ただ、な」

 博雅が、口を開く。

「どういう訳か、藤原穏子様は近頃不気味な程に元気なのだそうだ」

「――藤原穏子様とは、帝の母宮であったな」

 ふいに保憲が問う。

「ああ。先帝の中宮でもある御方だ。先帝とご子息が祟りで亡くなったことは知っておるだろう? 元々は聡明でお優しかったのだが、ご子息や先帝が亡くなってからすっかり変わってしまってな。一時は怨霊にとり憑かれておるのかと疑うほどに、思いつめていらしたのだ」

 晴明は唇をきゅっと噛み締めた。

『お願いだ。俺を置いて、何処にも行くな』

 以前見た、帝の寂しげな表情を思い出す。

 心臓が、ずくりと嫌な音を立てた。

 ――まさか、帝の身に何かあったのか……?



 三.



「はあ……ってまたか」

 今日はため息を吐いてばかりだ、と晴明は内心苦笑した。

 夜の帳が落ち、辺りは闇に包まれていた。

 道が、死骸や糞尿で溢れている。

 華やかな京に潜む、陰の世界。

 晴明はその中を一人、歩いていた。

 行き先は、内裏である。

「帝は、無事であろうか」

 小さく、呟く。

 幼い頃に母と契りを結んだとは聞いた。だが、今も、だとしたら。

 中宮が、今も帝に贖罪しょくざいを求めているのだとしたら。

 ――帝は今、酷く苦しんでおるのだ。

 救うだなどと、傲慢なことは考えていない。

 ただ、放って置く訳にもいかぬ。

「何故、貴方が苦しむ必要があるのですか。帝……」

 紡がれた言葉は、深い闇に溶けていった。

 それは、終わりのない帝の苦しみを、暗示しているかのようであった。





「賀茂保憲と安倍晴明は、どのような関係だ」

「あら、こんな時に男色の話?」

 保遠が問うと、嬌声と荒い息を漏らしつつ、女は艶やかに笑った。

「僧なのに、色恋話に興味があったりするのね。この生臭坊主」

「そんな生臭に向かって股を開いて悦がっている貴族に言われたくないな」

「まあ、酷い言い草」

 女はくすくすと袖を口元に当てて笑った。

「それにしても、貴方って似ているわね」

 女の指が、髪を撫ぜる。

 金色が、はらりと衾に落ちた。

「……、誰にだ」

 女の厚い唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「賀茂保憲様によ」

「――ほう」

 すう、と目を細める。

 次に耳にする言葉は分かりきっていた。

 どんなに足掻いても、血の繋がりは隠せるものではない。

「もしかして貴方、賀茂家と関わりがあるのではなくて? そういえば、忠行殿には二人の息子がいたと耳にしたことがあるわ」

 女の声が、微かに震えた。

「その一人は保憲様。もう一人は母君が病死したその日に姿を消したと言われているの。噂では、その子が殺して逃げたのだとか」

「子供の名前は」

 女はすっ、と保遠から視線を外した。

 触れ合った肌越しに、冷や汗が流れるのを感じた。

「貴方が、賀茂保遠なの」

「だとしたら」

「な、何故平安京に戻ってきたの。何の為に殺したの……っ!」

 女の言葉が、途切れた。

 ごとり、と鈍い音を立てて身体が崩れ落ちる。

 首から噴きだした血が、床を赤く染めた。

「何の為に、か」

 刀を納め、呟く。

 くくっ、と乾いた笑い声を漏らした。

「解らぬよ、己にもな」

 血飛沫《》で濡れた僧衣を脱ぎ捨てた。

 死に顔を隠すように、女の身体に舞い落ちた。

 ……ふと。

 何とも言えぬ薫りが、夜風と共に運ばれてきた。

 ――これは。

 瞼を閉じる。

 蒼い光を放つ炎が、闇の中で爆ぜた。

「……晴明」

 唇が、静かに名を呼んだ。

「何故、此処に居る」

 瞬間、御簾が勢い良く跳ね上がり、晴明が入ってきた。

 白い狩衣に身を包んだ彼女は、鋭い眼つきで此方を睨んでいた。

「其れは俺の台詞だ。保遠。内裏で、何をしておるのだ」

 身体が、強い怒りでわなわなと震えていた。視線は、床の死体に向けられている。

 血と共に、白い液体が流れているのを見て、端整な顔が微かに歪んだ。

「貴様……、何故かようなことを。貴様は一体何を考えておるのだ!」

 つうと涙が頬を滑り落ちた。

「俺を殺す為に貴様は京へ来たのだろう! ならば俺だけを殺せば良いではないか! 何故、何故……っ、貴様は俺を殺さずに他の者を巻き込んだ!」

 晴明はがくりと床に崩れ落ちた。歯を噛み締め、泣き声を漏らす。

 誰の為の涙なのか、保遠には解らなかった。

 ただ、何故か胸が僅かに痛くなった。

 ――何だ、これは。

 戸惑う間もなく、晴明に胸倉を掴まれた。

「答えよ! 貴様は一体何を考えておるのだ!」

 近くで見る泣き顔に、一瞬眩暈を覚えた。自分がかような表情をさせているのだ。

 苛立ちと共に、妙な高揚感を感じた。

「何も、考えてはおらぬ」

 晴明の背中に、そっと腕を回した。

「自分の務めを果たした迄のこと。貴殿以外の者を殺そうが殺さまいが関係ないだろう」

「貴様!」

 振り上げられた手を掴み、耳元に唇を寄せた。

「憤る場合があれば、状況を良く考えた方が良い。貴殿は、命を狙われておるのだぞ」

 はっ、と息を呑む音が聞こえた。

「まあ、今更気付いても遅いが」

 強い力で、晴明を抱き締めた。

 ふわりと香る薫りが、益々情欲を掻き立てる。

「あの女のようにしてやろうぞ」

 どさりと、床に晴明を叩きつけた。

「ぐっ!」

 呻く唇を、塞ぐように口付けた。

「や……っ!」

 僅かな痛みが、口の中に広かる。

 思わず、唇を離した。

「貴様は、やはり最低な奴だな。貴様にも、人間らしい感情があると思っていたのに」

 涙で濡れた瞳には明らかな失望と軽蔑の色が浮かんでいた。

「保憲の母上を殺したのにも理由があったのだろう、と。いつか賀茂家の者とも分かり合える日が来ると思っていた。俺が、間違っていたようだな」

 どくん。

 胸が、締め付けられる心地がした。

 違う、違うのだ。

 何故か、否定したい気持ちに駆られた。

 幾ら首を横に振っても何も変わりはしない。

 だが。

 晴明だけには、母を殺した理由を告げてでも。

 自分の信念を曲げてでも、見捨てられたくない。

 嫌われたくない。

 ――何を、考えているのだ。己にはまだ、愛されることへの未練があるというのか? 母上を殺しておきながら、俺は……。

 つう、と。暖かいものが、頬を伝う。

「……え」

 晴明の目が、見開かれた。

「……畜生」

 ぼそりと呟いた、刹那。

「ごほっ、がはっ」

 鮮血が、口から零れた。

「や、保遠!」

「……良かった、では……ないか」

 青ざめる晴明を見下ろし、ふっ、と小さく微笑んだ。

「己に、殺されなくて、済んだな」

 視界が、揺れた。

 晴明の上に倒れ込んだのだろうか。

 心地よい香りが、身体を包む。

「早く、逃げろ」

 その言葉を最後に、意識が途絶えた。


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