④外崎透は穏便に済ませたい
暗闇に目が慣れるまで数分待って、手元が見えるようになった頃合で行動を開始した。
まず、物干し竿を竿掛けから外す。
続いて、ジャージの上着を脱ぐ。寒い。
さらにジャージのズボンを、脱ぐ。
念の為に周囲と外に目を走らせ、誰も見ていないことを確認しながら―暗闇だから私の姿が見えるはずはないのだが―ズボンを下ろす。
下半身が強烈に冷える。
ズボンを脱いだだけで、こんなにも冷えるとは、意外であった。しかし驚くのも無理はないだろう。
何しろ下着で外に出ること自体、初めての経験なのだから。
そして、長袖のシャツを脱ぐ。暗いから誰にも見えはしない、と自分を鼓舞して脱ぐ。暗いからか、羞恥心はそれほどでもなかったが。
しかし寒い。
私は今、靴下と下着以外、何も身に着けていない。
恥ずかしい格好をしているのだが、羞恥心よりも寒さの方が先に来る。晩秋の寒さがこれほどとは。服という存在に改めて感謝する必要がある。
感謝しつつ、脱いだ服を繋げていく。
長袖シャツの片腕と、ジャージの上着の片腕を結ぶ。続いて反対側の腕と、ジャージのズボンの片足を結ぶ。これで地上まで届きそうにも思えたが、不安だったのでズボンの反対側の足と物干し竿を結んだ。
物干し竿、ジャージズボン、ジャージ上着、長袖ジャツ。それらが一本の線のように一つとなった。そして、長袖シャツの、ジャージと結ばれていない方を、手すりに結ぶ。ここがもっとも体重のかかる部分だ。シャツよりもジャージを手すりに結んだ方が丈夫そうだったが、シャツの方が生地が薄いためより強く結べるはずと考えた。
再び、全ての結び目に力を入れ、強く結び直す。何度も力を入れてほどけないことを確認した。
用意は出来た。いよいよ、この擬似ロープを使って、ベランダを脱出する。
手すりから下を見る。
3階とはいえ、今からこの高さを降りるとなると、少し怖い。が、深夜という時間帯が私を勇気付けてくれる。下が暗くてよく見えないから、恐怖がいくらか緩和されているはずなのだ。
私は擬似ロープの先端にある物干し竿を持った。ゆっくりとそれを地上へ降ろしていく。
下は駐車場だが、降下地点は車が止まるスペースではなく、障害物はない。ジャージで出来たロープを操り、2階や1階のベランダに竿が入り込まないよう、慎重に操作する。
カツン、と小さな音が聞こえた。物干し竿が地上のアスファルトに到達した音である。
地上までの道筋は出来た。あとはこの擬似ロープを伝い、地上まで降りれば良い。
運動神経にそれほどの自信はなかったが、体重は比較的軽い。だから大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
手すりを両手で掴み、体を持ち上げる。続いて左足を上げて、手すりを跨ぐ。
手すりに跨り、両手は手すりを握る。下着越しに尻が手すりに当たり、冷たい感触に身を震わせる。
改めて住宅側を見る。誰も覗いている住人はいないようだ。いや、この暗闇では、たとえアパート側を見たとしても、私の姿は闇に紛れて見えないだろう。
見えない、という単語が私に勇気を与えてくれた。私は何事も穏便に済ませたいのだ。
手すりを跨ぎながら、そこに結ばれた長袖シャツの結び目を締め直し、安全を確かめる。
誰も見ていない。誰にも私は気付かれない。
そう自分を励ましつつ、ロープと化した長袖シャツを両手で握り締め、ベランダの外側へと身を投げ出した。
両手に自らの重みがかかる。身を乗り出した反動か、擬似ロープが少し軋んだ気がした。自分は身軽と思っていたが、いざ両手に体重がかかると、負荷が大きい。ポリエステル製のシャツは思いのほか滑り、腕力よりも握力の消耗を感じる。
私は両方の足の裏を腰壁につけて踏ん張った。
思い出す。そういえば、いつか見た消防士は、ロープで建物を降りる時、手ではなく足を動かしていた。足で壁を蹴りながら速やかに地上へ降りていたはずだ。
もっとも、それは避難用、救護用ロープの場合であり、私が自作した擬似ロープではあまり力を入れると切れるか結び目からほどけてしまうから、そう乱暴には降りられない。
両手でロープを握り軽く引く。壁と体の隙間を開けて、両方の足の裏を壁につけて踏ん張る。
そうするといくらか楽になる。
私はそこで初めてロープというものの本質を知った。ロープはぶら下がるものではなく、「使う」ものなのだ。両手でロープの向きを整え、体をしっかり支える。
いつまでもこうしてはいられない。下へ向かわなければならない。
ロープを握っている両方の手。そのうち、右手を離す。すぐに、先程握っていた位置よりも少し下を右手で掴みなおす。今度は壁につけた両足を、少しずつ後退させる。体の位置が、少しだけ下がる。そうした後、元の位置に残っていた左手を離して、右手と同じ位置に握り直す。
この繰り返しだ。右手を離して今の位置より下方のロープを握り、すり足で壁を移動して体全体の位置を下げ、残った左手を右手の位置まで持っていく。この繰り返しで、少しずつ、少しずつロープを伝って下へ向かう。
最初は寒いと感じたが、むしろ体は熱くなっていた。
身に着けているのは黒のパンツと靴下だけだというのに、ベランダの腰壁を伝い降りながら、汗が額を滑り落ちる。
擬似ロープを握る両手は摩擦で擦れてひどく痛んだ。踏ん張った右足を滑らせた時には右膝を壁に打ち付けて何とかバランスをとった。
焦ってはいけないが遅すぎてもいけないという独特な緊張感が心臓を震わせ、体力と共に精神力をも徐々にすり減らしていった。
2階の手すりに両足が着いた時は少し安心したが、2階の住人が今にもカーテンを開けてベランダを覗いてきそうで、休憩も間々ならなかった。
私の精神を支えているのはこの異様な状況であった。
夜中にパンツ一丁の自分がヘンテコな自作ロープでマンションのベランダを降下する。
この行為に、私の心は少なからず高揚した。
「なんで俺がこんな目に」と思いつつも、自分が選んだ行動であることは理解していたし、その核にはやはり「穏便に済ませる」があるのだ。
自らの行為が―パンツ一丁でロープを使って降下する行為が―「穏便」という言葉のイメージと乖離している気はする。
それでも、自分の行動の根底にはやはり「穏便」があるはずだったし、またこの状況を楽しんでいる自分に新鮮さをも感じていた。
今なら渡会明美の気持ちも少しは分かるかもしれない。何かが起きないことよりも、何かが「起きる」ことを期待してしまう気持ちが。
―地上に降りた時、私が感じたのはまず安堵であり、続いて疲労であり…そして不本意ながら、達成感を覚えていた。
自室から垂れ下がった擬似ロープは後で回収すれば良い。
エントランスへ行くことが最優先である。
私は鍵を持っていない。当然ながらそれは閉じられた自室内に置いてある。
しかしエントランスのメールボックスには私の部屋のスペアキーがあるはずだ。そこに辿り着きさえすれば。
パンツ姿を見られるわけにはいかない。誰かに見られたら通報は必定だ。しかし駐車場の周りに明かりはなく、照明が灯されているのはエントランスだけである。
駐車場からエントランスへ出る通路に身を潜ませ、エントランスの様子を伺う。この時間帯だと人と遭遇する確率はほとんどないだろうが、何事も偶然というものは存在する。
私は隅々まで目を凝らして観察し、エントランスに一切の人影がないことを認めると、全速力でエントランスへ向かった。
扉を開けて、まずは自分のメールボックスへ向かう。ここにスペアキーがあるはずだ。ダイヤルキーを回し、数時間前に帰宅した時と同様にメールボックスを開ける。
中は空であった。
勿論、承知の上である。不審者にスペアキーを取られないように、メールボックス内の上の面、部屋なら天井に当たる部分にガムテープで貼り付けてあるのだ。これなら不審者にメールボックスを開けられたとしても、見ただけでは分からない。
私はメールボックスに手を突っ込み、手の平を上に向けてガムテープが貼ってあるはずの場所を探った。
ない。
私はメールボックス内を隙なく手の平で探る。ない。どこにもない。手を出してメールボックスの中を目視する。どれだけ目を凝らしても、そこには何一つ存在しなかった。
…馬鹿な。そんなはずはない。
私は途方にくれた。ありえない。メールボックスの中には、スペアキーがあるはずなのだ。私の記憶は間違っていない。確かに私は、ここに越してきた時、メールボックスにスペアキーを仕込んだはずだ。
理由まではっきりしているのだ。
私はそれまで実家の一軒家に住んでいて、オートロックの建物に住んだ経験がなかったから、万が一失敗した時の予防線としてメールボックスにスペアキーを仕込んで…
…引っ越してきた時?私がここに引っ越してきたのは、大学入学時である。つまり、1年生の春で。
…そして渡会明美と付き合いだしたのは1年生の夏から。彼女とは様々な思い出がある。水族館や動物園でデートをして、誕生日プレゼントを贈りあって、―嫌な思い出だが―旅行をして。
―戯れに、合鍵を交換して。
…まさか。
メールボックスにスペアキーを仕込んだのは引っ越した直後。つまり1年生の春頃。一方、渡会明美と付き合い始めたのは大学に通いだしてしばらくしてから。1年生の夏頃。そして私は彼女と合鍵―スペアキー―を交換している。
まさか、貸したままなのか。彼女は今も、私のスペアキーを持っているのか。
そうだ。私は自分のスペアキーを使ったことがない。だから彼女に渡したまま、忘れていた…なんて…。
―そんな馬鹿なことが、ありえるのか?
頬に冷たいものが流れた。
最初はただ冷たいなと思った。
それが一筋の涙だと気付くのに数秒を要した。気付いた時には、止められなくなっていた。
これは一体何の罰なんだ。一体私が何をしたというんだ。
朝から大学へ通い、ゼミにも出席し、バイトのピンチヒッターを務め、家にやっと帰ってきたと思ったらベランダに閉め出されて、珍しく勇気を振り絞って、裸同然の格好で自家製のロープを伝い3階から1階まで必死に降りてきて。
その結果がこれか。これが私の努力の結果だというのか。
私は泣き続けた。年甲斐もなく涙が溢れてきた。自分が今、パンツと靴下以外何も身に着けていないことなど、どうでもよかった。
今までの人生の、何らかの「ツケ」が今やってきたのだと、泣きながら悟り始めた。
「きゃーっ」
だから、背後から決して控えめではない甲高い悲鳴が聞こえて、私は逃げたり隠れたりせず、無造作に振り向いた。
「もしかして、渡会?」
「何やってんの…透」
信じられない思いだった。そこには渡会明美が立っていた。
そういえば、帰宅した時に彼女とすれ違ったことを思い出した。飲み会でも行って帰ってきたのだろうか。しかし、そんなことはどうでもいい。
今もっとも会いたい人物に会えたのだから。
彼女にスペアキーを返してもらえば、万事解決する。いやむしろ、彼女という存在しか、解決する手段は存在しないのである。
「まるで運命みたいだ」
思わず呟いた私を無視して、彼女は「通報していいよね?」と訊いてきた。事情を説明して彼女が納得するまで、30分近くかかった。
「私も悪かったよ。そういえば合鍵返し忘れてた」
彼女の部屋の前で、私は自らの合鍵を受け取った。
「あんたも返してよ。うん、まあ、今はいいから。また近日中に」
彼女はパンツしかはいてない私の体を見て、躊躇ったように言った。
そのまま自室に入ろうとする。
「待ってくれ」
私の言葉に、彼女は立ち止まって振り向いた。
その目は嫌悪に満ちていたが、私は今しかないと思った。
「俺は今まで何事も「穏便に済めばいい」と思っていた。
でも違ったのかもしれない。時にはリスクを取って、何かに挑戦することも楽しいんだな。
渡会のことも、今なら理解できる気がする。
―俺たち、やり直さないか」
彼女は意外そうに目を見開く。そうすると、彼女の大きな瞳が強調されて、吸い込まれそうになってしまう。彼女は逡巡したあと、「徹は…」と口を開いた。
私はじっと待ち、彼女の言葉の先を促す。
「徹はさ、3階のベランダからロープで1階まで降りてきたんだよね。えっと、その格好で、その…」
「ああ、パンツ一丁でな。靴下は履いているが」
「うん、靴下はどうでもいいけどね。
で、よく分からないけど、それで心境が変わったんだね。何事も穏便に済ますって感じじゃなくって」
私は大きく頷いた。
「ああ。時にはリスクに挑むのも楽しいと、今では思うよ」
「そう、楽しいんだね。それはよかった。でも、あのね」
彼女は再びジロジロと私を見ながら言った。
「私、変態と付き合うのは嫌なの」
彼女は扉を閉め、後にはパンツ一丁の私だけが残った。
―今日はやはり、肌寒い夜だった。
※変態…普通の状態とは異なる異常かつ病的な状態。変人。非常に変わった人。




