六章 群山未央
本を読む、という行為が好きになったのは、どうしてだろう。一人っ子で物語が遊び相手だった。本の他にも、人形遊びやパズルなど、想像の中で遊ぶ行為が好きな子供だった。
様々な理由が考えられるが、私が唯一、誰かに言われたら声を上げて否定したいのは「友達がいなくて寂しかったから」だ。実際、友達のいない私が否定したところで、説得力は薄い。でも、これだけははっきりと言える。私は、友達が百人いても本を読むだろう。
私にとって読書は、孤独を埋めるための逃避ではないのだ。逃げるためにしていることではなくて、好きだからしていることなのである。そしてそれは、久藤くんが絵を描く理由と同じなのかもしれない。彼は友達が百人いるけれど、一人で黙々と絵を描く。
「子供の頃から、好きだった?」
「……え?」
「絵、描くの。……私は、何歳から本を読むのが好きだったとか、思い出せないような昔から好きだったんだけど。久藤くんは、どうだったのかなって思って」
流れ続けるラジオドラマのセリフを塗り替えて、唐突に訊ねた私に、久藤くんは少しあってから「ああ……」と質問を理解したように呟いた。絵具と溶き油の匂いが、息を吸うたび少しずつ肺に溜まっていく静けさの中で。私たちは今を逃したら、二度とこんな話はしない気がしたのだ。だからふと気になったことを、どうしても訊いておきたかった。
「好きだったわよ。でも、好きになったきっかけははっきり覚えてるの」
「いつ?」
「小学校に上がったときね。それまでは保育園で、お絵かきっていったら親の似顔絵とか、塗り絵みたいなものばっかりやらされてて、嫌いじゃなかったけどボール遊びのほうが好きだったわ」
思わずうん、と頷いた。私にも覚えがある。塗り絵は得意だったけれど、自由に似顔絵を描きなさいと言われると、恥ずかしくてどう描いたらいいのか分からなくなってしまう性分だった。周りがどんどん絵を描いていく中、真っ赤な顔でクレヨンを握りしめていた、幼い日の断片的な思い出がよみがえってくる。もっとも、それでも私は外でのボール遊びより、教室でのお絵かきが好きだったのだけれど。
「でも、小学校に上がって、お絵かきが〈美術〉っていうひとつの教科になって。手とか草花とか、景色とか……デッサンをするようになったとき、絵って難しいものだったんだって気づいたのよ」
「それで、好きになったの?」
「そう。変な話よねェ」
驚いて聞き返した私に、久藤くんはあっけらかんと肯定した。難しさを感じたから好きになるなんて、確かに可笑しな言い分だ。
でも、その気持ちは少し分かる。今の自分には理解しきれない難解な本を見つけたときの、この内容をすんなりと読めたらどんなに楽しいだろう、という気持ちに似ている。奥の深さに気づいて惹かれた、とも言い換えることができるだろう。そういう興味は、まるで錨だ。少しだけと思って下ろしてみたが最後、縄で結ばれた体を引っぱって、際限なく深みへと突き進んでいく。
「それからずっと、描いてるの?」
「ええ、まあね」
「独学?」
「中学までは、教室に通ってたわ。高校に入ってから、勉強についていくのが危なくなって、塾に替えたけど」
「K高、そんなにぎりぎりだった?」
「あなたが想像するよりは、ね。元々、そんなに成績がいいほうじゃなかったのよ」
私は驚いて、そうなんだ、というだけで精一杯だった。久藤くんから勉強に追われている印象を受けたことがなかったし、まして塾に通っていたことも、今になって初めて知った。好きだった絵画の教室をやめてまで、勉強に打ちこまなければならない状態だったとは、にわかには信じられない。
器用で多才で、なんでも卒なくこなせる人間に見えた。私は久藤くんが、天才とがり勉でいうところの天才だと思っていたのだ。T大にもさほど労せずして入ったのだろうと、勝手に想像していた。
正直にそう打ち明けると、久藤くんはふっと呆れたように笑った。
「だって、そういうふうに見せていたもの」
「なんで? 努力家って、悪いことじゃないのに」
「さあ? なんでかしら。多分少しでも、秀でたものに見せたかったのよ」
私に対して呆れているようにも、自分に対して呆れているようにも聞こえる笑い方だった。秀でた、特別な輝きのあるものに。それは誰に対して見せたかったのだろう?
親、兄弟、あるいは周囲の人間すべてか、はたまた自分自身か。自由の象徴のように見える久藤八積という人間が、こんなにも誰かに縛られているのだという事実に、私はただ漠然とした驚きを呑み込むばかりだった。
「私……、久藤くんは美大に行くんだと思ってた」
「未央」
「変なこと言ってたらごめん。それくらい、私にとっては、久藤くんは絵を描く人って印象だったってこと」
いけないことを言ったかもしれないと、言葉を取り繕う。行きたくても行けない理由があったのかもしれないし、もしかしたら絵は趣味の域で留めたいのかもしれない。事情も知らず、ついうっかり、大学に入ってからずっと頭の片隅に引っかかっていたことが口をついて出てしまった。
T大は優秀な大学だ。授業のレベルも高いし名のある教授も揃っている。ここを卒業したといえば、人生にいくらかの箔がつくことは間違いない。
でも、彼はT大でなくても良かった。
T大はとても優秀な、ごく普通の大学だ。久藤くんはもっと何か、専門的なものに特化した、芸術系の大学に行くべきだったのではないだろうか。それは学力だけでは入れない、センスやインスピレーションといった、生まれながらのドレスコードを求められる狭き門なのだ。彼にはその門を通り抜けるだけの才が、あるような気がしていた。
「そうねェ。……私も、そう思ってたのよ」
ラジオドラマの音量を下げて、久藤くんが言う。私はドラマの声を久しく拾っていなかったことを、聞こえなくなってようやく思い出した。
「T大どころか、そもそもK高だって目指す気なんかなかったわ。だけど……」
久藤くんはそこで、躊躇うように言葉を切った。ちょうどラジオドラマも章の切り替えが重なって、数秒間の幕間が訪れた。筆を動かす音さえも止まって、辺りに沈黙が流れる。
無音の中に、次の言葉を吐き出そうとする前の、久藤くんのすうっという呼吸の気配が聞こえた気がした。
瞬間、私たちのいるリビングに、けたたましいメロディーが響き渡った。
「あっ、電話……?」
静かな空がいきなり割れたような、唐突な衝撃だった。驚きのあまりすぐには何の音だか分からなかったが、冷静になって聴いてみれば、私のスマートフォンが鳴らす着信音だ。トークアプリやメールの通知音は切ってあるが、電話など実家の母が夜に時々かけてくるくらいなので、気づかずに無視して心配をかけないよう、日頃は着信音を流す設定にしたままでいる。
こんな真昼に、一体どうしたのだろう。まさか大学から、無断欠席について連絡でも入ったのだろうか?
狼狽える私を余所に電話は鳴り続け、やがて久藤くんが丸椅子を立つ音が聞こえた。部屋の片隅に置いたままの、私の鞄を開けたのだろう。着信音が一層大きく響き渡る。黙っていると久藤くんはスマートフォンを取り出し、あら、と呟くような声で言って、私に近づいてきた。
「宗から電話よ」
その名前を聞いた瞬間、私が感じたものは何だったのだろう。氷の手のひらで背中を撫でられるような、久藤くんから度々放たれる、何かとてつもなく底冷えした感情への恐怖。電話の発信者というまったく予期せぬ第三者の存在が、この閉鎖空間に突如として降って湧いたことへの動揺。
閉ざされた空間の中で、あまりにもずっと、久藤くんとだけ接していたせいだろうか。私には一瞬「宗」という言葉が指すものが何なのか、思い出せなかった。それは遠い世界の、知らない言語のような響きだった。私はその人のために、今こうしているのだというのに。
これらの衝撃や動揺が、わずか一秒足らずの間に私の脳を駆け巡って、まともな言葉を発する力を麻痺させてしまったみたいだった。気がついたらすぐ隣に久藤くんの気配があり、彼は静かに、私の頬にスマートフォンを押し当てた。
筋肉が引き攣れたように固まってしまった喉から、待って、と止める暇もなく。
「……どうぞ?」
コツ、と指先が画面を叩く音が、耳元で響く。騒ぎ続けていた着信音がぴたりと止んだ。目隠しの下で必死の形相をして訴えた私の懇願も虚しく、久藤くんは電話を繋いだのだ。
あ、と思わず困惑で絞り出すような声が出た。途端、電話のむこうから、覚えのある声が聞こえた。
「もしもし、群山さん? 俺だけど」
「片山くん……」
「ああ、良かった。なかなか出てくれないから、繋がらないかと思った」
心から安堵したように、片山くんが苦笑する。笑う顔が目に浮かんで、夢から覚めたように彼のことを思い出した。彼の声や手の温もりや、私を見る眸の煌めき、そのすべてを。それらの元に帰るために、私が今、ここにいたのだということを。
「急に電話してごめんね」
「ううん。でもどうして?」
「水曜日だからさ、一緒に食事できないかと思って。昨夜連絡したんだけど、返事なかったし……もしかして、学校休んでる?」
目隠しの奥で開いた目に、景色が次々と飛び込んでくるようだ。キャンパスの片隅、木立の見える廊下の柱に寄りかかって、私に電話をかけている片山くんの姿が今にも見えるようだった。
私は久藤くんの持っているスマートフォンに耳を寄せて、その声を聞き漏らすまいとしながら、一所懸命に頭を巡らせた。けほ、と噎せるように軽く咳をする。それからできる限り平静を装って、明るい声を出した。
「そうなの、ちょっと風邪引いちゃって。昨夜は早く寝ちゃったから、連絡気づかなかったのかも。ごめん」
「やっぱりそうか。大丈夫? 群山さん、一人暮らしだよね。薬とかは?」
「あ、えっと……お母さんが持ってきてくれるみたい。大した風邪じゃないよ。だから……」
久藤くんの指が、ひやりと頬を掠める。溶き油の匂いをごまかすための香水のかおりが呼吸と一緒に忍び込んで、嘘をつく私を身の内側から、あの山岳の兵士みたいな厳しい目で観察している思いがした。
でも、もうそれにも構うものか。私はこの人に縛られる生活を、終わりにすると決めたのだから。電話のむこうで、群山さん? と訝しげな声が返事を促す。私は見えない相手に向かって、大きく微笑んだ。
「心配しないで。片山くん」
物言いたげに何かを訴えかけた声が、やがて「そう」と言葉を飲み下し、了解したように挨拶を述べて電話を切る。ツー、ツー、という規則的な音を聞いたとき、罪悪感で胸が破れそうになった。
頬を離れたスマートフォンが、テーブルに置かれる音がする。再び訪れた静寂の中で、ラジオドラマのエンディングがやけに明るく流れ始めた。
「助けに来てって、言えばよかったのに」
からかうような声色で、久藤くんが言う。
「そんなこと、本当に言ったら困るのは久藤くんでしょ?」
「だけど、あなたにはその権利と機会があったわ」
「権利も機会も、使うか使わないかは自由だもの。第一、私だって……片山くんに知られたら困る」
助けを求めたりなどしたら、久藤くんと私のこれまでのいきさつを、片山くんに話すことになる。そんなことをしたら、私の古い秘密だって白日の下に晒されるのだ。本当のことなど、言えるはずもない。
久藤くんはふうんと、呆れを隠そうともしない声で相槌を打った。
「好きな相手を、窮地のときにも頼れないようじゃ、そんな恋は無理よ」
「それ……っ」
覚えのある台詞に、思わず顔を上げる。骨ばった指が顎にかけられて、喉が苦しいくらいに上反り、息が詰まった。
「昔と何一つ変わってない。あなたは宗に自分のすべてを見せることはできないし、宗はあなたの言葉の外にあるSOSに気づけない」
「久藤くん……」
「それでも――あの男と、恋をするの?」
一瞬、頸動脈をその手で凍らせられるのかと思った。顎を離れ、首をなぞった指が、冷たい軌跡を描きながら私の耳へ伝い、こめかみへと潜り込む。そのまま目隠しが持ち上げられて、思わず細めた瞼のあいだに光が飛び込んできた。
久藤くんの影に遮られた、蛍光灯の光が。私を見下ろして淡く光る髪の、金色の粒子のような眩しさを見つめながら、私は一度、奥歯を噛みしめて唇を開いた。
「するよ」
「どうして?」
「片山くんは素敵な人だから。それに、私を好きになってくれる人なんて、きっともう他に現れないもの」
瞼を覆っていた布が、結び目を解かれて床に落ちる。ぱさりと、花の首が落ちるような軽い音が立った瞬間、こめかみに触れていた久藤くんの手が電気に触れたみたいに震えた。
「本気で言ってるの?」
「こんなこと、冗談で言うとでも思う?」
質問に、真面目に答えるのが情けなくて、質問で返す。本気でなければ言わない。こんな憐れな自虐など、笑いにもならない。
常々思ってきた通り、私は本当に、特別な輝きなど何一つない塵のような星なのだ。名前もなく、瞬きは控えめで、肉眼では見えない地味な星。こんな私を掬い上げてくれる人など、人生で二人も現れるとは思えない。
奇跡を味わってみたいと思うことの、何が悪いだろう。片山くんは私から見れば、ずっと大きな、眩しい光だ。だから例え片山くんが、自分の陰で私が放つ、小さな炎上の気配に微塵も気づかなかったとしたって、そんなことは仕方がないと納得できる。
眩しい彼が私を特別だと言ってくれる、その喜びだけで、私は満足していられるだろう。客観的には、虚しい痩せ我慢に見えたとしても。
は、と息を漏らして、久藤くんが笑った。
「あなたって、本当に……」
卑屈よね、と言われるのだと思った。あの冷ややかな、呆れ果てた声で。思わず身構えた私の前で、彼は頽れるように笑い、天井を仰いだ。顔を覆っていた長い指が、蜘蛛の巣を剥がすように離れる。
「悪女よね」
逆光が作り出していた影が彼の上を退いて、私は三日ぶりに、久藤くんの顔をしっかりと見た。
渓谷のような彫を描く白い膚の奥で、泣き腫らした二つの目が私を見下ろしていた。息を呑んだ私の目の中で、彼の眸の光は瞼と共に細められ、眼窩に沈んで、永遠に抜けないナイフのように煌めいた。