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私のあなた  作者: 十夜凛
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七章 爆ぜる星々の叫び

 銀杏の実の落ちる匂いが、雨上がりの石畳の匂いに混じって、木々が広げる涼しい影の中を漂っている。百舌が一羽、枝のあいだを囀りながら飛び回り、やがて数羽の群になってどこかへ飛び去った。

「ごめん、お待たせ」

「片山くん」

「教授と話してたら、遅くなっちゃって。雨上がったね」

 真横からかけられた声に空を見上げていた視線を下ろせば、Tシャツに薄い綿のシャツを羽織った彼は、私と目を合わせて親しみのこもった笑みを浮かべた。今から行く、というメッセージを表示したままだったトークアプリを閉じ、スマートフォンを鞄に滑り込ませる。

「じゃ、行こうか?」

「うん」

 今さらどこへ、と確認するまでもなく、私たちは連れ立って水曜の昼食会のために歩き出した。秋、私は片山くんと付き合っている。何食べようか、という彼にそうだねえと返しながら、生徒で賑わう昼休みのテニスコートを横目に正門へ向かう。

 夏休みの前、告白を受けたいと応えた私に、片山くんはナポリタンを巻いたフォークを持って口を開けたまま固まった。そうしてみるみる目を大きくして、本当に、と噛みしめるように聞き返したのだった。

 彼曰く、私がなかなか返事をしなかったので、もう諦めようかと考え始めていたときだったそうだ。諦めて友達として出直して、しばらく経っても気持ちが変わらなかったら改めて告白するつもりだったという。

 片山くんは喜んで、これからよろしく、と私の手を取ろうとして水をこぼした。あんまり慌てて謝るものだから、何も理由のない私までつられて謝ってしまって、テーブルに広がった水たまりをハンカチで拭きながら、二人顔を見合わせて笑った。そんな始まりだった。

 休みの間に何度かデートを重ねた。若者らしく話題のカフェなどで語らってみたり、片山くんが好きだというので人生初のサッカー観戦に出向いたり。とはいえそれほど大きな変化があったわけでもなく、たまに電話をする以外は何も変わっていないように感じていたのだが、こうして久しぶりにキャンパスで顔を合わせると面白い。以前と同じ場所に、以前とは違う関係でいることを新鮮に感じる。どうやらひと夏の間に、少しずつではあるが、私には彼の恋人なのだという自覚が生まれていたらしい。

 片山くんはそんな私の遅々とした歩みに、私が思っていた以上に足取りを合わせてくれるつもりのようだ。元々同じ高校で地元が近いこともあり、お盆に実家へ帰省した際、二人で近所の夏祭りを観に行った。泡沫の光と音の喧騒に紛れて、水ヨーヨーの屋台の前を通り過ぎるとき、手を繋いだ。でも私がほどいてしまった。嫌だったのではなく、ただあまりにも人と触れ合うことに慣れていなすぎて、違和感を堪えきれなかったのだ。

 帰り道、彼は私に「今度は群山さんから繋ぎたいって思わせられるように、頑張るね」と言った。以来、私たちは爪の先一枚触れ合わせたことがない。

 前に、後ろに。ジーンズの横で揺れる、片山くんの腕時計をしていないほうの手を見ながら、私は肩にかけた鞄を両手で支えていた。いつか私から、この手を取る日が来るのだろうか。

(……分からない)

 私は何かを探していた。片山くんと付き合うようになってから――特に、夏祭りを過ぎてから。デートのたび、電話をするたび、一人のときに彼を思い出すたび、優しさに包まれた幸福の中で、いつも何かを探さなくてはならないような焦燥感に急かされていた。

 上手く言葉に言い表せないそれは、恋の心臓のようなもので、即ち核、この恋愛の中心点なのだ。熱くてぐつぐつと煮え立っていて、あまりに熱いから、触れると一瞬冷たいものかと思い違いをしてしまう。そういう星の核みたいな何かを、手探りで見つけようとしている。

 あらゆる熱は爆発から生まれる。恋を育てるには、何かひとつ、起爆剤が必要なのだ。今までの中で最も起爆剤に近い印象を残したのは、コンサートの帰り道、手首を掴まれたとき。あのはっとするような瞬間を越えるものを、私は求めているのかもしれない。片山くんに、本当の意味で恋をするために。

 漠然と恋愛ごっこをするのではなく、私は彼と、最初で最後でもいいのだと思える恋愛がしてみたい。そのためには今、ぼんやりと温かいだけの綿菓子みたいな私の中に、精神の形を作り変えてしまう爆発を起こす必要がある。

「群山さん?」

 思い切って左手を、穴の開くほど見つめていた右手の指先に引っかけてみた。片山くんが驚いたように私を振り返る。

 繋いでみれば、ロミオとジュリエットのような甘い雷撃が走って、この瞬間が永遠に胸を焦がすのではないかと期待したのだ。現実にはそれほどの衝撃は訪れなかった。ただ、片山くんの眦がじんわりと赤くなって、温かい手のひらが私の指を確かめるように包み込んだとき、静かな喜びが胸を打って湧水のごとく広がるのを感じた。

「嫌だったら、離しても」

「嬉しい」

 それは私が数多の本で読んで憧れていたような、壊れるほどの胸の高鳴りとは違う。自分という存在が何かをすることで、誰かが喜んでくれるという、喜びを分かち合えた喜びに対する胸の高鳴りだった。

 もしかしたら現実の恋愛というのは、こういうものなのだろうか。私の言葉を遮って、照れくさそうにしながらも嬉しいと言い切った片山くんを見ていると、この人の喜ぶ顔がもっと見てみたいと思う。今は家族に対する感情とそれほど変わらないこの思いが、いつか降り積もって音もなく、恋に姿を変えるのだろうか。

 そうだとしたら恋とは随分、穏やかで優しくて、少し寂しい。

「なあ、購買の前のあれ見たか?」

「あれ?」

 会話が途絶えて、手を繋いだまま黙って歩いていた私たちの横を、数人の男子学生が足早にすれ違っていった。思わず顔を上げて、通り過ぎた彼らの話に耳を欹てる。

「八積の絵だよ。同好会で出したのが、優秀賞かなんかだと」

 久しく接点をなくしていた名前に、どきりとして、思わず手に力が入ってしまった。片山くんが足を止めて、彼らのほうを振り返る。

「何回か惜しいところまでいってたらしいもんな。とうとう入賞かあ」

「俺見たよ。すごかったよな」

「へえ、やっぱ一目見て出来がいいって感じ?」

「いや、なんていうかな。出来がどうっていうより、色んな意味ですごいよ。あれを世に曝け出せる辺りも含めて、あいつすげえなーって感じ」

「それな、芸術家気質っていうのかね? 作品だっていうのは分かってるし、観る側としては素直に尊敬するけど、同じ技術があっても俺は描けないと思う」

 すでに観てきた様子の数人が頷き合い、残りの数人が興味を引かれた様子で詳しく聞き始めた。彼らが遠くへ行ってしまったので詳細は聞こえてこなかったが、購買の前に久藤くんの絵が展示されていることだけは間違いないだろう。

「ふうん、あいつそんな腕前だったんだ。そういえば結局、絵も見せてもらったことないし、夏休み終わってから会ってないな」

「う、うん」

「行ってみない? 時間あるし。八積に会ったら、見たって言いたいしさ」

 片山くんはそう言って、私を促すみたいに「ね」と笑った。動揺していた私は、受諾とも拒絶とも取れる曖昧な返事をしてしまい、すっかりその気になっていた片山くんはそれを受諾と取った。

「八積のやつ、入賞したなら教えてくれればいいのにな。俺はともかく、群山さんはこの一年も親しくしてたんだしさ」

 片山くんは私と久藤くんの間にあったことを、当然知らない。二ヶ月前、私は結局、片山くんとの電話の直後に解放されて、半ば部屋から追い出されるような形で自由になった。

 その数日後、私は片山くんと付き合い始めた。久藤くんはしばらく学校に顔を出さず、試験の頃になってようやく戻ってきたと風の噂で聞いたが、詳しいことは分からない。私は彼を避けて出来る限り人の集まるところへ寄りつかないようにしていたので、ほとんどその姿を見かけることもなく夏休みへ入ったし、彼のほうからも約束通り、一切の連絡をしてこなかった。

 私たちは別れたのだ。ふと、そう思ってから、まるで恋人だったみたいな表現だなとかぶりを振った。離れた、終わった、どう言っても親密な関係だったように聞こえてしまう。実際には飼い主と犬だったのだから、捨てられた、が正しい。でもそれを望んだのは私だから、表現としては、あまりしっくりこない。

「うわ、すごい人だかり」

 ともかくそんなわけで、私はあれ以来、久藤くんを避け続けてきた。けれど一部始終を知らない片山くんにとっては、久藤くんの存在は今も、私たちの共通の友人なのだ。

 購買に近づくにつれて見えてきた人垣を、彼は根気よくかき分けながら、前のほうへと進んでいった。手を繋がれているせいで、必然的に私も絵のほうへと向かっていく。絵を見ることには何の悪い感情も持っていなかったが、私はそこに久藤くんがいたらどうしようという思いで、今にも逃げ出したかった。

 どんな顔をして会ったらいいのか分からない。私の目の底には、久藤くんが最後の最後にひるがえしたナイフが今も突き刺さっていて、あのときの彼の真意は分からないまま。真っ赤になって腫れていた、綺麗な目だけを時々夢に見る。

 自分がよほど彼を傷つけたのだ、ということだけは痛いほど分かった。でもそれがどんな行いだったのか、問いかける時間は与えてもらえなかった。雨曝しの階段を外へ向かって下りるとき、五年越しの自由を手に入れたというのに、対価として一生治らない傷を負った気分だったのを鮮明に覚えている。

 私は久藤くんに二度と会ってはいけないのだ、と確信した。今更のこのこと絵を見に来た姿など、見せてはいけない。

「ああ、ここから見えそうだよ」

 どうかいませんように、と祈るような思いでうつむいた私の手を、人垣の隙間に出た片山くんが引っ張った。感嘆や戸惑い、好奇の声が飛び交う中をよろけながら、私も隣に立って、そっと顔を上げる。

 そこにあったのは、生身の人間が一人入れそうな大きさの、横向きのキャンバスに描かれた一枚の絵。金色の額縁に収められたその〈部屋〉の光景に、私は呼吸も忘れて目を瞠った。


 中央には、紅い着物を肩にかけた黒髪の女。

 こちらに体の左側を向けて、古めかしい木の丸テーブルにしなだれかかるように肘をつき、少し離れた場所に置かれた細脚の椅子に腰をかけている。

 背景には大きな窓。

 左右両面とも開かれており、青々とした空の明るさが、光のない部屋の中を逆光で照らし出していた。

 画面左には、顎を手首にのせた女を見下ろすように広げられた書見台。

 しかし書物はのっておらず、女には目隠しがされていて、役目のない木枠が寂しげな骨のようにただ宙に浮かんでいる状態だ。

 画面右にも書見台があり、こちらは壊れたものがいくつも積み重なっている。

 無数の本が巻き込まれて、ページを閉じたり開いたりしながら木屑に挟まれていた。

 画面の上部には、女を目がけてまっすぐに下を向いた短剣。

 さながらオセローの一幕のごとく、白銀に輝く切っ先は、今にも衿から覗く首を掻き切ってしまいそうである。しかし剣は柄や根元を、左右の天井から伸びた帯のようなもので雁字搦めにされていて、落ちてくる気配はないに等しい。

 それらが描かれた画面の、壁や床や、その他ほとんどと言っていい空いた場所を埋め尽くしているのは、深い緑色で描かれた薔薇の葉と蔓だった。

 所々に紫の斑を持つ葉を茂らせながら、蔓はあらゆる方角から現れ、中心に向かっている。そして椅子に腰かけた女の、手首や足首に巻きついていた。落ちる気配のない短剣の下、蔓に絡みつかれた女は、それほど際どく描かれているわけではないが、着物の下には何も纏っていないように見える。棘を並べた薔薇の蔓は女の白い脹脛を締め上げて、着物の陰から覗く膝まで向かっていた。一輪の花もない、ただ生い茂るばかりの葉と共に。まるでその女を、真紅の、一輪の花としているかのように。


 額縁の下部に、真鍮のプレートが打ち据えられている。流麗な筆致で刻まれたタイトルは、『私のあなた』。


『富と名声ともうひとつ、人を狂わせるものがあるでしょ』

 そのタイトルを目にした瞬間、頭の中で、いつかの久藤くんの声が響き渡った。街の頂から突然に鳴り響く、カテドラルの鐘のごとく。幾重にも残響を纏うその声が、私の中に波を起こしていく。波間にきらりと浮かんだ何かが、誘導灯のように閃光を放った。

『薔薇の花言葉を知ってる?』

 我が身をかき抱いた両腕に、過ぎたはずの季節の生温かい風を思い出した。絵具の匂いを逃がすため、いつも細く窓を開けているあの部屋で。着物から伸びた私の腕を撫でていった、物言わぬ春の風。

『〈恋〉っていうのよ』

 似ているようでそれよりも少し冷たい、シルバーリングがいつまでも温まらない、あの手。山岳の冬を纏った目。晴れやかな青空が時折白く曇るように、ふとしたときに低くなる声。

「群山さん、これ……」

 私の中から消えたはずの、久藤八積という人間のすべてが、粒子となって舞い戻ってきて再び構築されていく思いがした。我に返って隣を見れば、片山くんは震える手で絵を指差したまま、冗談だと言ってくれとでも乞うような目で私を見ている。辺りのざわめきは静まる気配を知らない。称賛に交じって、ありとあらゆる憶測や冷やかしめいた言葉が飛び交う。

 久藤くんの絵は、それらをすべて黙って受け止めていた。

「片山くん、ごめん。私……」

「群山さん?」

 どくどくと喘ぐ心臓をシャツの上から押さえて、私は顔を上げられずに言った。自分の目が何を見ているのか、分からなくなりそうだったのだ。私の中に再構築された久藤くんの後ろ姿が、あまりにも近くて、大きすぎて、前が見えない。

 彼は背中を向けたまま、私の心臓を握り潰す。熱すぎて一瞬冷たいのだと錯覚してしまう、その手で。

「行かなくちゃ」

 弾かれたように駆けだした私を、片山くんが呼び止めた。けれど私にぶつかられて開いた人だかりは、すぐにまた埋め戻されて、片山くんの声もざわめきの向こうに消えていく。観衆は私たちが来たときの倍にも膨れ上がっていた。その中を無我夢中でかき分けて、私は傍にいた見知らぬ人の腕を掴んで訊ねた。

「久藤くんは?」

「え、八積?」

 驚いた様子で私を見たその人が、友人と顔を見合わせる。周囲の数人がなんだなんだとどよめき、うちの一人が口を開いた。

「あいつなら、たぶん部室にいるんじゃね?」

「部室?」

「一階の隅の旧資料室だっけ? 今年の春から、油絵同好会が使ってるんだよ。さっき近くで見たから、外に行ったわけじゃなければ……」

「ありがとう!」

「あっ、おい? 確実ってわけじゃねえからな!」

 背後で慌てたように叫ぶ声を振り切って、私は走った。きっとそこにいるという、確信に近い予感があった。

 今キャンパスの中を不用意にうろうろしたら、あっというまに大勢の知り合いに囲まれてしまうだろう。久藤八積はそんなこと、慣れている。でも、私の知っている久藤くんは、必ずしも渦の中心になることを好む人ではないから。

 ひと気のない廊下を駆け抜けて、私は古い表札の上に真新しい紙で〈油絵同好会〉と貼られた部屋を見つけた。運動とは無縁の生活を送ってきた体が、突然の疾走に悲鳴を上げている。肺はとっくに空気をやりくりしきれなくて軋るように痛み、脚は重く、肩で息をしていた。

 それでも握り潰された心臓から止め処なく溢れる血が、原始の爆発みたいに熱く、私を突き動かしたのだ。

「久藤くん」

 そこにいるのか、いないのか。ノックをして確かめる余裕もなく、開け放ったドアの先に、久しく見ていなかった後ろ姿が座っていた。イーゼルを前に、窓のほうを向いて小さな椅子を跨いだ彼は、私の中に戻ってきた久藤くんそのものだ。思わず錯覚ではないかと目をこすった。

「一人なの?」

 その背中が、ぽつりと口を開く。私は肯定の代わりに、黙ってドアを閉めた。そうしてもう一度振り返ったときには、久藤くんも私のほうを向いていた。

 目が合うと、眉間にかすかな苦渋の皺が生まれる。かつてこの人がこういう顔をするとき、私は恐ろしくてならなかった。彼の機嫌を損ねたら、私の汚く恥ずかしい秘密を、彼の何百人という友人が知ることになるのではないかと。怯えるばかりで、考えもしなかった。彼がそのときどうして、そんな顔をしたのかと。

「宗が来てくれたら、良かったのに」

 かたん、とイーゼルの縁に、鉛筆が下ろされる。

「あの絵を見て、駆け込んできたのが宗だったなら、何もかも終わりにしようと思ってたのよ」

「何もかもって?」

「私とあなたのこと。悪いのはすべて私で、あれはただの、あなたに執着した私が生み出した妄想の産物。あなたはただ少し、座ってポーズを取ってくれただけで、あの絵に描かれたようなことは何ひとつないって、宗とあなたに宣言して詫びるつもりだった。そうして私たちの間にあったことは全部、最初から幻だったとでも思って、お墓に持っていこうって思ってたの」

 岩陰に凍った氷柱のように、久藤くんの眸は影の中で光を放つ。その目が捉えようのない感情を乱反射させるときを、何度も見てきたのに、いつも恐れるばかりで真実を見通そうとしてこなかった。

 判断を間違えるのが怖くて。

 間違いを嘲られるのを避けたくて。

 恥をかくのは惨めなことだと、自分のプライドばかりに目がいって。

「なのになんで、あなたって一人で来ちゃうのかしらね」

「久藤くん……」

「またあんな目に遭いたいの? お願いだから、宗に守ってもらって頂戴よ。私から」

 心の中で予防線を張っていた。自分は久藤くんにとって、ただの犬みたいなものだ、と。そうすることで、可能性に気づかないように、先回りに先回りを重ねていたのだ。

 この人が私を大切にしているのかもしれない、という、気づいてしまったら見ないふりなどできない可能性に。

「言えない性分なの。知ってるでしょ?」

「……そうね。知ってるけど」

「だから、何も言わなくても分かってくれる久藤くんに、甘えてたの」

 視線を外していた眸が、音もなく大きくなる。驚いた顔で、久藤くんは私を見た。言葉が上手く繋がらなくて、全身に散らばってしまったみたいだ。千も万もの言葉の中から、たったひとつしかない鍵穴に合うものを探している。

 何度も何度も、差し出されていた鍵を、そのたび私が気づかないふりで埋めてしまったから。鍵を回してみたらその先の部屋はがらんどうで、すべて冗談で、馬鹿な勘違いだったと思い知ったら耐え切れない。たったそれだけの、くだらない怖れへの自衛で。

「教えて、久藤くん。私はあなたの何だったの?」

「未央……」

「ずっと言うことをきくだけの、飽きたら捨てておしまいの犬なんだと思ってた。首輪に繋がれて、自由が奪われたつもりでいた。でも本当は、私は……久藤くんの前にいるときが、一番自由だった。言葉もいらない、秘密もいらない。口下手で卑屈で欲望だらけの私のまま、傍にいられるように、あなたがしてくれてたの」

 久藤くんの唇が、何かを言おうと開いた。そして何も言わずに閉じて、擦り合わせるように引き結ばれた。

 彼は言葉を探していた。それは精巧に作られた錠前が、鍵の凹凸を一つ一つ確かめて、順繰りに応えてゆくみたいに。やがて彼は錠前が外れる音を聞いたのか、もう一度口を開いて、ぽつりと言った。

「……憧れ」

「え……?」

「あなたは私の、憧れだったのよ。未央」

 影の中からこちらを見つめていた眸が、ふ、と和らぐ。雪解けの一滴を彷彿させるような、何とも静かな笑みだった。

「中学の頃にあなたを知って、いつも本を読んでる大人しい子って印象だったわ。接点もなかったし、正直、名前だけ知っておけば十分だと思ってた」

「うん」

「でもあるときね、誰もいない学校を歩いてみたくなって、朝早く登校したことがあったの。ホームルームまで一時間くらいあったから、もちろん人なんて全然いなかった。廊下に出て外を眺めたり、よその教室に入ったりしてみたわ。それで誰かの机に座って、校庭を見ていたら、遠くからあなたが歩いてきたのよ」

 懐かしげに話す久藤くんの声に導かれて、私の脳裏にも、中学校の風景が甦ってきた。私は当時、家が遠かったので毎朝車で送ってもらっていて、父親の仕事に合わせている都合でかなり早い時間に登校していた。

 運動部よりも早かったので、いつも教室に一人でいるのが当たり前だったものだ。まさかあのとき、一日でも私よりも早く来ている生徒がいただなんて、考えたことがなかった。

「あなたは本を読んでいたわ。読書家は歩いてるときまで読書家なんだ、って驚いたのを覚えてる。カバーのかかった本を両手で持って、私が見ていることなんてちっとも気づかず、本に夢中だった」

 それはそうだろう、と当時を振り返って納得する。早朝の学校は、私にとって至福の時間だったからだ。生徒はもちろん、家とは違って親さえいない分、好きなだけ恋愛小説を読み耽ることができた。一分だって無駄にしたくなくて、父親の車が見えなくなるとすぐにでも本を取り出すことが多くあった。

 きっとそのときも、何かこっそり読みたいようなものを持っていたに違いない。

「声をかけようか迷っていたの、黙って見てるのもおかしいと思ったけど、かといって話したこともなかったし。どんな子なのか分からなかったから、ちょっと躊躇ってたわ。……正直に言って、あまりノリよく挨拶を返してくれるふうにも見えなかった」

 うん、と私は促す意味で頷いた。当時から、見るからに社交性とは程遠い子供だったのだ。ましてうつむきがちに、本を読みながら歩いていたのだろう。初対面に近い久藤くんが、声をかけるのを迷ったのは当たり前の反応だと思う。

「でも、そのときだったかしら。太陽が雲に隠されて、光の角度が変わったのよ。あなたは文字が暗くなったのか、本を少し持ち上げたわ。必然的に顔も上がって――初めて、笑った顔を見たの」

 驚いて、思わず自分の頬を押さえた。本に熱中するあまり、表情が変わってしまうのは昔からの癖だ。小さい頃はよくからかわれて、必要以上に何を読んでいるのか隠すようになったり、うつむいて髪で顔を隠しながら読むようになったりした一因でもある。

 朝の学校は誰もいないから、きっと気が抜けていたのだろう。久藤くんも気持ち悪いと思ったに違いない。この人にはそんなところまで見られていたのだな、と今さらながらに苦笑した私に、彼は訥々と続けた。

「驚いたのよ」

「そうだよね、ごめ……」

「人ってこんなに綺麗に笑うのね、って」

「……え?」

 思いがけない言葉に、目を瞬かせてしまう。久藤くんはといえば、私が驚いていることすら構わずに、当時を懐かしむような顔をしてこぼれた髪をかき上げた。

「笑顔って、誰かに向かい合っているときしか出ないものだと思ってたの。思ってた、ってことにも気づかないくらい、当たり前に思ってた。嬉しいとか楽しいとか、そういう気持ちを伝えるためにある表情なんだって。だけどあなたのそれは、まったくの別物だったのよ」

「別物?」

「あなたは――まるで、神子とか聖女みたいだった。多分、物語の誰かに感情移入して、その人が乗り移ったみたいになっていたんじゃないかしら。私の知っている、どんな表情とも違ったわ。誰かに見せるためにあるんじゃなく、ただ広大な世界に笑いかけるような、そんな顔をしていたの」

「そ、そんなの……」

「世界で一番綺麗だって、忘れられなくなったわ」

 大袈裟だよ、と言いかけた声を遮ってはっきりと言われ、思わず口を噤んでしまった。憧れなんて、何かの聞き間違いではないかと疑っていた思いが、勢いをなくして小さく萎んでいく。

 久藤くんは尚も、ずっと止めていた息を吐き出すみたいに、脚を組んで姿勢を崩し、一思いに語った。

「K高を受けたのだって、あなたが行ったから。何度か早朝に登校して、あなたが本を読むところを見てたけど、結局一度も声はかけられなかった。それでも諦めきれなくて、同じ高校を受験したってわけ。図書委員になったあなたを見て、図書室でなら話ができるかもしれないと思って、しょっちゅう通ってて……あなたが読んでた本も、そのときに偶然見ちゃったの」

「軽蔑したんじゃない? そこまで特別に見えていた人間が、あんな俗っぽいものを読むんだって」

「こんなところで大胆ねェ、とは驚いたわ。それに、焦った」

「なんで?」

「恋愛に興味があるってことは、いつか、誰かのものになってしまうかもしれないってことだもの。現にあなたはあのとき、もう宗を好きだった」

 片山くんの名前が出されたことに、私はびくりとして肩を強張らせた。久藤くんはそれをどういう反応だと思ったのか、寂しげに笑って、私から視線を外した。

「勝てっこないって思ったのよ。宗は格好良くて真面目で、根っからの善良な人間だったから。あなたが読んでた本に出てくる、王子様みたいだった」

「あ……」

「対して私は、成績もぎりぎりだし、口を開けばこんなだし。性格だって――言うまでもないと思うけど――傷だらけで歪んでる。王子様には程遠いって、自分でも分かっていたの」

 横を向いた彼のピアスに集まる、真昼の光が目に沁みる。ぐい、と目頭を擦って初めて、私は自分が泣きそうになっているのだと気づいた。

「ちょうど、その頃よ。あの電車での一件があって」

「うん」

「どう足掻いても手に入らないものが、手に入るんだと思ったら、良い人でいることができなかったわ。形だけでもあなたを自分のものにしておきたくて、脅すような方法で占有した。そんなことをすれば、本当に望んでいる関係は遠ざかるばかりだって分かっていたのに……」

 最後のほうは消え入りそうに掠れていて、明瞭には聞こえなかった。ただ、愚かよね、と言ったように聞こえて、目の奥が熱くなるのを感じた。もう微塵もごまかしは通用しなかった。この人は、私を好きだったのだ。

「久藤くん」

「なに?」

「私のこと、好き?」

「愛してるわ」

 問いかければ、彼は一切の躊躇いもなく答えた。人好きのする笑顔でもなく、優しくて明るい久藤八積でもなく、あの厳しい山岳の兵士みたいな、芯に寂しさを秘めた冷たい目で。その冷たさが熱の裏返しだと、気づきそうになっても身を躱して、ずっと彼を後悔で苦しませてきた。

 久藤くんが私などを好きになるはずがないから、と。卑下するふりをして、間違える可能性から自分を守り続けてきたのだ。

 それが差し出された想いを、踏みにじって、拒絶して、蔑ろにすることだとさえ気づかずに。

 愛していると言っているが、同じくらい憎まれているのだろう。いつだって私の項に、短剣を突き刺したい衝動に炙られているだろう。あの絵に描かれた女は、他人事などではなく私そのものだ。久藤くんの心という、部屋に根づいた私の肖像だ。

 久藤くんが小さく椅子を引いて、立ち上がった。

「どこ行くの?」

「ドアを開けるの」

「なんで?」

「あなたに、逃げてほしいから」

 目を瞠る私の横を通り過ぎて、久藤くんはドアに手をかけ、朗らかに笑った。

「私は予め時間を区切らないと、泣いて請われるまであなたを手放すことができない、良心の箍が壊れた人間なの」

 言葉と裏腹の、花開くような笑顔の背景に。私はあの、夕方六時の駅の踏切が鳴り渡るのを聞いていた。茜空の下、下りていく遮断機の向こうに立つ久藤くんの影。どんな顔で別れたらいいのか分からなくて、いつもはっきりとは見なかった表情が今、目の前にあって、私を瞼に焼きつけるように見下ろしている。

 さようなら、という寂しさの綿に、安堵の蜜を重たくなるまで含ませたような。

 理性の軋みと手放すことの喜びを綯い交ぜにした、胸を掻き毟られる、一目見たら忘れようのない笑顔だった。

「いなくなって、未央。二度と私に捕まらないで、幸せになるのよ」

 彼が座っていた椅子の前には、古いイーゼルが広げられていた。立てかけられているさほど大きくはないキャンバスが、日差しを受けて象牙色に艶めく。思わず食い入るように見つめてしまった。色をのせる予定のなさそうな、鉛筆一本で光や影まで描き込まれた、モノトーンの絵だ。

 背中を丸めて本を読む、黒髪の女の横顔。目許と口許が例えようのない、淡い幸福感に包まれている。

 紛れもなく私だと分かる素朴な横顔なのに、息を呑んで手を伸ばしたくなる美しさがあった。鮮やかな色彩も、背景もないのに、奥に太陽が隠れているかのように光り輝いている。

「これ……」

 あなたの目には私が、こんなふうに映っているというのか。問いかける意味で見上げた眸に、返ってくる眼差しは、もう何も語ろうとはしない。

「さあ、行って」

 合図とばかりに首肯して、久藤くんがドアを開ける。一歩、また一歩と踏み出してゆっくりとそこへ近づきながら、私は星がひとつ、生まれようとするのを感じていた。

 冷たい手で握り潰された心臓を核にして、煌々と燃える星が。爆発のあとには必ず、新しい何かがそこに残る。

「久藤くん、前に言ったよね」

「何?」

「窮地のときに助けてって言えない恋は、だめだって。なら、その逆は?」

 マントルは溢れて溶岩となり、溶岩は血のように辺りを駆け巡る。熱が眠っていたものたちを呼び覚まし、望むと望まざるに関わらず、万物はまったく新しく作り変えられる。古く安定していた形は壊され、二度と同じには戻らない。

 瞬きをした久藤くんの目をまっすぐに見つめて、私は震える心臓に手を当て、言った。

「いなくなれなんて言わないで、助けてよ」

「未央?」

「熱くて苦しくて、どうにかなりそうなの。あの絵を見てから、心臓が焼け爛れそうなほど熱くて。瞼を開けても閉じても、目の前に久藤くんがいるみたい。聞こえてくるのも、私を好きだって、愛してるって。殺したいほど好きだっていう、久藤くんの声ばかり」

 ああその私を見下ろす、驚いた顔が。眼窩に残ったままのナイフを取って、刺し返したいほど憎い。噴き上がる感情を堪えきれなくて、生まれて初めて、握りしめた拳をドアに叩きつけた。久藤くんによって開かれかけていたそれは、けたたましい音を立てて激しく揺れた。

 自分が手を離せば、すべてが終わりになるとでも、まだ思っているのだろうか。そんな思いもよらないみたいな罪のない顔をして、まるで今までの私みたいではないか。

「少しくらい不完全燃焼でも、想像していたものと違っても。一生に一度だけ、普通の、幸せな恋愛ができればいいって思ってたのに。それを叶えてくれる人とも、やっと出会えたところだったのに」

「未央」

「全部あなたが壊したんだよ。あんな剥き出しの感情の、塊みたいな絵を描いて。私たちの間に何もなかったなんて、あれを見て思えるはずがない。分かってたけど、見せたんでしょう? 私と片山くんの間を、突き崩すために」

 同じ手で、今度は久藤くんの胸ぐらを掴んだ。彼は何も答えない。肯定も否定もせず、ただ私の言葉を受け入れようとするみたいに、唇を強く噛みしめて立ち続けていた。

 堪えていた涙が堰を切って溢れる。言いたいことを凶器に変えて、ぼろぼろになるまで投げつけてしまいたい。襟刳りから覗く白い膚を、思い切り殴ってやりたい。その唇に触れて、噛みつきたい。

 ああ私は本当に、おかしくなってしまったのだ。

「そうだったら嬉しいって、思っちゃったんだよ」

「え……?」

「最低でしょ、恋を壊されて喜ぶなんて。でもそう思っちゃったの。穴だらけで、歪んでるよね」

 押し当てた手のひらで涙を拭いて、自嘲する。『私のあなた』を一目見たとき、私はまず衝撃を受けた。でも、その後に湧き上がった感情は、怒りでもなければ悲しみでもなく、屈辱でもなく。

 キャンバスの全面から響いてきた、私へと向かう久藤くんの絶叫。悲しむ人を思う理性も、冷かして笑う人への体裁もかなぐり捨てた、断末魔のような。何を壊しても私が欲しいと叫ぶ、その渇望に、どうしようもなく喜びを覚えたのだ。

「久藤くんが私を作り変えてしまったんだよ。恋をぶつけて、爆発を起こして、あっちこっちに歪みを残したでしょ。それなのにいなくなれって言われたら、誰がその亀裂を埋めてくれるの? 核まで届くほどの強い愛なんて――あなた以外に、誰が」

 誰がくれると思うの、と。問い質そうとした言葉は、最後まで声にならなかった。ひやりとした唇が、八重歯を立てて私の唇に噛みついている。思わず竦んだ肩を後ろに回した腕で押さえられて、頭共々、逃げ出すことが叶わなかった。

 タン、とドアの閉まる音が耳の横で聞こえる。最後の涙が鱗のように床へと落ちていったものの、感情的なものなのか生理的なものなのか、もはやその区別はつけられそうになかった。

「いないわよ。一生、私以上にあなたを欲しがる人間なんていない」

「うん」

「だから、未央」

 私の熱を奪っていった唇で、久藤くんは囁く。呪いのように、鎖のように。この人を失ったら、もうこれ以上の愛は手に入らないのだ、と刻みつけるように。

 囁いて、口づける。言の葉を、私の芯まで吹き込むように。

「……二度と逃げられないわ」

 その声はいつかの、電話越しにおやすみと言った優しい声と同じだった。私は頷いて、分かってるよ、と答える代わりに目を伏せる。

 瞼の裏で、光を取り込む窓が静かに閉ざされた。外は快晴の空が広がっている。その窓に、鍵はない。


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