第9話「呼ばれた名前」
「月庭係に用がある」
ノア・クラウゼルの低い声が、薬術棟の奥の廊下に落ちた。
ロクシーとバニラの言葉が止まる。
さっきまでフィリアを月庭へ連れていこうとしていた2人の視線が、驚きと期待を帯びてノアへ向いた。
「ノ、ノア様……?」
「月庭係って、この子のことですか?」
この子。
その言い方に、フィリアの喉が小さく詰まった。
名前で呼ばれないことには慣れているはずなのに、自分がまた少し小さく扱われたような気がした。
だが、ノアはロクシーたちの言葉を拾わなかった。
淡い青の瞳が、まっすぐフィリアへ向く。
「フィリア・ノクスレイ」
「は、はいっ……!」
声が裏返った。
昨日、月庭の前で名乗った名前だ。
覚えられていた。
横で、ロクシーとバニラが息を呑む気配がした。
月庭係を押しつけられていた地味な薬術科生。
その名前を、魔術科首席のノア・クラウゼルが当然のように呼んだ。
フィリア自身も、どうしていいか分からなかった。
「今日の月庭の確認は、君で合っているか」
「あ……え、えっと……はい……今日は、というか、ほとんど毎日、私が当番の日です……」
フィリアは慌てて付け加える。
「月庭係は、薬術科2年の3つのクラスから1人ずつ出ることになっていて……その、入口側や普通の鉢は他の係も見ます。でも、蒼冷草は状態が変わりやすいので……最近は、私が見ることが多い、です……」
言いながら、声がだんだん細くなる。
説明しすぎただろうか。
月庭の中の話へ言葉が近づくだけで、胸の内側が落ち着かなくなる。
ノアは短く頷いた。
「分かった」
それから、視線だけをロクシーとバニラへ移す。
「君たちは月庭係か」
「えっ……あ、いえ。でも私たちは同じ薬術科2年でして……」
「係を代わるかもしれないので、見ておこうと思ったのですわ」
ロクシーが取り繕うように笑う。
バニラも隣で小さく頷いた。
ノアの表情は変わらなかった。
「確認したいのは、担当している係から見た管理状況だ」
冷たい声ではない。
だが、そこに入り込む隙間はなかった。
ロクシーの笑みが少し固まる。
バニラも何か言いかけたが、結局口を閉じた。
ノアは2人を責めていない。
退けようとしているわけでもない。
ただ、自分に必要な相手ではないと切り分けている。
その静かさが、かえって2人を黙らせた。
「……では、また今度にしましょう」
「そ、そうね。ノクスレイさん、後で聞かせてね」
後で。
その一言に、フィリアの肩が小さく沈む
2人は名残惜しそうにノアを見てから離れていく。
足音が遠ざかっても、フィリアはすぐには動けなかった。
ノアはフィリアを庇うために来たのではない。
便箋に書いてあった通り、月庭係に確認を取りに来ただけだ。
それでも、ロクシーとバニラは退いた。
その事実だけがここに残っている。
「月庭まで行く」
「あ……はい……」
フィリアはぎこちなく頷いた。
月庭の奥には、三日月の取っ手がついた白い飾り棚がある。
その引き出しには、ノアへの添え書きがまだ残っているかもしれない。
ロクシーたちを月庭に入れずに済んだが、今度はノア本人を案内しなければならない。
ノア・クラウゼルは、答えを見つける人だ。
フィリアは斜めがけの鞄の紐を握りしめ、薬術棟の奥へ続く廊下を歩き出した。




