第16話 名前を呼ばれた理由
翌朝、1限前の教室では寮対抗戦の話題が聞こえてきた。
白塔寮《魔術科》のノア・クラウゼル。
黒剣寮《騎士科》のレオンハルト・グレイヴ。
金冠寮《教養科》のセドリック・レインフォード。
華やかな名前が飛び交うたび、窓際や机の周りに集まった女子生徒たちが声を弾ませる。
だが、その中に別の噂が混じっていた。
「昨日、ノア様がまた薬術棟の奥に来ていたらしいわ」
「月庭でしょう? 白塔寮の子が見たって」
「月庭係に何か聞いていたとか……」
フィリアは席につきかけた手を止め、慌てて視線を落とした。
昨日、ノアが月庭へ来た。
奥の区画の蒼冷草について尋ねられ、また名前を呼ばれた。
――フィリア・ノクスレイ。
必要だから呼ばれただけだ。
月庭の奥の区画を見ていたのが自分だったから、確認のために名前を呼ばれただけだ。
そう分かっているのに、その後の失態まで一緒に蘇ってくる。
蒼冷草の効き方を話し続けてしまった。
香りが細く続く状態だとか、言わなくていいことまで口にしてしまった。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
「あの、フィリアさん」
横から控えめな声がした。
振り向くと、ミリエラが勉強用ノートを胸に抱えて立っていた。
昨日よりも表情が硬い。
「……ごめんなさい」
「え、え……?」
「2組で聞かれたの。最近、月庭係は何をしてるのって。ノア様が月庭に来てることが噂になっていたから、少し話してしまって……蒼冷草に興味があるとか、そういう細かいことは言ってないんだけど」
ミリエラの声がだんだん小さくなる。
「でも、そこから広がったのかもしれない。私、悪気はなかったけど……嫌だったら、本当にごめんね」
謝られると、どう返せばいいのか分からない。
ミリエラは笑っていない。
困らせようとしているわけでもない。
昨日、フィリアの説明を勉強用ノートへ書き留めていた時と同じ顔をしていた。
「あ……その……大丈夫、です」
そこまで言って、言葉が詰まった。
ノアが月庭へ来たことを、フィリアも誰にも説明できていない。
月庭棚のことも、蒼冷草の香りを求めていたノアの不調も、何一つ話せないままだ。
だから、ミリエラだけを責めることなんてできなかった。
「私も……ちゃんと、説明できないこと、あるので……」
小さくそう言うと、ミリエラは困ったように眉を下げた。
「うん。言いにくいことも、あるよね」
その声は少しだけ柔らかかった。
だが、その空気は長く続かなかった。
「へえ。やっぱり本当だったのね」
背後から、ロクシーの声がした。
フィリアの肩が跳ねる。
振り向く前に、バニラの甘い声が続いた。
「ノア様が月庭に来て、またフィリアさんと話してたって噂。まさかと思ったけれど、本当に何かあったのかしら?」
ロクシーとバニラが、廊下側の柱のそばに立っていた。
2人とも笑っている。
だが、その目は少しも柔らかくない。
「何かなんて……ない、です」
声がうまく出ない。
ロクシーは一歩近づき、フィリアの顔を覗き込むようにした。
「月庭係への確認だったのでしょう? それなら、あなた一人が答える必要はないわよね。月庭係は3人になったんだから」
「そうね。補習対象者のノクスレイさんだけがノア様の対応をするのは、おかしいもの」
バニラの声に、胸の奥が縮んだ。
補習対象者。
――落ちこぼれ。
――薬効が足りない失敗作。
直接そう言われたわけではないのに、全部をまとめて押しつけられた気がした。
ミリエラが小さく息を吸う。
「でも、奥の区画を一番見ていたのはフィリアさんだから……」
「それも変な話よね」
ロクシーはすぐに言った。
「月庭は3人で見る場所でしょう? 1人だけが奥を見ていたなら、管理として偏っていたということでしょう?」
正しいように聞こえる。
だが、言い方が違う。
レナリースは、3人で確認しなさいと言った。
ロクシーは、フィリアがそこにいる理由を削ろうとしている。
フィリアは鞄の紐を握った。
「あ、あの……レナリース先輩が、3人で確認するようにって……」
「だから、私たちも確認したいの」
バニラがにこりと笑った。
「月庭って、薬術科の区画でしょう? 係だけしか見ちゃいけない場所ではないわよね」
その言葉に、フィリアの喉が狭くなる。
月庭は施錠された専用区画ではない。
薬術棟の奥にある古い温室で、学院生なら基本的に入れる場所だ。
だからノアも来られた。
だが、奥には白い飾り棚がある。
三日月の引き出しがある。
ノアの便箋も、薬を置いた場所も、そこにある。
「今日の放課後、私たちも行ってみようかしら」
ロクシーが軽い声で言った。
「月庭係がちゃんと管理しているか、見てあげるわ」
「ええ。ノア様が気にされる場所なら、薬術科としてもきちんとしておかないと」
バニラが頷く。
ミリエラの顔が少し強張った。
その時、ユリスが廊下の向こうから歩いてきた。
銀縁眼鏡の奥で状況を見て、すぐに足を止める。
それから静かな声で言った。
「月庭の管理確認は、レナリース先輩が正式に決めたことだ。今日は係3人で奥の区画の続きを見る予定になっている」
ロクシーは目を細めた。
「だから?」
「見学を止める権限は僕にはない。ただ、薬草区画で勝手に鉢や棚に触るなら、管理記録に残しておく」
淡々とした声だった。
脅しているわけではない。
ただ、事務的に言っているだけ。
ロクシーの笑みが少しだけ固まる。
「ずいぶんと真面目なのね」
「係だからな」
ユリスはそれ以上言わなかった。
ミリエラがそっとフィリアの隣へ寄る。
「フィリアさん、放課後はいつも通りでいいよ。薬草の香りの違いとか、他にも昨日の続きを教えて」
「あ……はい……」
守られた。
そう言い切っていいのかは分からない。
だが、ミリエラとユリスは少なくとも、フィリアを押しのけようとしていなかった。
月庭を奪いに来たわけではない。
昨日そう感じたことは、間違いではなかった。
ロクシーは一度だけフィリアを見た。
「では、放課後に」
バニラも微笑む。
「月庭、楽しみにしていますね」
2人が去っていくと、廊下のざわめきが戻ってきた。
だが、フィリアの耳には遠く聞こえる。
月庭へ来る。
ロクシーとバニラが、白い飾り棚のある場所へ来る。
昨日、ノアが知った。
月庭係は3人になったと。
今朝、ロクシーとバニラが知った。
ノアが月庭に来て話したと。
少しずつ、月庭の奥へ向かう視線が増えている。




