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第20話『お嬢様の“庶民観察”日記』

 放課後のリビングには、紅茶の香りがふわりと漂っていた。


 ゆったりとした時間が流れる中、私はお気に入りのカップを手に、ふと口を開く。


「……ねえ、ママ」


 対面に座る母、ナターリアは、新聞をたたみながら顔を上げる。


「最近……翔馬と話すとき、なんだかうまくいかないの」


 言葉を選びながらも、私は正直に続ける。


「避けられてるみたいで……嫌われちゃったのかなって……」


 自分で言ってから、紅茶のカップの中に視線を落とす。まさか自分がこんな風に悩むとは思ってなかった。


 けれど、ナターリアは眉ひとつ動かさず、落ち着いた口調で言った。


「それは——観察不足ですわ」


 きっぱりとしたその物言いに、私は思わず顔を上げる。


「観察……?」


「ええ。相手を知らずして、関係を築こうとするのは難しいものです。彼がどう考え、どう動き、どういう性質を持っているか。知る努力は、あなたの側にも必要ですわ」


 ナターリアは紅茶を一口飲んで、カップをソーサーに静かに置く。


「庶民研究という名目で、“記録”を始めてみたらいかが?」


「記録……?」


 私はその言葉を胸の中で転がす。

 記録……調査……観察……学術的調査。

 そう、そういうものなら——


「……なるほど、学術的調査。探偵のような視点で、冷静に分析を」


 思わず立ち上がり、キラリと目を光らせる私に、ナターリアは紅茶を口に運びながら、くすっと笑う。


「張り切るのは結構ですけれど、くれぐれも“冷静”を忘れないようにね」


「もちろんよ。あくまでこれは、庶民文化の理解の一環……」


 私はすでに翌日の準備に取りかかるつもりで、手帳とペンを手に取った。


 ——目指すは“冷静な記録者”。

 ……のはずだったのだけれど。


 翌朝、私は電柱の陰に身をひそめていた。


 帽子、サングラス、そして目立たないベージュのカーディガン。

 完全に“調査員スタイル”だと自負している。隠密性は抜群。誰がどう見ても通学路の地味な女子高生のつもりである。


 手にはしっかり観察用ノート。


「庶民・翔馬、通常通り徒歩にて登校中……歩幅安定。背筋はやや前傾。遅刻ギリギリ狙い型と推測」


 私はサラサラとペンを走らせた。


 ——と、思ったその瞬間。


「……いや、いるし」


 前方を歩く翔馬が、バッチリこっちを振り返った。


「お前、めっちゃこっち見てたよな? てか、目立ちすぎ」


 ギクリと私は電柱の陰に隠れ直す。


「な、なにを言っているのかしら。私はただ通りがかっただけよ」


「通りがかって電柱に張りつくなよ……」


 そう呆れられている間にも、私はこっそりノートに書き込む。


「庶民、警戒心が強い。観察力も悪くない。やや神経質気味?」


 そこへ、さらにタイミングよく別の声が飛んできた。


「エリザベートさん!? なにしてんの!? えっ、もしかして……探偵ごっこ!?」


 ミアだった。


 まるで何もないかのように現れた彼女に、私は動揺を隠せない。


「ち、違うわ! これはあくまで——自主研究! 庶民観察よ!」


「うわあ、翔馬くん監視されてる〜! 人気だねえ♪」


「ミア、黙ってなさいっ」


 ミアはくすくすと笑いながら、私と翔馬を交互に見ている。


  私の計画した“こっそり観察モード”は、開始5分で華麗に瓦解したのだった——。


(……でも、諦めないわ。これは、私の“調査”なんだから!)


 ──そして、昼休み。


 私は教室の窓際に座りながら、少し離れた場所をじっと見つめていた。

 そこには、翔馬とミア。例によって例のごとく、ふたりで並んでパンをかじりながら、何やら楽しげにおしゃべり中。


「庶民、昼食時の言語量多め。内容:くだらない冗談。笑いの頻度:平均40秒に一度」


 私はノートに冷静に記述……しているつもりだったけど、どうにも手元のペンがグリグリと強くなっていく。


「……異性との距離感が近い。反応速度早め。……女たらし疑惑あり」


 さらに観察を続けていたその時だった。


 翔馬が、ミアの額を指先でつついた。


 ピンッと、軽く。


 ミアは「なにすんのよ〜」と笑っている。翔馬もつられて笑っている。……その笑顔、けっこうレアなやつじゃない?


「……触った。今、触った。完全にそういう手慣れたタイプ……女たらし確定」


 書きながら、手帳の角がちょっとだけ折れるほどに力が入ってしまう。


 くぅっ……なぜ私がこんなに冷静じゃないの!?


 と、思っていたそのとき。


「ほら、これ」


 視界の端から、ペットボトルが差し出された。


 びっくりして顔を上げると、そこには翔馬が。さっきまでのミアとの笑顔とは違って、少しだけ優しい顔で立っていた。


「……お前、飲み物忘れてただろ」


「え、あ……」


 声にならないまま、私はペットボトルを受け取った。


 (……って、なにこれ、私……なんで顔、熱くなってるの……)


 さっきの“女たらし”認定、いったいどこ行ったのよ。


 私はそっと手帳を閉じて、顔を伏せた。


「……庶民、気遣い……は、たまに、ありがたい」


 赤くなった頬を隠しながら、私はこっそりそう書き足した。



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