(十五)
「お前達兄弟は、もう完全人体にはなれないよ」と、集真藍の王は怒りを込めた瞳でおれを挑発した。
それなのに……。
夢が叶わなかった悔しさを、心の中で探し回っても微塵も湧いてこないことに、おれは気づいてしまった。
植物を枯死させる薬があのまま残っていれば、兄との夢を最優先にするのか、それとも全てを諦めるのか、どちらかを選ばなければならなかった。
目の前から可能性が消滅してくれたお陰で、おれは紫を置き捨てて、完全な人体になるという決断の責任を負わずに済んだのだ。
——花は怒るかもしれない。
折角のチャンスをみすみす捨てて。
園芸師の重い鎖を外して、彼に自由を与えてやれなかった。
それでも、どうしても譲れなかったのだ。
緊迫した空気を壊すように、横倒しになった玉座の四方から亀裂が走り、溝に沿って地面が不自然に盛り上がる。
「……? 何だ?」
王の声をかき消すように、ズズズ……とくぐもった地鳴りが響いた直後、一度だけ身体がバウンドするように浮き、地面から振動を感じたのも束の間。
白亜の基壇が一気に崩れ落ち、愚王と蔑んだ相手と共に、集真藍の王は深い闇へ吸い込まれていった。
白いオオカミたちは消えた主を追うが、大穴から上がってきた砂埃が彼らを襲い、えぐれた地面の手前で引き返す。
基壇が崩落した余波により、周辺の床も乾いた土のようにボロボロと壊れ始め、三頭の獣が巻き添いをくらい底の見えない穴に落ちかける。
焦ったオオカミは崖の淵に前足の爪を引っ掛けて、必死に上へあがろうとした。
しかし、今度は王宮全体が大きく揺れて、大穴に向かって地面が傾く。
床に張られた水の流速が増して、三頭のオオカミに襲いかかった。
押し寄せる水圧に耐えきれず、一頭が短い鳴き声を上げて穴の中へ流されていく。
地上の白い獣たちは残された二頭を引き上げ、仲間を飲み込んだ穴に向かって吠え続けるが、反応は返ってこない。
状況が目まぐるしく変わり、おれは焦りながら右手を動かした。
肩で抑えれば芽切鋏もどうにか使えるだろうと、床を見回したが落とした鋏がどこにも無いことに気づく。
ウサギの芽切鋏は多分、穴の下に流されてしまった。
葉化病の治療中だった植物体はドサッと頭を前に垂らし、首の後ろの真緑色に染まった萼をおれに見せた。
水の渦に巻き込まれた長いショールが下駄の歯に引っかかる。
おれが怪我さえしなければ……と、赤い涙を流し続ける腕を恨んだ。
葉化病や白いオオカミたちを恐れ、紫を拘束した一部の青い植物体たちは、揺れが続いていても室内の適当な柱にしがみついて無事だ。
だからこそ、尚更苦々しく悔やむ。
助けられなかった事実を受け止める暇もなく、紫がウサギの身体が濡れないよう片手で抱いたまま、強い力でおれの右腕を持ち上げてきた。
「陽、立って!」
そうだ、紫と逃げなくては——!
グラグラと視界が揺れて石の床が波打ち、おれたちはバランスを崩して、紫の手からするりと腕が抜けた。
「っ……、陽!」
紫が叫んだとき、黒い被毛がおれの視界を塞いだ。
瓦礫が壊れるような音がして、振動は収まった。
だらりと動かない左手が地面に触れているが、水気はない。
おれが息を吐くたび、目の前の毛がさわさわと揺れた。
「す、凄い……」
誰かが声を震わせ、おれは喉を鳴らした。
おれたちの頭上を覆うように、巨大な青い集真藍が咲いていたのだ。
基壇が陥没した穴から王宮の天井に届く寸前まで、無数の太い茎がまるで木の幹のように束となって伸びていて、数え切れない量の青い萼を支えている。
天井から降り注ぐ光は集真藍の葉に重なり、網目状の葉脈が薄い黄緑色に透けていた。
「おい、二人共しっかりしろ」
この場に居るはずのない、おれたちの園芸師が湿り気を帯びたマズルを顎下にくっつけてきて、驚いて身体を後ろに反らした。
「は、花……?」
久しぶりに花の顔を見たような気がして、おれは恐る恐る彼に手を伸ばした。
全身の冬毛がかなり抜け落ちていて、腹と首周り以外はスラリとしている。
ぎこちなくその身に触れて、夏毛に埋もれる手を前後にゆっくりと動かすと、花は気持ちよさそうに目を伏せる。
花だと確信すると少し強めに撫でた。
「花……。おまえ、靴屋に戻ったんじゃなかったのか?」
「ああ。だが、戻ってみると紫の姿がベッドから忽然と消えていてな」
紫は何かに気づいたようで、申し訳なさそうに眉を下げた。
気まずそうな彼の謝罪を花は止めて、「元気になったならいい」と、長い尻尾をゆらゆらと動かした。
「靴屋を問い詰めたら、集真藍の王に脅されていたと自白した。お前が下駄を買えなかったのも、裏で奴が手引きしていたせいだった」
コイツとお前達の後を追ってきた。
そう言うと、花は太い首を激しく振った。
顔周りの黒い冬毛が舞い散り、自由が利く右手でそれを払っていると、見覚えのあるネズミが花の胴体の下に落ちてきた。
どうやら、花の首元に巻かれた銀色の鎖にしがみついていたらしい。
ネズミは起き上がるとお尻を叩いて、「や、やあ! 赤いアジサイくん、探していたよ」と、すっとぼけた顔をした。
「噴水の周りに白いオオカミが彷徨いてただろ? 王宮によく侵入できたな」
「潜り込むのはお手の物だからね」
ネズミの園芸師は腰に両手をあてて胸を張り、得意げに言った。
おれと紫は顔を見合せ、花はやれやれといつもの調子で溜め息をついた。
「地下の空洞に大きな集真藍の根が絡み合っているのを見つけて、ほぐすのに時間がかかった」
「ボクとオオカミくんだけじゃ手に負えないから、他の園芸師たちも呼んできたんだ」
正面の大扉から、身体に縦斑のある鳥が褐色の翼を広げて飛んでくる。近所に住むアオバズクだ。
園芸師の集会で見かけた顔も続々と入ってきて、肩の荷がおりたような気分になった。
——ウサギが気に掛けていた根の正体は、これだったのか。
「街に不審な根が伸びてたっていう問題も、これで終息するのかな」
「街に集真藍の根が?」
「ウサギが言ってたんだ。王宮に何か原因があるかもって」
花は紫を呼び、ウサギを抱える腕に前足を乗せて、自分の視線の高さまで下げさせた。
彼女の顔を静かに覗き込み、「早く外に出よう」とおれたちに伝えた。
「キャン! キャン!」
白いオオカミたちが叫び出し、大穴に落ちた王か仲間が見つかったのかと緊張感が走る。
白い獣の首に巻かれていた隷属の鎖の内側から、草花が生えていたのだ。
急速に成長する草花はオオカミの首を囲うように膨らみ続け、銀の鎖は限界を迎えて破裂し、花環へと姿を変えた。
鎖が破壊された後も花環の勢いは止まらず、老いた獣は頭を後ろに捻った。
上下の歯を何度も噛み合せて、伸び続ける草花を噛みちぎろうと試みるが届かず、首が重さに耐えられなくなってきたのか、単に疲れ果てたのか早々に顎を地面につけた。
花が口を開いて彼に近づくと、老いた獣の仲間が何を勘違いしたのか、花環に埋もれそうな髭を器用に逆立て楯突いた。
花は動じることなく、急所である喉元を狙った単調な攻撃を回避すると、見本を見せるかのように命知らずの獣の首根っこを抑え、草花の上から噛み付いた。
すると、花環はパッと綿毛に変化し、辺りに飛び散った。
その様子を見た白いオオカミたちは、花の行動を真似て互いの首元を甘噛みし始め、綿毛が一斉に空気中に飛び交う。
花は口の中に付いた綿毛が気持ち悪いのか、変な音を立てて吐き出そうとするが苦戦していた。
見かねた紫が花の顎に手を伸ばし、指で異物を取ってあげていた。
光に向かってふわふわと飛んでいく綿毛。
老いた獣は隷属の証と別れを告げるかのように、頭上の集真藍を仰ぎ遠吠えをした。
「花や他の園芸師の首には鎖が残ったままなのに、アイツらに一体、何が起きたんだ?」
ネズミの園芸師が試しに花の黒い背中に登り、銀色の鎖に小さな歯で噛み付いてみせたが、歯の痛みを訴えるだけで何も起きなかったのだ。
興奮状態の白い群れが合唱をする中、おれは下駄に引っかかっていたショールで噛まれた傷口を覆って、腕を固定した。
患部が熱を帯びていて、頭がぼうっとしてきた。
「優秀な植物体が園芸師の鎖を解くことは、お前達も知っているだろ。あれは植物体の身体から植物が枯死された証拠だ」
それじゃあ……と、基壇のあった場所に自然と目が行く。
穴の内部は集真藍の茶色く木質化した茎が占領していたが、奥のほうで白い根に絡まった白い椅子の脚が折れていた。
それ以外は暗くて、中の様子を詳しく知ることは今は出来なかった。
花の号令のもと、園芸師たちは協力し合い、まずは葉化病に感染した疑いのある青い植物体を王宮の外へ運んでいく。
園芸師が植物体を連れて行くすれ違いざまに、尻尾のないリスが扉の外から跳ねながら走ってきた。
おれたちと目が合うと飛び上がって喜び、すぐさま紫の肩によじ登ってきた。
「植物医が外に待機してるんさ。ウサギの園芸師も診てもらいましょ」と提案して、疲れ顔の紫を笑顔にさせた。
「陽? 私たちも早く行こう?」
晴天を思わせる見事な青一色の集真藍を背に、紫の肩に咲く白い萼が雲の一朶のように見えて、おれは目を細めた。
雲は制止せず、形を変えて常に動き回る。
紫の運命も彼が願うのなら、きっと——。
口元を緩まていることを紫に知られたくなくて、おれは下を向いた。
紫はせっせっとおれの身体を支えて、腕にウサギも抱えて大変そうだ。
「兄貴じゃないなら、おまえは誰なんだよ」
いつかの問いを紫に投げかける。
おれの言葉に首を傾げ、そうだなぁ……と自身の白い集真藍を見つめて。
「陽の隣で、肩を貸す人……かな」
紫は照れくさそうに笑った。
*
花の話では、園芸師たちが大穴を隈なく捜索したが、集真藍の王と流された白いオオカミの姿はどこにもなかったらしい。
そして、一連の騒動は国中に知れ渡り、ほどなくして集真藍の王は行方不明のまま失脚。
次に紫紺の集真藍を宿す植物体が産まれるまでの間、集真藍の植物体は同じ被子植物の王の管理下に置かれることとなった。
当事者である、おれ一人を除いて。
あの日以来、おれの身体には赤い萼の数が増えていった。
変化の渦中にいたのは紫も同じで、秘薬の副作用が出たのか真相はわからずじまいだが、腕一杯に咲いていた白い集真藍は枯れ色に変わり、現在は肩の一朶を残すのみ。
萼は徐々に下を向き始め、彼はやがて集真藍の植物体でなくなることを皆に告げた。
紫は近い将来、完全な人体を手に入れる。
花を含めた園芸師たちが、以前の面影を残して縁だけが白い枯れた萼の枝に、一つ一つ鋏を入れていく様子を見守った。
兄の白い集真藍との別れは辛かったが、紫の新たな門出を祝えたことに感謝した。
やっぱり、兄の白い集真藍は特別だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、おれたちは何度も新しい朝を迎えたが、兄の記憶は何一つとして紫の元へは戻らず、おれがひそかに落胆する回数も月日と共に落ち着いていった。
今年は秋の迎えが早く、鋸歯の葉が顔にかかり、僅かな視界の片隅で家族を眺めた。
土のベッドに太陽の匂いがする白いシーツを掛け直し終えた紫は、棚から本を出して一階に運んでいく。
使い古した下駄は紫の足には大きさが合わず、踵が飛び出したままだ。
おれが前もって用意した白い鼻緒の下駄を見つけた時、紫は感嘆の声を上げていたが、何故か履こうとはせず、今も大切にしまい込んでいるようだった。
窓の外では花がウサギの恋人を連れて、楽しそうにじゃれ合っている。
出窓から入る冷たい風に赤い萼を震わせていると、紫が「今日は冷えるね」と言いながら窓を閉めた。
植物の国に、もうすぐ冬が巡る。
了




