第十一話 幽霊船(3)
ヒロシもその名前だけは知っていた。ファンタジー作品やゲーム、映画などにもよく出てくる巨大なイカの怪物で、大抵は船を襲って沈めてしまうという恐ろしい怪物である。それが現実となって目の前に出現したことに、ヒロシは理解がなかなか追いつかず呆然としてしまう。
「う、嘘だろ……?」
「さ、さすがにコレはちょっとデカすぎニャ……」
ヒロシの隣で同じく巨大なイカの魔物――クラーケンを、ヒナタも目を丸くして見上げている。
「こういうのは光の巨人的な人が相手するモノであって、普通の人間が関わっちゃダメだろ……」
クラーケンは人間よりも大きく丸い目玉で、船の上の人間たちをじっと見下ろしている。
「さあやれクラーケン! 人間どもに消えない恐怖を刻み、海の底に引きずり込んでやるのだ!」
ドレイクが再び手にしたベルを鳴らすと、クラーケンの真っ白な身体の表面に電流のようなものが走り、その瞬間にクラーケンは激しく暴れ始めた。胴体よりもさらに長い触手を振り回し、絡みついた船のマストを割り箸のようにへし折ってしまう。さらに別の触手を甲板に叩き付け、甲板の一部が砕けると同時に数人の船乗りが海に投げ出された。
「うわああああっ! 助けてくれえっ!」
船上は大混乱となり、船乗りたちの悲鳴で溢れかえる。ヒロシたちもどうにか反撃をと思いはしたが、船体に巻き付いた触手が船を激しく揺り動かし、しがみ付いているだけで精一杯である。
「ううっ、海へ落とされたら一巻の終わりだぞ……みんな振り落とされないように掴まって――!」
そう言いかけた瞬間、すぐ近くにいたメリアの背後から触手が伸び、彼女を捕えようと向かってくるのが見えた。ヒロシは考える前に飛び出すと、メリアを両手で突き飛ばした。
「危ないっ!」
「きゃあっ!?」
間一髪でメリアは難を逃れたが、ヒロシはあっという間に触手に巻き付かれて十メートル以上もの高さまで持ち上げられると、そのまま海の中に引きずり込まれてしまう。
「ヒロシ様!?」
メリアは真っ青な顔をしてヒロシの消えた海面を見るが、もうヒロシの姿は影も形も見当たらない。
「ヒロシ様を返しなさいッ!」
メリアはすかさず杖を構え、クラーケンめがけて雷の魔法を連発するが、どういうわけか電撃が逸れてしまい、クラーケンにダメージを与えることが出来ない。ならばと火炎や冷気の魔法を浴びせてみるが、クラーケンにはさしたる傷も与えられていなかった。
「そんな……ヒロシ様……!」
メリアは絶望の表情でその場にへたり込み、ただヒロシが消えた海面を見つめる事しか出来なかった。
(がぼぼっぼ……!?)
一方、水中に引きずり込まれたヒロシは触手に巻き付かれたまま、水中で暴れまわるクラーケンの姿を見ていた。その暴れっぷりは意志を持って行動しているというよりは、苦痛によってもがいているように見える。だが呼吸も出来ず、生きるか死ぬかの瀬戸際でそれを気にしている余裕はなく、なんとかして触手を抜け出そうと試みる。触手には細かい歯の生えた吸盤が並んでおり、下手にもがくとそれが肉に食い込んで非常に痛むため、ヒロシはイチかバチか吸盤のない場所を指先でこちょこちょとくすぐってみた。するとクラーケンも違和感を感じたのか、ヒロシを握る力が弱まり、その隙にヒロシはなんとか抜け出すことに成功した。呼吸のために水面へ一直線に浮上している途中、ヒロシはクラーケンの真っ白な胴体に奇妙な物が刺さっているのを見た。それは返しの付いた船の錨で、鎖などは繋がっていない。だが時折その錨が青白く光ったかと思うと、クラーケンの胴体に電流のようなものが走り、クラーケンはその度に触手を滅茶苦茶に振り回している。
(なんだアレは……?)
ひとまず海面へ浮上して呼吸をしたヒロシは、船の様子に目をやる。船はクラーケンの攻撃によってどんどん破壊され、このままでは船体をへし折られて海に沈みかねない状況である。どうにかしなければと思いながら、あまりに巨大な怪物に対抗する手段がない。このまま海の藻屑と消えてしまうのかと思ったその時、一瞬だがヒロシはクラーケンと目が合った。
(……!)
人間より巨大なクラーケンの目玉から感情を読み取ることは出来なかったが、暴虐を楽しんでいるようには思えなかった。錨から電流が流れる度に暴れるクラーケンの姿に、ヒロシはふと思いつく。
(もしかして、アレで操られているだけなのか……?)
正直、とてつもなく巨大なクラーケンに近付くのはそれだけで危険である。近付く間に波や触手にやられて命を落とす可能性も高い。それでも、このまま座して死を待つよりはとヒロシは動き出した。近くに浮かんでいた樽にしがみつき、それを盾と浮き輪代わりにしてクラーケンへと近付いてゆく。何度も波に攫われそうになりながら、やっとの思いでクラーケンの胴体に取り付くと、ヒロシはクラーケンの胴体に刺さっている錨を手で掴む。錨が青白く光る度、それを握る手にも電流のような不快感と痛みが走るが、ヒロシは歯を食いしばって錨を両手で掴み、クラーケンのぬめっとした胴体を地面代わりに踏ん張って力を込めた。
「この……っ!! ふんぬうぅぅぅぅぅっ!!」
先端に返しが付いているせいか、刺さった錨はなかなか抜けず、クラーケンも暴れ続けるためなかなか力が入らない。だが、そうこうしている間に少しずつ刺さっている傷口が広がったのか、錨がぐらぐらと緩み始めてきた。
「こ、ここで失敗したらもう後がないぞ……踏ん張れ俺……ッ! うおりゃああああっ!」
ヒロシは頭の血管が切れそうなほどに力を込め、全力で錨を引っ張った。直後、とうとう錨はクラーケンの胴体から抜け、ヒロシはそのまま背中から海へ落下した。すぐに手放した錨は海底へと沈んで見えなくなり、ヒロシは急いで海面へ浮上する
「いったあああああああーーーーーーーーーいっ!!」
突如、周辺に若い女の声が鳴り響いた。ヒロシは思わず耳を塞いでしまったが、ふと目の前を見上げると、錨が刺さっていた場所を触手でさすりながら、クラーケンが大きな目玉をきょろきょろと動かしていた。
「ちょっと!! マジ信じられないんだけど!! ほんっっっとに痛かった!!」
その見た目とあまりにかけ離れた口調で叫びながら、クラーケンは触手で水面をばっちんばっちんと何度も叩く。その度に水面がうねり、ヒロシは波にのまれそうになってしまうが、クラーケンはヒロシの姿を見つけると、触手で捕まえ両目の前に持ってきた。
「あー、アンタね。あたしに刺さってたアレ、取ってくれたんでしょ。本っ当ありがとうね! めちゃくちゃ痛かったんだよー!」
その声と口調は巨大な怪物のそれではなく、少し高めの若い女子そのものである。クラーケンは大きな目玉をぎろりと動かすと、幽霊船の甲板に戻っていたドレイクに目をやった。
「あーっ、いたいた! アンタ、よくもあたしにあんなモンぶっ刺してくれたわね……! 死ぬほど痛かったし、言葉も喋れなくなるしさー、もーほんとサイアク!」
「ぐぐ、馬鹿な……! なぜ呪いの錨が外れた……あれは自分では絶対に抜けないはずだぞ!」
「だから外してもらったに決まってんでしょーが! そんなことより……」
クラーケンはドレイクを睨み付け、無数の触手を幽霊船に絡み付けていく。
「あたしをあんな酷い目に遭わせといて、タダで済むと思ってないでしょーね!」
言うなりクラーケンは触手に力を込め、幽霊船を砕き始めた。元からボロボロだったマストは根元からなぎ倒され、船体も大きな亀裂が走り、あちこちで軋む音を立てながら砕けていく。
「あああっ、よせ! 俺様の幽霊船が!」
「うるっさいわこのアンコウ男! どっせーーーーーーーい!!」
クラーケンは怒り心頭といった様子で叫ぶと、天高く垂直に持ち上げた触手を一気に叩き付け、ドレイクごと幽霊船を真っ二つに砕き割ってしまった。さらにクラーケンは左右に分かれた幽霊船の残骸を触手で海中に押し込み、そのまま沈めてしまった。文字通り、幽霊船が海の藻屑と消えた光景にヒロシが唖然としていると、クラーケンはヒロシを両目の近くに持ってきて目玉を輝かせた。
「どう? どう? 見てくれた? あたしってば強いでしょー! あースッキリした!」
上機嫌になったクラーケンはヒロシを船の甲板に下ろし、触手の先端をひらひらと動かしながら喋り始めた。
「いやー、ごめんねー。あたしはずっと北の海に住んでるんだけどさー、昼寝してたらさっきのブ男にヘンなもの刺されちゃって。そしたらもービリビリがめちゃくちゃ痛いし言葉は喋れなくなるし、それでアイツのいう事聞かされてたんだよねー」
あっけらかんと喋るクラーケンにヒロシだけでなく、仲間たちや船乗りたちも空いた口が塞がらないといった様子だった。ともあれ今のクラーケンにはまったく敵意が感じられず、ヒロシはクラーケンに声をかけた。
「ええと、俺たちは女神の神殿があるっていう島を目指してるんだ。もう少しで辿り着ける予定だったんだが、船がこの有様では……」
先ほどの戦いで船はあちこちが破損し、メインのマストも折れてしまっている。この様子では舵もまともに効くか怪しく、遭難待ったなしという状況だ。
「んー、オッケーオッケー。じゃあ助けてもらった恩もあるし、島まで引っ張っていってあげるよー。あたしってばえらーいっ」
「そうしてくれると助かるよ。その前に、海に落ちた船乗りたちも助けないと」
船の近くには投げ出された船乗りたちが破片や樽にしがみついており、クラーケンは彼らを触手でひょいひょいと掴んでは甲板の上に戻していく。さっきの戦いで負傷した者もいたが傷はいずれも深くなく、手当を済ませてメリアの治癒魔法を受けると、普通に動けるようになっていた。
「よーし、そんじゃしゅっぱーつ!」
クラーケンは壊れかけた船を触手で掴み、巨大な身体を海面と水平に横たえると、スイスイと海上を進み始めた。帆に風を受けるだけでは出せないような速度で進む船に、船乗りたちは興奮した様子で騒いでいた。ヒロシは少し疲れた様子で甲板に座り込んでいたが、船乗りたちの手当てが終わったメリアがやってきて、ヒロシの横に並んで腰を下ろす。
「ヒロシ様、大丈夫ですか?」
「はは、ちょっと色々あってくたびれただけだよ。海の魔物が襲ってきたと思ったら幽霊船まで出てきて、最後にはあんな大きなイカのモンスターまで現れるんだもんなあ」
「はい、私も本当に驚いてしまって……もうダメかと思いました」
「さすがにこのサイズの差は反則だよなあ。やっぱり対抗するにはこっちも巨大化するしかないのか……うーむ」
「あの、そのことではなくて」
メリアは少し困ったような顔をしたが、すぐヒロシの顔を心配そうに見てきた。
「ヒロシ様が私をかばって、海に引き込まれた事です。どうしてあんな無茶を……」
「どうして、か……うーん、どうしてだろう」
腕を組んで首を傾げるヒロシに、メリアも思わず苦笑する。
「気付いたら身体が動いてたとしか……俺も最初に比べたら、神経が太くなったってことかな。わはは」
「それ、ちょっと違うような気がします」
メリアは思わず笑ってしまったが、同時に張りつめていたものが楽になった気分だった。
「でも……守ってくれて嬉しかったです」
そう言ったメリアは顔を赤くしてうつむいてしまう。ヒロシも次の言葉が思い浮かばず、じっと海を見つめていた。やがて水平線から島の姿が現れると、船員たちの間からわっと歓声が上がった。魔物の襲撃を辛くも退け、ヒロシたちは女神の島へと辿り着くことに成功したのだった。
第十一話 幽霊船 おわり




