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アヤカシ太夫♂とイロオトコ  作者: 駿馬
龍(リュウ)
41/53

龍(リュウ) ─参、

 


異變ト云フモノハ

マッコト悲シキカナ


其レハ絶望ノ羣青ト

怒リノ茜色ヘト染メアゲ

突如現レシモノ也



人間曰ク

是即チ"悲劇"デアルト



 

 


『外』の世は相も変わらず、どんよりと立ち込めた雲より白い雪を所狭しと振り撒き、白と鼠色の景色が広がっている。

 なだらかな雪原の海はしかし時折狐や兎が駆け抜け、僅かな乱れを見せて変化を楽しみ、しかし暫くすれば再び其れ等は降り積もり行く雪の中へと埋もれ、沈黙した。



 狛虎は、寒さが苦手だ。

 黒町屋の招き狐の膝上にしろ、百姓の息子の懐にしろ、じわりと染み入る様な体温と向けてくる優しき心が心地良い。

 故に、雪深い中体を震わせながら其の二つの居場所を往復し、冷えた体で懐へ潜り込んでは「冷たい、」と擽ったそうに身をよじらせる姿を見、愉快な気持ちで一日を過ごすのである。


 あの縦穴へは、暫く行く気にはなれなかった。単純に、寒い故だ。

 雫彦の事が心配ではあったが、朧が言うに「ひと月ふた月等、我等にしては空けた内に入らぬ」らしく、少し気が楽になった。



 今日の奈々尾は、帳簿管理の為に机へ向かい、書類を広げていた。

 其の膝上には猫姿の狛虎が鎮座しており、隙間より奈々尾の手が文字をすらすらと刻んで行く様を見詰めている。

 其の頭を、筆を置いた奈々尾の冷たく細い手がそっと撫で、狛虎は目を細めて其の感触を噛み締めた。



「兄さん、寒く無いかい?」


 奈々尾が問えば、狛虎はぱっと目を見開き、「んにゃ」と呟く。

 喋る事の出来ぬ猫姿でも、返事程度は容易。

 今の鳴き声は確かに否と聞こえ、しかし奈々尾は襦袢の裾を狛虎の体に被せた。


「兄さんは温かいね……この冬は楽に過ごせそうだ」


 襦袢の中にて其の言葉を聞き、狛虎は嬉しそうに寝転がった。


 其の様な緩やかで幸せな時間が流れる中、廊下より足音。

 聞き慣れた其れに気付いた奈々尾が襖へ目を遣れば、すうと開き姿を見せたのは他の部屋にて仕事をしていた悟兵衛であった。



「やあ悟兵衛さん、如何でしたか?」

「ええ、万事滞り無く進んでおります。御心配には及びませぬ、」


 浮かんだ笑顔とそう掛けられた言葉に、確かに案じていた仕事が順調である事を悟り、奈々尾は「良かった、」と胸を撫で下ろす。



「まさか、この時期に出羽の鳥海山が噴火するとは、思うても見なかったのでしょうな、」

「結局の所、其の噴火は如何なったんです?」

「どうも軽い地震と噴煙が少しのみで、大分収まったとの事。幕府も安堵しておる様子です。

 只、地元では大物忌神(おおものいみのかみ)の怒りだと騒いでおる様で」

「神の怒り、ですか……」

「まぁ若様がお気に為さる必要は御座いますまい」


 そう、からからと笑いながら悟兵衛は話す。奈々尾は其の顔に安堵の色を見せたが、不安気な瞳で悟兵衛を見上げていたのは寧ろ狛虎の方であった。

 其れにはたと気付いた悟兵衛は漸く頼まれ物を思い出し、顔を上げる。



「嗚呼そうだ。

 若様、少々狛虎をお借り出来ませぬでしょうか?話があります故」

「ええ、どうぞ。 ……兄さん、さあ」


 奈々尾が促すが、狛虎は少しだけ寂しそうな顔にて奈々尾を見上げるのみ。


「大丈夫、俺はもう温まったから。兄さんが戻るまで温めて置くよ」


 其の言葉で初めて安堵した様に襦袢の中よりするり抜け、途端に悟兵衛の大きな手が狛虎を軽々と抱え上げた。

 狛虎は特に嫌がる素振りは見せず、廊下へと大人しく連れられて行った。




「で、如何だったからに?」


 悟兵衛の手よりストンと降り立った狛虎が、人の姿へ化けると同時に声を上げる。

 腕を組み壁に寄り掛かった悟兵衛は、迫る狛虎を源三郎の顔で見やり、苦笑した。


「狛虎。お前さん、最近人使いが荒いぞ?」

「そうか?で、如何だったからに?なぁ、」

「ふむ……確かだったぜ。

 将軍の息子が今どうも具合が悪いらしくてな、ひと月程前に其の病に効く妙薬を取りに樹海へと向かったそうだ。結局の所、鵺やら何やらに襲われて収穫が無かったそうだが」

「……薬か?」

「さてね……医者が匙を投げ陰陽師を頼った際、言われたのが『樹海に住む龍の生き血に頼れ』との事だったのだと」

「龍の生き血!!」


 狛虎は目を丸くし、驚愕した。

 ……詰まる所、あの人間達は……幕府の。



「狛虎よ。

 よもや先の鵺とは……朧の事か、」

「…………嗚呼」

「何時、其の騒ぎがあったのか分かるか?」

「太夫が目を覚ました翌日さ。源、多分あんたの考え通りからに」

「やはり……、」


 じっと、悟兵衛は視線を下げて考えを巡らせる。狛虎からは話のさわりだけ聞いており、今の話にて大まかな事情を察した様であった。

 其れに追い討ちを掛ける様に、狛虎は深刻な面持ちにて悟兵衛を見上げ。



「朧が言っておったのさ、雫彦……あの龍はこの『世』の子で、『この地』を形にした様な神だって。

 そうで無くとも、俺……雫彦が居なくなるの、嫌だ。もっと雫彦と遊びたい」

「…………成る程な、」


 俯き肩を震わせる狛虎の頭を、悟兵衛の温かい手が優しく撫でる。

 つられ顔を上げると、彼はしっかりとした目で狛虎を真っ直ぐ見、微笑んだ。


「ならばな狛虎、大切に思うておるならば守ってやる事だ。

 男なれば、仁義を貫けよ」


 何処か腹の底に響くかの様な、言の葉。

 狛虎は其の言葉と意味を噛み締めた。何度か口の中にて反芻し、咀嚼し、しかし時を経たずして力強く頷く。


「……おう!」



 其の、瞬間。

 突如として起こったのは、強い地鳴り、そして雷鳴。何事か……二人同時に顔を上げ見合った時、これまた突然響いたのは奈々尾の叫び声であった。


「奈々尾!?」

「若様!!」


 反射的に二人で襖を開け目に飛び込んで来たものは、感嘆と悲鳴混じった声を上げつつも少し後退りした様子の奈々尾、そして窓より顔を覗かせ、瞑らな瞳をじっと奈々尾へと向ける麒麟……霞の変化姿であった。


「霞!!何故に此処に来たさ!?」

「嗚呼、丁度良う御座いました、」


 突然の来訪者に目を丸くする狛虎だが、相も変わらず霞はのほほんとそう言い放つ。

 流石に麒麟の姿を初めて見た悟兵衛と、そもそも狛虎以外の妖を見た事の無い奈々尾は言葉を失い唖然。

 しかし次に霞が口を開く前、悟兵衛が声を漏らした。


「……お前さん、よもや…霞か?」

「左様に御座います。

 ……其方の御仁、突然に驚かせてしまい申し訳無う御座いました……」


 ぺこり、狭い窓より首だけ突っ込んだ麒麟は其の馬程の頭を下げ。

 目が点のままである奈々尾は急に話を振られ、「あ……ご ご丁寧に」とつられて頭を下げるに留まった。


 其の中、窓の外からは吹雪く風鳴りの合間に鵺の鳴き声が混じる。早うしろ、との合図なのであろう、霞はぶるりと頭を振り、首を伸ばして狛虎へと向いた。


「そうそう。

 お狛ちゃん、急ぎお伝えしたき事が」

「まさか、雫彦の事からに?」

「左様に。

 どうやら今酷く御機嫌が斜めの様で、先刻よりあちこちにて地鳴りが立て続けに起こっておるので御座います。

 よもや人間の仕業ではあるまいかと」

「……まさか、幕府め。時期を早めたと言うのか」


 そう、狛虎より先に呟いたのは悟兵衛の方であった。

 途端、狛虎の顔が見る間に青冷め、戸惑い隠せぬ表情のまま霞へと駆け寄る。


「心配からに……行くさ!!」

「御意に」


 するりと窓より頭を抜いた霞に続き、狛虎もまた窓より外へ出ようと足を掛け。其の彼に「狛虎!」と不意の声を投げ掛けられ、彼は振り向く。


「寒いぞ、持って行け!!」


 投げられ受け取った物は、たった今まで悟兵衛が着ていた藍の羽織。

 狛虎は「借りるからに!!」と一言だけ発し、其のまま吹雪く外へと物怖じする事無く飛び出し。


 奈々尾が窓へ駆け寄り外を見た時には、既に二つの影が吹雪の闇の中へと小さく消えた後であった。



「…… ねぇ、悟兵衛さん」


 再び訪れた冬の静寂に見とれたまま、ふと奈々尾が呟く。


「何だか、この世がとても広く感じてしまいました……

 俺は、何と小さな人間なのだろう」


 悟兵衛は、何も言う事が出来ぬまま。


「……さ、お体が冷えます」


 この屋敷では何時も見せてくれる柔らかな笑顔にて、悟兵衛は奈々尾の肩をそっと抱き、窓より離す。

 名残惜しそうに窓より離れた奈々尾は、すうと木戸が閉められ外の黒灰色の世界が目前より姿を消して尚、じっと其の先を見詰め続けていた。


 其れ以上、お互い其の話を口にする事は無かった。




 * * * * * * * * * *



 話は、地鳴りが始まるほんの数刻程前へと遡る。



 あの縦穴の底、泉の畔にて、雫彦はじっと滝の流れ出る淵を眺め、只眉をしかめていた。


 何も変わらず、この穴は初夏の空気を湛えている。

 ……しかし、出口へと繋がる洞窟や天井より流動する空気に、妙な臭いと細動を感じ取っていた。



「………………」


 既に、其れが何であるか、雫彦は知っていた。

 其れは、人間の持つ血と火薬の臭いである。


 ばたばたぱた……

 雫彦の肩にて羽を休めていた小鳥達が、突然一斉に飛び立つ。

 鱗が感じていた妙な細動はやがてぴりぴりと肌を直に震わせ始め、雫彦はいよいよ顔を歪め、憎悪に満ちた笑みを浮かべる。


「…… 何処までも戯けた者共め、」



 この身が生まれ落ち暫くした辺り、母の体より、其れ等は『感染』した。

 母は共生を決め其れ等を貶めようとしなかったが、当時より雫彦は気に食わなかった。

 其の時には既に、母の体より"あの臭い"がし始めていた故だ。



 雫彦の体に住み着いた奴等も初めは大人しかったが、やがてじわじわと病原性の其れとなり、あろう事か盛大な共食いを始める始末。

 あの臭い……"(いくさ)"の臭いを撒き散らしながら。


 そして、現在。

 巷の神達がこの地へ訪れる度、噂は否応無しに耳へと入って来ていた。



 "人間は、近頃は妖も鬼神も……神をも、己の欲の為に殺めるのだそうな"

 "ならば我等は愚か、雫彦殿へ手が伸びる事も……"



 やれやれ、何処まで愚かな。

 彼等の噂話をふと思い出した雫彦は、其の戯言が現実の物となった事に対し深く溜め息を漏らした。


「滅びて見ねば、人間とは覚えぬ生物なのか。

 ……愚かなり」



 刹那。


 雫彦の瞳が縦長に細く絞られ、同時、複数の銃声が辺りを木霊する。

 飛んで来た其れ等を総て交わし、彼はとっさに泉へと飛び込み、激しく揺れる波を残し其の姿を消した。


 先日と同じであった。

 穴の淵に、大勢の人間共が猟銃を構えてこちらを睨んでいる。其の格好からして、どうやら腕利きの猟師を集めて来た様子。

 其の中に一人、高貴ながら動き易い身形を纏った女が、軍配片手に此方を睨み付けている。

 美しくも凛々しき顔、しかし其の横顔すら歪んだものに見えた。



「……情け無い。一発も当たらぬではないか」


 白い吐息と共に、雪景色の中では余りにも鮮やかな色の唇がそう吐き捨て。

 続き、女は軍配を掲げ、益荒男達へと叫ぶ。


「右半分を残し下にて仕留める!梯子を持て!!」

「しかし菖蒲(あやめ)様、あすこは危のう御座います!あやつに何をされるか……」

「将軍様の任務を投げろと?梯子を!!」


 女の傍に居た男は酷く狼狽えるが、他に嫌がる素振りの者は居らず。

 手際良く穴の中へ投げ込まれた長い縄梯子を見、躊躇無く降り始めた皆の後を渋々追う。


 かの地へ降り立った人間は、菖蒲を含め総勢三十五。この穴に立ちこめている初夏の空気に皆内心驚きつつも、しかし其の誰もが……菖蒲すらも猟銃を持ち、雫彦が沈み消えた泉の周囲の茂みへと身を隠し、様子を伺う。


 しぃん……と、静けさが立ち込める。

 人間の侵入に驚いた動物達は草陰にて息を潜め、さあさあと流れる滝すらも其の音を抑え、事の成り行きを見守っている様で。


 じっと水面を睨み付けていた菖蒲、やがてニッ…と笑みを零し。

 一人立ち上がって自らの火縄へ火を着けた。


「……さあ、祭りじゃ」


 火縄がちりちりと赤く色付き、菖蒲は其の火蓋を切り。

 くん、と泉より上方へと銃口を向け、引き金を引く。


 "ヒィィィィィィン!!"


 銃声と共に発射された弾は金切り声の如き音を立てながら水面を走り、飛んだ。

 其れは"鳴り弾"。龍を牽制する為に作らせた、只一発の特注品であった。


 直後。

 鳴り弾にびりびりと揺れた水面が盛り上がり、膜を破るかの如く銀龍がザバァと飛び出した。

 怒りに満ち満ちた咆哮が対峙した人間達の鼓膜と大地を震わせ……否、咆哮と共に大地が地鳴りを起こし、驚きと恐怖に竦んだ足元をビリリと痺れさせた。


「討て!!」


 只一人、怯えの素振りも見せぬ菖蒲が軍配を正面へ凪ぐ。男共は立ち上がって散り散りとなり、龍が其の全身を泉より引き抜いた刹那、穴の淵にて待機していた者達の一斉射撃が龍を襲う。

 初弾にて既に数発が命中、龍の体に幾つもの穴が開く。

 散弾だ。

 あらゆる方向からの射撃は龍に避ける隙を与える事無く、必死に抵抗せんと暴れる龍の美しき胴体に凹凸を形成し。

 彼は大地を震わせる様な悲鳴を幾度となく上げ、やがて当初の威勢が奪われていった。


 やがて地面へ力無く降り立った龍の体が、痙攣する様にぶるぶると震える。

 開けられた無数の穴からは青白い体液が噴き出し、其の体液が触れた草木が黒く焦げ、枯れていく。


 耐えきれず其の場に長く大きな胴体を横たえ、しかしぐるる……と唸りながらも尚牙を剥き抵抗しようとする銀。

 其の龍の前に、菖蒲は恐れる事無く立ち、見下ろした。


 其の顔に浮かぶはやはり不敵な笑み……まるで、独裁者の如く。



「……汝、何処かで見た事があるな」


 荒く呼吸を繰り返す龍が、低く、しかし覇気の無い掠れ声にて菖蒲へと語り掛ける。


「あの時の……人身御供か」

「覚えておるのか、蛟め」

「命乞いもせず我を睨み付けた女子(おなご)等、汝のみであった故にな……

 助けてやった其の命、無駄にしに来たか」

「フン……お前が私を殺さず帰した其の日より、私は虐げられて来たのだ。

 逃げ帰って来た愚かな女だとな。

 上手く側室となり、こうしてあの御方の言い付け通りに動く事が私の只一つの生きる(みち)ぞ」


 彼女が何を言うでも無く、男の一人が背に担いでいた太刀を菖蒲の手へと渡し、彼女は其れを抜く。

 月光の輝き薄れた鱗を纏う龍の首へとあてがい。



「………… 最期に訊こう」


 其の声は、やがて声ならざる……空気掠れる声となり。


「我の命を取り、何とするのだ?」

「何とする、か?」


 美しく歪んだ表情を崩す事も無く、唇だけが無機質に動き、言葉を紡ぐ。


「私はお前に等興味は無い。

 将軍様の命によりお前の血を必要としておるだけの事」

「……其れだけの為に我を殺めると言うか、」

「ふふ……今更だな。人間とはそう言う生き物ぞ」


 銀龍の目が見開かれ、細かった瞳孔が押し開かれた。

 其れは恐怖か、其れとも別の何かか……

 しかし人間達が龍の異変を悟るよりも早く、龍は体液を吐き出しながら口を開け、高々と笑った。


「ク……クク、はぁっはははは!!!」

「……人の滑稽さに気でも触れたか、銀龍よ」


 其の様を哀れと捉えた菖蒲は鼻で笑い、見下した目にて銀龍を見据える。

 だが龍も又菖蒲を強き視線を以て見上げ、震えながらも首を持ち上げ、菖蒲の真正面へと向く。


「哀れは汝等の方だ……人間よ!

 汝はもう薄々気付いておろうがな……我の『血』、だと?

 汝等の言う『殿』とやらは己の欲の為に総ての民を殺め、この地を沈めようと申すか……

 愉快じゃ、滑稽じゃ!!」

「……何?」


 菖蒲の頬がヒクリ揺れる。

 刀持つ手が震え、カタ、と鳴り。


 ずいと目前に迫った龍は彼女を挑発的に見やり、今一度口を開く。


「……我は人間が嫌いじゃ。

 だが、我が『母』が人間を殺めなかった理由、今分かったぞ……

 汝等は、まっこと愉快な"畜生"じゃ」

「!? ……貴様……!」


 途端、菖蒲の顔が怒りの色へ染まった。

 刀を持った手を僅かに震わせたかと思うと、其れを大きく振り上げた。



 * * * * * * * * * *



 狛虎達が樹海の辺りへ差し掛かったのは丁度其の頃。

 あれ程激しかった吹雪が急にぴたりと止み、麒麟の背の上にて羽織りにくるまりぶるぶると凍えていた狛虎が顔を上げ、其の異変に首を傾げた。


「……空気が止まった、」

「何だか嫌な予感が致します」


 ぽつり呟く二人の前を走る鵺……朧も、同じく其の異変に気付いているらしい。其の足取りが速まり、霞との距離がぐいと開く。

 霞は慌てる事無く其れに付いて行き、しかし程無くしてあの穴が見え……其の異変に、三人は言葉を無くした。


 あの大きな穴を取り囲む、人間達の姿。其れも先日の比では無い。

 今現在穴の底にて何が起こっているのか、三人は容易に想像出来、特に狛虎は腹を立てたらしい……少年であった其の姿が夜叉となり、震える手から出た鋭い爪が麒麟の背にめり込んでしまっている。



「お狛ちゃん、」

「……止めるな、俺は行くよ。

 否…… 行かせてくれ」

「…………」


 一見冷静にも見える言葉であったが、しかし其れは最後の理性であった様子。

 狛虎はぴりぴりと空気を張らせ、あの"角"を生やし、緋色に染まった瞳より既に光が消え去っていた。



「……先に行け、」


 そう言った者は、朧。

 低く静かな声ではあるものの、怒りの戦慄を隠しきれず、震えている。

 狛虎はそっと目を閉じ、冷たい空気を胸一杯に吸い込み。


「恩に着るさ」


 小さく呟き。

 だん、と、霞の背を蹴り、雲に近き上空より真っ直ぐ穴の中へと飛び込んだ。




 風を切り高速で落ち行く狛虎に、既に寒さは感じなくなっているらしかった。

 肩に掛けていた羽織りが飛ばされようと、彼は構わず真っ逆様に大穴目指し身を伸ばす。


 無数の雪粒を追い抜き、霞んでいた視界が突如開けた時。

 目に飛び込んで来た光景は、全身に傷を負い瀕死の状態で横たわる銀龍、そして其の首を落とさんと太刀を振り上げる女の姿であった。



「!!!…… 止せぇぇぇっ!!!」


 木霊する、悲痛な叫び。

 其の声は銀龍の耳に届いた様で、龍の瞳だけがふと空を仰ぎ見……


 お互いの目が、合う。


 其れは、今まで見た事も無き程に……あの何時も優しい奈々尾ですら敵わぬ程に、優しい瞳。

 微笑みでも哀しみでも無い、慈悲の温もりであった。



 狛虎は、息を呑んだ。

 其の温もりは、胸を酷く締め付け、焼き付いた。



 ……刹那。

 否、もしかすれば其の時にはもう終わっていたのやも知れぬ。


 女が振り下ろした太刀は一寸の曇りも無く閃を描き、大木の如き龍の喉を……掻き斬った。


 其処にはあの遠く響く鳴き声は愚か僅かな悲鳴すら無く、激しく身をくねらせる胴が微かな地響きとして大穴を揺らし…… 沈んだ。



「……他愛も無い」



 びっ、と太刀を振り、付着した体液を弾く。

 同時。

 菖蒲は天井より刺す殺気に振り向き、反射的に其の場より飛び退いた。

 途端、上空より高速にて突っ込んで来た巨大な其れは着地と共にズゥゥンと周囲を揺らし、この世の物とは思えぬ程の咆哮がビリビリと空気を破いた。



 "ギャオオオオォ!!!!"


「なっ……!?」


 身を屈め耳を塞いでいた一人の男が顔を上げた瞬間、既に上半身がバツンと喰われ、無くなっていた。

 目にも留まらぬ速さに気付く間も無く、隣に居た別の男の体が瞬時に吹き飛ばされ、壁に激突し、潰れた体が沈む。

 場に居た人間達が一概に顔を青冷めさせたは、もう一人が踏み潰されグエッと獣の断末魔を上げ事切れた後であった。



 馬や牛等比にならぬ程に巨大な、黄金の獣。

 首を覆う豊かな(たてがみ)、黒々と浮きだった虎の縞。

 二股の長く太い尾。口元より生える二本の牙。

 誰も見知らぬ虎獅子の妖が、紅い涙と炎を纏い、其処に佇んでいるのであった。



「……何だ!? この化け物は……」


 菖蒲は目を見開き、呟く。

 其の間、虎獅子は動かなくなった銀龍の傍らへと歩み寄り、くるるる……と悲しげな声を上げ、鼻先にて龍の頭を揺らし。

 ……龍は、もうひくりとも動く事は無い。

 只白い体液を垂れ流し、草木に覆われた地面と澄み切っていた泉を死の黒へと焦がしていった。



「……龍の血が妙薬だと?これが……

 出任せであったか、」


 悔しそうにそう吐き捨てた菖蒲は、しかしふと自らの体を見下ろし、再び顔を青冷めさせた。

 龍の体液の飛沫を受けた箇所は黒く焼け焦げており、服を捲れば白く美しい筈の肌が其の部分だけ皺としみにまみれ、老いていた。


 菖蒲を襲う怒りと恐怖、……しかし直ぐに冷静さを取り戻し。

 逃げ惑う男達に声を投げ掛け、軍配を振り上げる。


「計画は中心じゃ!!各自己の命を守りつつ外へ……」

「……まっこと小賢しや」


 突如真上より響いた、柔らかな……人ならぬ、声。

 気配よりも先に声に驚き、見上げた先に居た者は、龍でも虎獅子でも無い。

 虎獅子と同じく大きな体を持つ麒麟である。


「……あの時の麒麟か、」


 悔しそうに目尻を吊り上げ、吐き捨てる菖蒲。

 麒麟は只哀れな目を彼女へと向け、地に着かぬままの前脚にて宙を軽く蹴り。


「……これ以上は何も申すまい……

 日の本が沈むより少し早く、世を去るが良い」

「待て!麒麟よ、一つ教えておくれ……あの"龍"は一体、」

「お前に其れを知り得る資格等、もう持ち得ぬ」


 麒麟の神々しい姿に、其れは下された裁きの言。

 其の様に、菖蒲の脳裏に初めて絶望が掠め。

 しかし再び向けられた殺意にぞっ……と肌を粟立たせ、視線を背後へゆっくりと向けた。


 今の数言の間、幾許(いくばく)も経たぬ筈なのに。

 虎獅子ともう一体降り立った巨体…鵺に殆どの男が命を落としており、最後一人残った菖蒲を虎獅子はぐるると唸りながらじっと見詰めている。

 ……さあ、如何して殺めてくれよう……菖蒲の周囲をゆっくりと歩み伺いながらも、其の紅く光る目は菖蒲より離れない。



「…………」


 天井より吊されていた筈の縄梯子は既に地面へと落下していた。

 恐らく、淵にて待機していた者達は三体の妖を見た所で逃げ出したのだろう。



 是非も無し……。

 菖蒲は覚悟を決め、目を堅く瞑った。



 刹那であった。


 "ズゥン!!!"


 突如、辺りを襲う激しい地震。其れも、縦に揺れる強い振動の如き地震が、地下より突き上げて来るかの如く。

 足元を掬われ、菖蒲の体が均衡を無くし転ぶ。

 四脚である虎獅子と鵺も又よろけ、正気を取り戻した虎獅子……狛虎が、只一体驚きつつも宙に佇んでいる霞へと顔を向けた。



「まさかこれは、」

「ええ…… 朧、」

「……覚悟を決める時だな」


 顔を見合わせた二体の表情には、絶望が見え隠れしている。

 狛虎も又其の意味を知るも、しかし如何しても亡骸の傍から離れる事が出来ない。



「狛虎、何をしておる!?一旦この島を離れるぞ、付いて来い!!」

「………… なあ、朧」


 まるで足を引っ張られたかの様に、其の場に見合わぬ悲しげな声が朧の動きを止めた。

 朧は焦りの表情のまま、狛虎へと吼え付ける。



「この様な時に何じゃ!?」

「本当に、雫彦の言う通り……人間全部居なくなれば良いのかな?」

「何、」

「奈々尾や太夫みたいなさ……俺達に優しくしてくれる人間は確かに一部だけかも知れぬ。

 けれど、其の一部の人間も……居なくなってしまって良いのかな?」

「……………… 何が言いたい、」


 断続的に続く地震の中、朧はゆっくりと振り向き、狛虎の目を見た。

 先刻の緋色はすっかり消え失せ、其処にあったのは何時も見る美しい蛍色の瞳。……涙を浮かべた其の目が、朧の夜色の目を見詰めている。


「人間は確かに自分勝手で愚鈍な生き物だと思うけど……俺達妖は如何だろう?

 あんた等神様は、人間を殺める妖は良くて妖を殺める人間は駄目なのか?

 心の底から人間全部嫌いなのか?

 雫彦は……奈々尾達の様な人間に逢って尚、人間全部殺めようって言うのだろうか?」

「…………」

「俺……まだこの島に居たい。奈々尾や太夫達を亡くすのは嫌だ。

 其れに……この島が、雫彦が好きだから」

「………………、」


 徐々に強まる地震に慌てふためく事も、まして言葉を遮る事もせず。

 朧と霞は只じっと狛虎の言い分に耳を傾けていた。


 やがて霞は其の場にへたり込んでしまった虎獅子の傍へ歩み寄り、其の頬に流れる涙を自らの頬にて拭き取り。


「………… お狛ちゃん、」

「ん……」

「ほんに、純粋な子なのですね……なれど、雫彦居らぬ今……私達には為す術が御座いませぬ。

 さ……一度、この穴を離れましょう。此処は雫彦の造りし空間、今にも消え失せてしまいます故」


 鼻先にて促され、虎獅子は漸くよろりと立ち上がり……ふとあの女の事が気に掛かり、辺りを見回した。

 ……既にあの女はこの穴から姿を消していた。

 恐らく、狛虎が以前穴を出る時に用いた横穴より逃げ出したのであろう。



「霞、狛虎!!急げ、淵が揺らぎ始めたぞ!!」


 言われ、虎獅子は現実へ引き戻された心持ちがし、遥か頭上へと目を遣った。

 五月の木漏れ日を覗かせていた筈の上空がゆらゆらと揺れ、元の灰色の空が見え隠れし始めている。


「さあ、お狛ちゃん!今の貴方なれば宙をも走れましょう、」

「……うん、」


 あっと言う間に穴の中腹まで飛び上がった二体を虎獅子は戸惑いの目で見、足元の亡骸と彼等を交互に見遣った。

 ほんの少し、銀龍の体より艶が消え失せている様な気がしたが、其れ以上何も変化は無い。 ……あの瞳も、力無く開かれた瞼の奥で、只丸く広がった瞳孔が虚空を見上げるのみ。

 もう狛虎を見る事は無かった。



「狛虎!!」


 呼ばれ、しかし後ろ髪を引かれる様に何度か振り返り。

 やがて意を決した様に、炎を纏った虎獅子は空間を蹴り上げ、一気に朧と霞の待つ中腹まで上り行く。


 虎獅子は、ずっと泣いていた。

 流れる涙は総て柔らかく密な毛皮の奥へと消えていったが、二体の獣の元へ追い付いても尚、其の金色の毛皮が乾く事は無かった。




 淵へ近付けば近付く程、空気も景色も……光すらも変わり行く。

 急激に季節は逆戻りして行き、淵を飛び出した途端に三体を激しい吹雪と地鳴りが襲い掛かった。

 横殴りの突風に巨体が流され、狛虎は暫し目を開ける事も出来ずに其の場へと踏み留まる。


 しかし、何時もの吹雪とは何かが違う……

 其の違いにいち早く気付いた朧の唸り声が風に流れ、狛虎と霞の耳へと入り、二体も又顔を上げ。

 共に驚愕の表情を浮かべた。



「……富士の山が!!」



 吹雪……雪では無い。

 突風に舞う其れ等は灰であった。


 目に飛び込んで来た光景……其れは、身を震わせ噴煙を上げ始めた富士の山、そして其の上空に立ち込める、見た事も無い程に暗く重い雲。

 混沌たる黒灰色が埋め尽くし喰い潰していく、有り様であった。


 三体は、口を開く事も無く、只其の空を見上げていた。

 狛虎は其の空に本能にて恐怖を抱いていた故であった……が、神である朧と霞は別の何かを感じ取っている様で。


 強風が不意に止み、地鳴りの低音のみが大地を覆った辺り。

 朧が狛虎を見やり、にやり笑った。



「狛虎、最初にて最後の光景が始まるぞ……

 見ておれよ、これが雫彦の"母"……この『世』の怒り狂う姿じゃ」



 遠く、地鳴りと重なり聞こえていた風の唸りが、次第に大きくなってゆく。

 其れは何時しか地鳴りを超え迫り、まるで直ぐ目前にて吼えるあの龍の声にも聞こえ、狛虎の燃え尖った耳が後ろへ折り畳まれる。


 黒雲が、波打っている。

 巨大な蟒蛇がゆっくりと這い擦る様に、何本かの筋となって空を無尽に埋め尽くす。

 黒雲はやがて実体を持ち始め、幾許もせぬ内に此処からでも確認出来る程に大きな、しかし無数の銀色に輝く鱗へと変わり行き。



「…………で、かい……」


 狛虎は、其の迫力に圧倒され、身を竦ませ。

 萎縮した体にて、漸くそうとだけ呟く。


 富士の山裾の、更に奥。

 翳む程に遠くより、しかし確実に此方へ顔を向ける巨大な銀龍の姿が、其処にあった。

 ……否、其れは"巨大"等と言う言葉では言い表せぬ。

 龍の頭だけでも富士と同じ程……其れ以上。

 此処より見える空総てが……黒雲が、総て蜷局を巻いた其の龍の胴体であった。


 "眼"が、じっと此方を見詰めている。

 其れは紛れも無く怒りに満ち満ちた目をしており、あの巨体がうねりながら此方へ向かって来る感覚がビリビリと空気を伝い、三体を震撼させた。



「……もしかして。こ……こっちに来るのか!?」

「恐らくな。雫彦を『迎え』に来たのであろう」

「………… 雫彦を、」


 ビクビクと怯えていた狛虎であったが、朧の酷く落ち着いた声に何かしら見出し、ふと動きが止まる。


 其のまま少し思案を巡らせた後。

 狛虎は突然くるりと踵を返し、揺らぎ消えかけている大穴へと走り始めた。



「何をするのだ狛虎!?」


 驚いた朧が声を上げ、追い掛けようと彼も又踵を返したが、しかし直ぐに足を止めた。


「雫彦をお返しして来る!!」

「辞めろ狛虎、……狛虎!!」


 雫彦を返した所で結果徒労に終わり、この島が沈むのみ。……其の事を狛虎へ叫び伝えようとしたが、朧が口を開いた其の時には、既に狛虎が穴の中へと落ち行った直後であった。




 狛虎が飛び込んだ穴の中。

 広がっていたあの美しき景色はすっかり消え失せ、高速で底へ向かう其の先は、光一つ見当たらぬ奈落。

 取り巻く空気もしぃんと冷たく、先刻まで客人として暖かく迎えていた狛虎の肌をビリビリと刺し、あわよくば命をと迫り来る様な心持ちさえ感じる。


 明かり一つ無い其処では龍の遺体が見えない。

 底へと降り立った狛虎は必死で鼻先にて探り、……幸運にも其れらしい鱗の感触を足元に見付けた。途端、足がじわりと焼け、肉球が黒く老化した。


 間違い無い。


 無我夢中で其れをくわえ込み、引っ張る。

 長い牙が瞬時にして抜け落ち、歯茎よりじわじわと老化が染み入って行く感覚。

 しかし構う事無く長い胴体を自らの胴へ巻き付け、最後に頭を口に咥え。

 全身を駆け巡る凍みる様な痛みを堪え、消え行く天井の穴へと飛び立った。




「狛虎!!」


 穴が完全に塞がり消えたのは、狛虎が穴を飛び出た瞬間であった。

 目が眩み何も見えない……否。

 急激に老いた狛虎の目は、既に光以外何も見えなくなっていた。

 今し方聞こえた朧の声も、其れが本当の声であったか幻聴であったのか……

 只、鼻を刺す強烈な火山の臭い、そして肌を焼く龍の血と火山灰の熱……其れだけが、狛虎の感覚に「現実」を教えてくれていた。



「狛虎!!止せ、むざむざ死ぬ気か!!?」


 朧が、舞い上がった灰の中を上り行く老獅子へと再び叫んだ。

 しかし輝く金色であった鬣すら色褪せ、すっかり姿形が変わってしまったあの老獅子に、得てして其の声は届く事も無く。


 巨大なあの龍が、灰を切り裂き顔を寄せてくる。

 金色の目は、龍目掛けて飛んで来る老いた老獅子をじっと見詰めている。

 もう巨龍の鼻先まで来たと言うのに、老獅子は止まらなかった。

 狛虎は、もう自分が何処まで来ているのかすら分からなくなっていた。



 巨龍が、ゆっくりと口を開ける。

 其れだけで空気が激しく流動し、固唾を呑んで様子を見守っていた朧と霞は其の風圧に漸く耐え、顔を上げた……其の瞬間であった。



 嗚呼、

 見えぬ瞳にうっすら見えた……月の光の色。




 其の口は、閉じられた。


 まるで扉が閉じられるかの如く。



 まさか……。

 最悪の事態が頭をよぎり、朧と霞は必死で狛虎の姿を探すが、……霞が何かを見付け、悲鳴を上げた。


 動きを止めた巨龍の口元が、ほんの少し赤黒く染まっていた……否、少しでは無い。

 龍が巨体故に少量に見えたが、……牛一頭分に当たる程のおびただしい血が、口端の一角にてぼたぼたと筋を描いていた。



「お狛ちゃん……お狛ちゃん!! お狛ちゃん!!!」

「止せ霞!!我等には如何も出来ぬ……!!」


 泣き叫ぶ霞を制す朧。

 霞より流れ来る絶望が、朧の心を強か刺し、しかし朧は霞の身を制し続けた。


 為す術も無く。

 これより如何すれば良いか分かる筈も無く。


 締め付けられる様な負の感情を其の表情に湛えながら……

 大地が震え悲鳴を上げる中、二体は暫く其の場に立ち尽くしていた。





 * * * * * * * * * *




 " ざ、ざ…… "



 瞼を刺す橙色の光、寄せて返す音。

 肌を包む暖かな空気、豊かな潮の匂い。


 今し方まで失われていた五感が、少しずつ今居る場所を伝えてくる。

 未だ霧の中の如くぼんやりとしていたが、闇の底よりゆっくりと浮上し始めた頭は意図せず言葉を紡ぐ。



 …… 海、だ。



 眩しさに暫く目を開けられなかった彼は、漸くほんの少し目を開け。

 微睡みの柔らかな感覚に似たものが、景色を認識し。

 体を纏っていた重怠い感覚が、目前に映った細波の如く退いていく。


 赤い陽が、水平線に乗っている。

 自分が顔を埋めていた砂浜は雪の如く白く、しかし今から沈み行くのであろう日の光に染められ、海のうねる水面と同じ金色にきらきらと輝く。

 手に取れば、砂の一粒一粒が硝子や水晶の様に透明で、其の手より舞い上がり、星となって消えて行った。



 …… 太夫の肌みたいだ、



 そう何気無く思った所で、意識が急激に覚醒し、狛虎は飛び起きた。

 自身の身に降り懸かった出来事を思い出し、驚いた故だ。



 其処は、小さな、島。


 家三件も建つか建たぬか程しか無い其の島は、真っ白な砂浜でのみ形成されており、恐らく潮が満ちれば消えてしまうであろう程に儚い。


 何故にこの様な所に……。

 狛虎は慌てて周囲を見渡し、島の右端に何時か見た姿を見付けた所で、漸く検討が付いた。



 嗚呼、此処は……

 黄泉の果てなのだろう。



 心中、とても穏やかだ。

 自分なら地獄にでも堕ちるのかと思っていたのに。


 思いながら立ち上がった狛虎の全身を、生温い潮風が波の柔らかな音と共にふわりと撫でる。

 其の風はまるで自分の背を押すかの様に背後より吹いており、少年は促され、島の隅にて尚佇む姿へとゆっくり歩き始めた。


 其処に立ち、じっと水平線の陽を見詰め続ける人物。

 其の人物は、雫彦であった。……しかし、其の佇まいに何処と無い違和感を抱いた狛虎は、其の原因に気付き、声を掛ける前に立ち止まる。


 ……角と尾が、無い。



 狛虎の気配に気付き、彼は振り向く。

 確かに、こちらを見た其の顔は雫彦の其れであったが、人間と同じ白く滑らかな肌に浮かぶ表情が穏やかで。

 ……良く見れば、其処にあるものはあの蟒蛇の瞳では無く、金色を湛えた人間の瞳であった。



「…… 雫、彦?」


 波音に掻き消されてしまいそうな程に小さな声で、狛虎は其の名を呼ぶ。

 彼は目を伏せ、再び陽の方へと向き、見上げた。

 まるで"隣へお出で"と声無く言っている様で、狛虎はそっと其の隣へ並び、座った。



 聴こえるは、波の音のみ。


 夕日だと思っていた太陽が朝焼けである事に、ほんの少し水平線から身を持ち上げた陽で知った。

 何処と無く物悲しかった心中が少し晴れた様な心持ちに変わり、狛虎の口元が無意識に上がる。



「美しいであろう、」


 静かな声が、狛虎へと語り掛ける。

 雫彦と同じ声だ。


 顔を上げ彼を見やったが、彼はこちらを向く事も無く、変わらずにじっと朝日を見詰めている。


「日出ずる島……日の本とは、故の名。

 "人"が与えてくれた(ほまれ)じゃ」


 紡がれる其の言葉は懐かしさを含み、しかし何処と無く悲しげな響きも見え隠れし、甘い潮風は其れ等を海原の向こうへと運んでいく。


 狛虎は意味に気付けど、読み取るまでに至らず、幼さを含んだ困り顔を隣人へと向け。

 其れに気付いた隣人は、クスリと笑みを零した。


「つい先の事であったが、とんと忘れていた。

 狛虎。そなたのお蔭だ……」


 其の言葉に狛虎は「あ、嗚呼……」と声を漏らしたが、どうも彼が雫彦と違う様な気がし、彼の眉間は皺寄ったまま戻らない。

 少しの間を置き、次は狛虎が口を開く番であった。



「……あんたは誰さ?雫彦に似ているけれど……」

「私は雫彦だが、雫彦では無い……

 雫彦は私の一部であり、私は雫彦の総て」

「じゃあ、……あのでかい龍様か」

「済まなかったな……我が身を取り戻す為に、そなたを犠牲にしてしまった」

「……構わぬからに」


「じゃあ…… 結局、『雫彦』は如何なったさ?あの島は?」

「『雫彦』はもう居ないが、私の一部に還った。

 安心しなさい、あの島国は沈まないよ」

「……そうか。

 有難う……」



 大分陽が昇り、金色であった世界が、少しずつ水色と白へと変わりつつあった。

 思い残す事は総て解消し、狛虎は安堵の安らぎに包まれ、其の美しき景色に見入った。

 其の隣で、彼もまた静かに佇む。




 やがて潮が満ち、この身も沈み行くのだろうか?

 …… 其れも良い。


 悠久の時を、何もかも忘れて眠ろう……




 とろり、微睡みが狛虎を包む。

 再び五感が生暖かく心地の良い混沌へと落ち始め、彼は一度空を仰ぎ見た後、其のまま大の字に寝転がる。


 次第に遠退いて行く感覚と、次第に高くなり行く太陽。

 隣にて見詰めていた彼が腰を下ろす気配と、そっと額を撫でる、温かく柔らかな手の感触。



「…… 人間は……愚かな生き物だけど……」


「だが…… 其れは神も妖も同じ事。

 ……然り、私もな。

 そなたの望み通り、もう少し傍観する事としよう」


「………… 有難う…………


 約束通り……後はずっと、傍に……居るさ……


 …………雫……彦…………」



 其の言葉はもう掠れ消え、自分でも言ったか言わぬか分からぬ程に。


 頬撫でる手を握り締めようとしたが、遠く聞こえて来る雫彦の声に辛うじて耳を傾けるに留まり、彼は深い眠りの海へと堕ちていった。






 …………




 狛虎。

 小さき、愛しき民よ。




 雫彦は、

 命ある者として

 再び生まれ来る。




 輪廻の果て、何時かもう一度

 巡り会うであろう。




 其の時、

 この白き島で


 そなたの傍に寄り添わせておくれ




 其れまで……

『世』を包む風として


 何時でもそなたの傍に居よう。







 狛虎……


 小さき、愛しき者よ。



 

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