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アヤカシ太夫♂とイロオトコ  作者: 駿馬
龍(リュウ)
40/53

龍(リュウ) ─弐、

 


森羅萬象ニ溶ケ込ミシ

神ノ域ノ摩訶不思議


美シキ均衡崩サムト

蠢ク闇ハ人ノ影

(カルマ)ニ沈ミシ人ノ影



 

 


「嗚呼、雫彦(しずりひこ)だ」


 狛虎が持ち帰ってくれた魚の切り身を漆の箸にてつついていた朧は、驚きを見せるでも無くさらりと零す。


「雫彦って言うからに?あの蛇の……男?女?」


「はい、あーん」と霞に箸で差し出された切り身にぱくり噛み付きつつ、狛虎は不思議そうに首を傾げ。

 其れを微笑ましく見詰め、猪口に注がれた酒を朧はくいと口へと流し込む。


「嗚呼。広義で言えば我等と同じ世の者だ」

「同じ世って言うと、……あれも朧と霞と同じか?男でも女でもない『神様』か、」

「狭義で言えば若干違うが。まぁ、お前はあやつに気に入られておる様だしな……一安心だ」

「ん??気に入られないと不味い……のか。神様だもんな……」


 腕を組み少々考える狛虎……だが、何と無く煮え切らぬ朧の受け答えに苛立ちを見出し、再び口を開こうとした。

 が、其れより先に霞が魚の切り身を差し出し、開いた口へと放り込まれる。

 其れは「其れ以上問うな」と言う暗黙の言葉なのか……一瞬そう思ったが、そうでは無いらしい。もぐもぐと口を動かす狛虎を優しく撫で、次は霞が口を開く番であった。


「雫彦は……何と申せば良いか難しき事ですが……

 強いて申せば、『この地』を形にした様な神なのです」

「この、地?からに?」

「左様に。

 お狛ちゃんはこの『日の本』の地図を御覧になった事は、」

「あるさ。確か奈々尾の屋敷でちらーっと見たからに……縦長の馬か龍みたいな…… あっ、龍!」

「そう言う事ですわ」


 クリンと目を丸くした狛虎に、霞がにこりと笑い掛け。

 続き、朧が口を開く。


「雫彦はこの『世』の子……我等はこの『世』に満ちる森羅万象の子だ」

「んー……いとこか?」

「いとこ!

 狛虎、お前はまっこと面白いな!」


 霞に撫でられ続けぺたりと潰れた其の頭を、今度は朧がぽんぽんと撫で叩く。

 ふと何かを思い付き、声色をほんのり変えた。


「そうだ。狛虎、雫彦に礼は申したのか?」

「ん?一応……挨拶する暇無く穴に引っ込んでっちまった故、頭だけは下げたさ」

「……であろうな。

 明日、雫彦の様子を伺いに参るのだが……共に如何だ?」


 ひく……と狛虎の顎が小さく上がり、「ん……」と声を漏らし。

 暫し考えた後、狛虎は軽く首を傾げ。


「……行った方が良いからに?」

「否、無理にとは言わぬ」

「んー…… 行くさ。お礼、言ってないさ」


 …… 本音を言えば、狛虎はあの蟒蛇と人の合いの子の如き雫彦が、少々恐ろしかった。

 元々蛇や蜥蜴の様な爬虫が苦手ではあったが、あの雫彦は其れに輪を掛けて大きく、まして鋭い牙に糸の如き瞳。

 喩え『蛇』では無く別の何かであったとしても、元は只の畜生である狛虎にとって其れは本能であり、……事実、如何やっても拭い去れる気がしない。


 しかし、其の畜生に与えられた理性には従わなければならぬ……

 狛虎は僅かに震える脚に力を入れ、立ち上がった。


「とりあえず、ちょっくら黒町屋に行って来るさ。

 太夫に元気を付けて貰わぬといけないからに、な」


 仕方無し、と言った感じで溜め息混じりに呟いた狛虎。

 其の心中、しかし胸躍る所もあった。


 ――― ……きっと、太夫と源三郎は喜ぶであろうな……

 其れが済んだら直ぐに奈々尾にも届けよう。


 先刻感じていた恐怖の感覚は、三人の笑顔を想った所で薄れ、狛虎もまた気付かぬ内に満面の笑みを湛えていた。



 * * * * * * * * * *



 丁度、狛虎が黒町屋へ到着した時。

 気に掛けていた例の妖太夫は、永き混沌より目覚めた所であった。

 其れでも未だ顔色は優れず、狛虎は側に居た源三郎を押し退け、あの魚を差し出し。


「………… 旨いな」

「あっ、」

「狛、一人一匹か?もう喰うてはいかぬのか?」


 久々に聞いたし乃雪節は、少々声が掠れていたものの健在であり、狛虎と源三郎はほっと胸を撫で下ろす。


「……しっかし、なぁ狛虎。

 今の時期に岩魚や山女など、何処(いずこ)にて捕ってきたんだ?」


 朧達に同じく、皿に美しく盛って貰い。

 川魚の刺身を猪口片手に付突きつつ、ふと源三郎が漏らす。


「ん?……んー……」

「あいや、只の興味だ。無理に答えずとも良い、」

「俺は興味があるわえ……狛虎、無理に答え遣れ」

「雪、お前なぁ……」

「良いさ、秘密とは言われてないからに」


 病み上がりにも関わらずずいずいと迫り来るし乃雪に、狛虎も源三郎も苦笑しながら。

 狛虎はくいと猪口の酒を流し込み、口を開く。


「富士の麓さ」

「富士?

 お前さん……其の様な所まで行ってきたのかえ、」

「太夫に元気になって欲しかったからに」

「……俺の、為に?」

「ん」


 其処まで言えば、し乃雪は申し訳無さそうに頭を垂れ。

 まさか狛虎にまで心配を掛けていたとは思わなかったのであろう。

「……済まぬの」とだけ呟き、其れきり口を閉ざしてしまった。

  ……やはり、未だ其の心も皹入ったままらしい。


 其の余りもの変貌振りに事情知らぬ狛虎、ちょいちょいと源三郎を廊下へ呼ぶ。

 狛虎も漸く『空気を読む』と言う技を覚えた様子。


「……源、太夫の奴……何かあったからに?」

「ふむ……やはり未だ引き摺ったままみてぇだな……」


 腕を組み神妙な面持ちの源三郎。

 先日起こった出来事を何も知らぬ故、狛虎は只首を傾げるばかり。


「……聞いていかん事からに?」

「ん……そうさな、余り聞かねぇ方が良い。

 強いて言えば……雪の大切な人が亡くなってよ、」

「おぉ……

 ……源、まさかあんた…うらめしやー、じゃないからにな?」

「何だ、何を言うかと思えば……!」


 ふにふにと両手で頬に触れ確かめる狛虎に、源三郎は其の手を捕まえつつ苦笑を浮かべる。


「俺が死んでおったら刺身が減ってねぇだろうが?

 ……兎も角。今は雪を変に刺激しねぇ方が良いな」

「んー……俺、魚持って来たのは余計だったか?」

「否?寧ろ助かったぜ。

 ……雪の声が出なかったのは、恐らく心の傷のせいであったんだろう。

 お前さんが用いた『妙薬』のお陰だ、誇りに思えよ」

「……そうか?」


 狛虎が漸く笑みを見せる。不安であったらしい……源三郎は其れを悟り、柔らかく其の頭を撫で、笑顔を作る。


「嗚呼、あのままだったら俺も手を焼いていたかも知れねぇ。

 ……もし差し支え無ければ、なぁ狛虎。また持って来てはくれんか?きっと雪も良くなろう」

「……からに?」

「嗚呼」

「でも遠いさ、面倒からにーーー」

「頼むよ、若様の為と思って…この通り!な?」

「えー?……、」


 口を尖らせつつも、心は決まっていた。

 太夫の、そして奈々尾の為なら。

 ……源三郎にたっぷり褒められた事実も理由であるのは言うまでも無い。



 * * * * * * * * * *



 翌日の事。



 相も変わらず、あの巨大な縦穴は葉を落とした樹海と降り積もった雪の灰色の中にぽっかりと口を開けている。

 其の穴の底はやはり暖かな光と揺れる木陰で満たされ、其の中心にて、雫彦は静かに木漏れ日を見上げていた。



 不意に、風向きがふわりと向きを変え、顔まで掛かっている長き黒真珠の髪が後ろへ凪ぐ。

 肌に細かく生えた鱗が、髪の合間より月光の如く輝いた時。

 彼は異変にふと気付き、瞳がくるりと上方、"淵"へ向いた。


 "ビュン"


 何かが風を切り、雫彦目掛け飛び込んで来る。

 其れが額を貫かんとする直前にパシィと掴み取った。

 見れば、其れは矢だ。……鉄で造られた、酷く重く硬い矢である。


 明らかな殺意。

 雫彦は表情無きまま矢が飛んで来た方向へと目を向けたが、其処には只木々の緑と木漏れ日の心地良い温もりがあるだけで、殺意の主を見出す事が出来ない。

 異界故の歪んだ空間越しに正確に射抜いた其れは、手練れの仕業であろう。

 ……雫彦の顔が、歪む。


 二本目、三本目が飛び来る。

 総て別方向からだ。

 雫彦は其の総てを寸前で止め、若しくは避け、足元に鉄の矢が転がっていく。

 重い音を立てて弾かれ、足元にドスと刺さり、


 と。

 矢とは違う物が投げ込まれ、雫彦の足元へ転がった。

 途端、其れはパァンと破裂し、目が眩む程の閃光が辺りを包み込む。


「!?」


 光をまともに見た雫彦は視界を失い、怯んだ。

 よろり後退り、直後、ズンと左肩に何かが直撃する衝撃、激痛。

 恐らく、あの矢。

 "オオオオォン!!!"

 雫彦の悲鳴が辺りをつんざく。

 と風の唸りにも大地のうねりにも似た、遠く響く声だ。


 直後である。


 "ヒィーッ、ヒィーッ!!"

 "キュオオォォォン!!"


 二つの獣の声が、まるで雫彦の悲鳴に呼応するかの如く、穴の上より投げ掛けられた。

 途端、穴の淵の辺りが酷く騒がしくなり、人間が逃げ惑うかの様な声が聞こえて来た。


 目が見えぬまま手探りにて左肩を弄り、冷たく硬い其れを力尽くにて引き抜く。

 熱く粘り気のある液体が腕を伝い、傷より先の温度が退いて行く感覚を覚えた。


 痛みに蹲る彼の横に、何か大きなものが二つ、降り立つ気配。

 漸く見え掛けた目を向ければ、其処に降り立ったものは馬や牛よりも大きな二体の妖……宵闇の毛を纏った鵺と、美しき玉虫色の鱗に(たてがみ)を靡かせた麒麟であった。



「……朧、霞か」


 掠れた声にて呟く雫彦。

 震え崩れそうになる其の細い体を、鵺より人へと姿を変えた朧が急いで駆け寄り、抱きかかえた。


「雫彦、」

「……先刻のものは、人間か?」

「嗚呼。追い払いはしたが……来ぬ間に一体何が」

「我にも分からぬ……先日の猫と言い、不可思議な事だらけじゃ」


 苛立ち紛れにそう吐き捨て、朧の手を借りて雫彦は立ち上がったが、しかし左肩に走る激痛と熱に顔を歪める。

 人の姿となった霞もまた駆け寄り、其の肩より腕に掛け一つの筋を形成している青白い液体をものともせず、傷口の周辺にそっと触れた。


「嗚呼……酷い、」

「案ずるなよ霞……我はこれしきの事でなど死にはせぬ」


 涙を浮かべた目で自分を見上げる霞の頭を、雫彦はそっと撫で。

 其の少しの間に傷口はゆっくりと塞がれ始め、流れていた青白い血も其の流れを止めた。

 其れは雫彦の治癒力では無く、傷口に触れていた霞の治癒力の賜物であった。


「済まぬな、」


 (うやうや)しく体を離した霞に、雫彦は静かに呟く。

 霞は少し頭を(もた)げたまま、震える声を小さく上げた。


「…………やはり、人間の事等何も分かりませぬ……!」

「霞、落ち着け。人も神も同じじゃ、良き者も居れば悪しき者も居る」

「ですが、」

「にゃー」


 突如、聞き覚えのある声が会話の間を割って入った。

 其の間の抜けた声に、じっと耳を傾けていた雫彦は愚か、問答を繰り返していた朧と霞もまた口を噤み、目を丸くし。


「……朧、霞……其の声、聞き覚えがあるのだが」

「嗚呼!……済まぬ。すっかり忘れておった」


 言うよりも早く、朧の狩衣の隙間よりひょこりと顔を出したのは、あの猫。先日に同じく耳が後ろに倒れてはいたが、猫は物怖じする事無くくるりと身を(よじ)らせて朧の肩へと登り、じっと皆へと目を配せる。

 すっかり話の腰を折られた霞は苦笑し、其の様子に雫彦もまた苦笑を余儀無くされ。

 呆れの溜め息を漏らしながらも、雫彦は其の怯え顔を覗き込んだ。


「何じゃ……朧、汝の猫であったのか?」

「嗚呼、先日は世話になったそうだな。其の挨拶にと参ったのだが、よもやこの様な事が起こっておろうとは」


 そう言う間にも、猫は朧の肩より霞を見詰め、心配そうな目でにゃんと小さく鳴く。

 霞は何時もの柔らかな笑顔にて猫の小さな体を抱き上げ、其のふくよかな胸元へと寄せれば、猫は幸せそうな顔にてごろごろと擦り寄った。


「こま……狛虎と申します。私達の大切な友人ですわ」

「何とも、助平な猫だな」


 霞の表情をすっかり和やかなものへと戻してしまった狛虎に、雫彦はにやり笑って体を抱き上げ。

 驚いた狛虎はびくんと体を震わせ硬直したが、爪を立てる様な事をせず、只為すがままに抱えられた。


「狛虎と申すか。雄々しい名の割に臆病者め」

「犬や猫は蟒蛇が苦手故、其の所為ではないのか?主は見ようによって(みずち)にも見える」

「ふむ……狛虎、汝は我が蛟に見えるか?」


 抱き上げた狛虎の顔を下方より見上げれば、狛虎は丸い瞳孔で雫彦の目をちらりと見、……そっと目を逸らせ。

 雫彦は其の様が面白可笑しく、わざとらしく牙を向ける。と、再び驚いた狛虎はじたばたと手足を振り回した。


「これは良い!霞よ、汝がこの猫を可愛がる理由が分かったぞ!!」


 気を良くした雫彦は先刻の騒ぎなどとうに忘れ去り、まるで玩具を与えられた子供の様に無邪気な笑みを見せた。


「今宵、汝等は此処で過ごすのであろう?」

「嗚呼。久々故、積もる話もあるでな」

「そうか……良う思うて見れば、三人揃うのは八十八年振りであるからな」


 抱きかかえたままの狛虎をぎゅうと抱き締め、少々迷惑そうな其の顔を覗き込み、雫彦はさも嬉しそうに笑った。


「勿論、汝もだぞ狛虎!今宵はいじり倒してやろうぞ」

「……にゃー……」



 * * * * * * * * * *



 日が沈み、月明かりが煌々と照らす夜。


 不思議な事に、夜となっても滝に掛かる虹は消え失せる事無く、只静かに泉の流れをじっと見つめている。

 ほんの少し、流れゆく夜の冷気を含んだ空気に飛沫が舞い、月光に照らされた其れ等は天井に輝く星々と共に宝石の如く瞬いた。



 何時も変わらぬ景色。

 美しくも変化無き景色の唯一違う月形を、雫彦はじっと見上げ、宵闇を過ごす。

 ……否。其処に佇む者は、最早人の形をしてはいない。

 長き胴体に月光色の鱗を纏った龍が、縦穴の半分を占める大きな泉の中に静かに身を浸していた。


 ぱしゃん、軽く揺れた尻尾が弾いた水滴が其の鱗を伝い、艶やかに輝く。

 其れは刀を伝う涙を彷彿とさせ、静かに銀龍を見上げていた少年は寂しそうに溜め息を付き、其の側へと歩み寄った。



「綺麗からに」


 不意に上げられた声。

 しかし特段驚く様な仕草も見せず、銀龍はゆっくりと其の大きな頭を少年へと擡げ。

 彼を見た瞳は、確かに雫彦の瞳だ。凶悪そうではあるが、寂しく、優しい。


「………… 狛虎か、」


 龍はそっと呟いた。

 空気を優しく揺らす様な、静かに響く声で。


 狛虎はやはり少々びくびくしつつ、しかし龍が体を沈めている泉の畔へ軽く立ち、にまりと笑った。


「俺は今の姿の方が好きさな」

「…………、」


 目を細める銀龍。次いで体を泉より引き抜き、狛虎の周りを其の長き胴体にてぐるりと囲う。

「おぉ……」と驚き戸惑う狛虎の顔へ銀龍の其れはぐいと近付き、意地悪そうな色を湛えた両の(まなこ)が彼をねめつけた。


「美しいと申すか、この(みずち)が」

「蛟だなんて思って無いさ、あんたが龍様だって事は最初から分かったからに。

 ……綺麗だから綺麗だって言ったからに」

「ほぅ……口が利けても面白き奴よの、」


 龍の口角が僅かに上がる。つられ、狛虎も又安堵した様な表情を浮かべた。


 静かで穏やかな時間が、流れる。

 時間と言う概念すら溶ける程に、其れは柔らかく優しい。


 長い首を持ち上げて天井を見た銀龍の姿は何処か寂しげで、其の様を見上げた狛虎の表情もまた、物憂げな景色にあてられ、消えていった。



「なぁ……龍さん、」


 群青と少しの輝きに包まれた景色に心が呑み込まれそうになった辺り、狛虎は声を上げる。

 銀龍は其の声に反応する事は無かったが、意識だけは狛虎へと向けられた事を感じ取り、彼は続けた。


「こんなに寂しい所でずっと独りなのか?」

「………… 何故に訊く、」

「あんた見ていると寂しくなってくるからに」

「其れが汝と何の関係がある?訊いて如何するつもりだ、」

「如何もしないさ。

 只、何だか……昔の俺を見ている様な気がするから」


 言い、狛虎は未だ自分の周囲を囲む龍の胴体にストンと腰を下ろす。

 硬く冷たいかと思われていた其の体は体温を持ち、柔らかく息づく其れは狛虎を乗せても尚変わらずゆっくりと上下し続けた。



「………… 狛虎」

「ん、」

「見ろ。今宵は特別な夜じゃ……始まるぞ」


 まるで話を遮るかの如く、龍は狛虎を促し。

 言われるがまま、狛虎は其の視線を龍の頭より夜空へと向けた。


 相変わらず真円の月が辺りを照らす中。

 光の粉が、ちらり、ちらり……一粒、又一粒と落ち始め。


「ん?これって……」


 狛虎が首を傾げる合間に、光達はやがて無数となり、この縦穴より見える限られた空一杯を覆い、降り注ぎ始めた。

 其の様はまるで砂金の入った壷を少しずつ揺らし零している様で、月光に照らされ輝きを増し、群青の空気を美しく彩った。


「……すげぇ!」


 感嘆の声を上げ、狛虎は手を伸ばす。

 きらきらと瞬く砂金達はやがて其の手の届く所までふわり落ち、熱を持った掌の中へと降り立った。

 しかし其れを掴み目前へと引き寄せた所で、手の中に残っていたのは微かな水滴と一瞬感じた冷たさの余韻だけであった。

 星々の如く舞い輝く其れ等は、氷の粒だ。


「初めて見たさ……これ、雪か?」

闇御津羽神(クラミツハ)の戯れじゃ。

 空が澄んでおる時、月が出ておると偶にこうして遊びにて降らせて来おるのだ」


 良き時に来たな……そう、龍は微笑う。

 狛虎は其の粒にじゃれつきながら、星が降り注ぐ其の光景を見つめ、満足げに溜め息を漏らした。


 暫し、そうしてこの世ならざる光景に見取れている中。

 ぽつり、龍は独り言の如く呟く。


「…… 汝は、其の小さき体にて何を見て来たのであろうな……」

「ん……、」

「我は、汝の小さき眼が羨ましい。

 さぞかしこの『世』が大きく美しく映るのであろうな……」

「ん?大きさなんか関係無いだろ?

 ……確かに自分が小さいと魚は大きく思えるけれどもさ。

 綺麗なものは大きい体で見てもきっと綺麗なままからにな」

「…………関係無い、か」

「ん」


 ぱたぱたと子供の様に足をばたつかせ目を輝かせる狛虎へ、ゆっくりと銀龍の顔が近付く。狛虎はもう驚きも怯えも見せる事無く、ニカ、と笑う。


「何故に其の様な寂しい顔をしておるのか、俺は分からないけど。

 独りぼっちで寂しいのならば、狛虎めが偶に此処に来るさ」

「我に同情するか、」

「ん?んー……違うさ、多分」


 小首を傾げ、狛虎は眉を顰めて暫し考えを巡らせ。

 やがて、再び龍の眼を正面に見据え、言い放った。


「俺はあんたが嫌いじゃないさ。

 もっとあんたの事知りたいと思ったし、あんたと一杯色々なものを見て、一杯話をしたいと思ったからに。

 ……そんなな理由だと可笑しいか?」

「………… 我を恐れておった汝が我を気に入ったと、」

「あんたは怖くないさ、優しい心してるさ」


 其れを噛み締める様に聞いていた銀龍は、狛虎を見る目をじっと細めた。

 狛虎は、ムニ、と目を瞑り、開いた。



 と。

 銀龍が何かを言おうと小さく口を開いた辺り、壁にある横穴より現れた朧が二人へと声を上げる。


「何だ、我の杞憂であったな。

 のお、霞。二人は仲良うしておるではないか、」

「ん?何がさね?」


 くるり振り向いた狛虎が小首を傾げると、続き現れた霞が朧に同じくにこやかに見上げ。


「あら、ほんに。良う御座いますわ」

「だから何がさ!」

「狛虎よ、お主が今乗っておる銀龍は少々気が荒くてな、些細な事にて身を震わせ地震を起こしおるのだ。

 故に、先日は余り関わるなと申したまでよ」


 言われ、初めて狛虎は顔を青冷めさせ、龍を見上げた。

 龍はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、狛虎の額を鼻先でツンと突付けば、彼はうわぁと悲鳴を上げて後方へとひっくり返る。


「其れなら早く言うてくれれば……」

「言うたら雫彦を偏見の眼にて見おるであろう?」

「……其れもそうか、」


 大の字にひっくり返ったまま、狛虎は突付かれた額を擦り。

 再びゆっくりと視界へ入って来た雫彦は、しかし蜷局(とぐろ)を巻いていた体を解き、其の胴を泉へザンと沈める。

 僅かに飛び散った水滴が氷の粒と共に水面へと消えた辺り、彼は誰に言うでも無く、独り言の如く呟く。


「………………

 何度来ようと、川魚しか馳走してやれぬぞ」

「ん?」


 不意であった其の言葉を聞き返そうと狛虎が身を起こした時、銀龍は頭までトプンと泉へと潜り、其処より天辺へと盛大な水飛沫を上げ飛び上がった。

 艶やかに煌めく胴をくねらせ、しかし少々恥ずかしそうに遠く空へと飛び去る光景を、三人は何も言わず只見上げ。


 滝の音が、さらさらと辺りに響く。

 遠く飛んでいく銀龍と、更に遠くに飛んでいた白龍が絡み合う様に戯れる様を、暫しぼぅっと見詰めた後。


 狛虎は「うん、」と大きく頷き、笑った。

 雫彦が恥ずかしそうに漏らした先刻の言葉を、漸く理解したのであった。



 

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