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アヤカシ太夫♂とイロオトコ  作者: 駿馬
妖神(アヤガミ)
36/53

妖神(アヤガミ) ─肆、

 


 叁月贰拾漆日。


 戒刻(かいこく)の儀、前日。



 朝、椿が樹の包帯を替える。

 肩に付けられた深い牙、削いだ様な傷……縁の黒ずみが、治りの悪さを予感させる。

 薬を塗り、当て布をし、治癒の呪符を貼り、包帯を巻いた。

 他の噛傷にも同様に。


「朝から済まない」


 目を伏せる樹の顔色が、少し良くない。


「お体の具合は、」

「嗚呼、問題ないよ」

「顔色が優れない様子ですが」

「…昨日、少し血を失ったらしい」


 ふぅ……と、溜息を漏らす。


「清慈総代の天ノ眼が無ければ如何なっておったやら」

「重傷者が居らなかったのは重畳でした。

 ……樹様、貴方様まで居なくなってしもうたら……」

「心配性だな、椿」


 樹の無駄無きしなやかな筋肉が包帯と共に水干に隠れ、彼はふふ…と笑み零す。


「其の様な酷な事はしないさ」


 ……真っ直ぐに椿を見る眼。

 何時も見る美しい眼が、椿には何時もと少し違って見えた。




 午前、離れ前。


 明日の戒刻の儀を前に、しかし何時もと変わらぬ静けさ。

 春の暖かな日光が、眩しい。


 食器も持たず離れより出た総次郎を、樹は呼んだ。


「総次郎君、……少し、良いかな」

「お早うございます、……何か」

「話が、したいんだ」


 浮かぬ面持ちの総次郎。

 しかし、少し無理に笑みを作り、「はい」と頷いた。



 分所施設をぐるりと南へ回れば、建物のすぐ傍に松の木が植えられている。

 其処より屋根へ上れる事を、樹は知っている。

 総次郎を促し、巨大な分所の屋根へ上がる。


 爽やかな、青空。

 ぽっかりと浮かぶ真っ白な雲。

 周囲を覆う山々を見渡せる高さ。

 肌を柔らかく撫で行く春風。

 空気に混じる甘い花の匂い。


 思わず胸一杯に空気を吸い込んだ総次郎、其の傍に樹が腰を下ろす。


「こんな所があったんですね、」

「何年振りだろうな、此処へ来たのは…… 誰にも言わないでおくれよ?」


 樹が向けた其れは、何時もに無き無邪気な笑みに見えた。



「…… 明日」


 くるり、くるりと回る鳶を眺めていた二人。

 樹が、言を零す。


「明日、蘭樹は人の生を終わらせる」

「……」

「悪い事ではない。新たな生を授かるのだから。

 ……君を護る、剣になるのだから」


「…… 私は、」


 総次郎が、ぽつり零す。


「この制度が良いものであるとは、到底思えません。

 ……人の命を、かの様に弄ぶなんて」

「……」

「でも…… 蘭樹が、生きる道が……これしかないのなら……

 私は、…… 僕が、やるしか……」


「…… 私が総てを代われれば、どんなに良かったか……」

「えっ?」


 ぽつり呟かれたものは、総次郎には到底聞こえぬ程に小さな言葉。

 風に吹かれ流れた其れを聞き返すも、樹は続ける。


「総次郎君」

「…はい、」


 向き直る樹。

 真っ直ぐな、…少しだけ、寂しそうな、眼。

 頭を垂れ、其の眼が隠れる。


「…… 此処までの五年間、私達に代わり蘭樹の世話をしてくれて、本当に感謝する」

「頭をお上げ下さい。私は其の様な……」

「きみには、本当に苦労を掛けた……本当に、本当に」


 ゆっくりと上げられた眼に、総次郎が映る。


「……明日は、上手く行くよ。きっと。

 これからも、蘭樹の事を……


 頼んだよ」


 総次郎は、何も返す事が出来なかった。

 ……この人も、自分に同じ犠牲者だと、知り得ている故の。



 遠くで総次郎を呼ぶ声がする。

 儀式の段取りであろうか。


「…… 行かなければ」

「すまない、長く引き止めてしまった」

「いえ、」


 松の木伝てに降り、総次郎は見上げる。


「"樹おじさん"、」

「、」

「僕もね、……自分の器がもっと大きければ…って」


 そう呟いた銀の眼が、濡れている。

 ぐいと袖で拭い、其のまま総次郎は声の方向へと駆けていった。



 爽やかな、青空。

 ぽっかりと浮かぶ真っ白な雲。

 周囲を覆う山々を見渡せる高さ。

 肌を柔らかく撫で行く春風。

 空気に混じる甘い花の匂い。



 樹は、暫し其の景色をぼうっと眺め。


 やがて、身を震わせ、俯いた。

 顔を、両の手で覆った。


 溢れ出した其れを、止める事が出来なかった。





 昼、体調不良者複数の報。

 樹、分所内各居住区へ向かう。


 …… 苛立った様子の駄韋とすれ違う。

 何か気になるのであろうか、其の背を見ていた樹に、背後より声。


「樹様、」

成信(じょうしん)、状況は?」

「人数は報告待ちですが、皆一様に同じ症状を訴えています」

「如何様な、」

「発熱、目眩、……光を怖がるものもおります」

「……そうか……成信、悪いが助手を頼めるか?」

「御意」


 足早に、一部屋目へ向かう。


 一部屋目、佐原 宗見。

 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。

 肩を噛まれ包帯を巻いた状態のまま、布団を頭から被り動けずにいた。


「宗見さん、」

「……」

「大丈夫です、窓は締めきっておりますよ」

「…… 嗚呼… 嗚呼、樹殿……」


 漸く布団より顔を出す宗見。随分窶れて見えるが……


「昨日は結界防衛、有難うございました。

 ……包帯は昨日のままですね、交換しましょう」

「樹様のお手を煩わせるなど……」

「否、……私の責任です故、」


 包帯にそっと手を触れ、解く。

 乾いた血が剥がれ落ち、甘い鉄の匂いと共に傷口が姿を見せる。……縁が、黒い。


「……今日になり、とにかく"光"が眩しくて、目の奥が焼かれる様で……」


 掠れた声で、宗見が漏らす。


「其れに、酷く喉が……乾いて……」

「……風邪、で……」


 言い掛け、淀む。

 幾許かの沈黙。……後、


「成信。水を持って来て下さい。竹筒に、何本か」

「御意」


 成信が離れている間に手早く包帯を巻き直し、宗見の手を取り、脈を診る。

 自分に同じ、熱を持った手。

 指に強く語り掛ける、少し乱れ気味の脈。

 …上気した様な、現を離れつつある様な、宗見の表情。


「宗見さん」

「はい、」

「何か、他に自覚症状は」

「…… 嗚呼…… 音が、響くのです…… 自分の拍動が、煩くて……」


 急ぎ成信が持って来た竹筒を宗見に与える。

 中の水を一気に飲み干すが、其の顔に満足感は無い。


「明日に控え、本日はご無理をなさらず」


 力無く頷く宗見をそっと寝かせ、部屋を後にした。



 二部屋目、眞田 重親。

 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。

 部屋を閉め切り、押し入れの中に居た。


「重親君、」

「ヒッ! …… た 樹様……!?」


 相手が樹と分かるや否や、よろける体を押して樹へ縋り付く。


「助けて下さい!! 俺、このままじゃあ」

「如何した、落ち着きなさい」


 布団の上へ座らせ、息を整えさせる。

 ……ヒトの、強い匂い。


「光が襲って来るのです、やけ死んじまう……!」

「光は人を襲わぬ、さあ大きく吸って」


 深呼吸させる。

 竹筒の水を飲ませる。

 ……少し落ち着いた所で、漸く重親は潤んだ目を樹へと向けた。


「……陽の光が、頭を焼くのです…… 嗚呼、あの天ノ眼が空に浮かび続けている様な……」

「先の結界防衛で心に傷を負ったか…」

「俺、嫌です!このまま厄介払いされたら……でも、外が……怖くて……!」

「其の様な事はせぬよ、大丈夫。

 先ずは傷を見せなさい」


 脇腹、大きく齧られている。

 牙の痕周りが黒く、消毒にて触れれば黒い液体が垂れた。


「少し痛む、我慢しなさい」


 其れらを絞り出し、液体が鮮血となった辺り。

 蜜の如くぬらりと滴る其れを塞ぎ、急ぎ拭き上げ、当て布をし、包帯で塞いだ。

 ……重親は、声も上げず震えていた。


 脈を診る。

 乱れた脈動、やはり熱がある……。


「樹様、俺……取り乱して……」

「大丈夫、良くなる。今日はゆっくり休みなさい」


 優しい言葉を投げ、重親を漸く布団へ横にし、退出した。



 三部屋目、犬養 雅。

 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。


 四部屋目、当麻 景次。

 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人……。



 六部屋目を出た辺りで、一人の陰陽師が樹へ駆け寄る。


「病人、集計出ました」

「何名だ、」

「二十です」

「………」


 溜息と共に、目頭を押さえる。

 ……恐れていた事実であった。


「樹様?」

「何だ、」


 後ろから見ていた成信が、不安気に声を掛ける。


「あの……樹様は、お体は」

「問題無い。

 このまま全員回る、竹筒の用意を」


 御意、と走り去っていった成信を、見送った後。


 傾きかけた西日が、樹を強か刺す。

 揺れる視界、耐え切れず乱れた呼気。


 …… ふっ、と息を吐き、飛びかけた視界を瞼で戻し。

 樹は再び、真正面へと向いた。


 後、十四人。




 …十部屋目。

 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。


 ……十三部屋目。

 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。


 ………十九部屋目。

 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。



 二十部屋目。

 ………… 帳簿に記す手が、震えた。



「……何が、起こっておるのでしょう?」


 成信が、青褪めた顔で零す。


「皆、光を怖がっておった……」

「……知らぬ感染症やも知れぬ」


 溜息と共に、樹が返す。


「明日までに回復して貰いたいが、……そうも行かぬな……」

「明日の儀、如何なるのでしょう……

 人数足らなければ、行えるか如何か」

「上層は強行する筈……彼等の尻を叩くであろうよ」


 残念ながらな……そう漏らしながら、簡単に帳簿を纏め。

 其れをすと成信に渡した。


「これを清慈総代に」

「は……」

「「罰は儀終了後に受ける」と、伝えておくれ。

 今日は良う頑張ってくれた、きみは早めに休みなさい」


 成信は何か言おうとしていたが、ぐ、と口を噤み。

 深く頭を下げ、長い廊下を足早に去っていった。



 …



 ……



 …………




 "ガクン、"

 膝が、力を失う。

 堪えていた息が切れ、肩が上下する。

 擦り切れる程に、喉が乾く。

 視界が、鼓膜が、脈動し、周囲が、紅い。


 井戸が近い筈。

 笑う膝を鼓舞し立ち上がる。

 外へ繋がる木戸を開け。

 血の様に真っ赤な西陽が樹を刺した。

 灼ける様。肌が。眼が。陽が、間近にて睨み来る。

 震えながら、嘔気を押さえながら、

 ふらふらと、

 井戸へ、

 辿り着いた。


 井戸を覗き、暗い水を覗く。

 身は落ちるを望み、拒む。

 水面に描かれた真っ黒な影を桶で壊す。

 入らぬ力で水を引き上げる。

 水面に反射する西陽が眼を焼いた。

 厭わず、顔を突っ込む。

 飲む。飲む。呑む。足りぬ。癒えぬ。

 頭から被る。又汲む。呑む。被る。吐き戻し、又吞む。被る。

 覚ませ。

 目を覚ませ。

 立て。

 立たねばならぬ。

 私は。

 "私"は、



 視線を感じた。

 ずぶ濡れの顔で、振り向く。


 蒼白の顔で、此方を見詰める、椿の姿があった。



 "ポト…"

 滴る音のみが、響く。



「…… 椿」

「………… 樹……様……」


 溜息に見せかけ、大きく息を吸い込む。

 目を伏せ、念じ、立ち上がる。


「如何したのだ、」

「…… 何を、して……いらっしゃるのです……?」

「嗚呼、……何、顔を洗っておったよ」

「……」


 半歩。

 椿は、歩み寄る。


「……部屋へ、お戻り下さいませ」


 強い語気。

 瞳が樹を真っ直ぐ見遣る。


「お休み下さいませ。

 樹様のご様子、見るに堪えませぬ」

「……大丈夫だ、ほら。水も飲まずに検診しておった故」

「いけませぬ。お戻り下さいませ!」

「椿、」


 ひく、と、椿の身が震えた。

 樹の、何時もの優しい声……少しばかり、荒く。


「きみの気持ちは、痛み入る。……しかし、私はこの通り、立っておるよ」

「……偶には、私の言を聞いてはいただけませぬか……?」

「……」


 暫しの沈黙。

 燃える様な陽が、建物の向こうへ落ちて行き、陰を落とす。


 ……小さく、溜息。

 後、樹の顔に苦笑が灯った。


「……顔を拭いて、幾つか回るところがある。そうしたら、戻ろう」

「……必ずですよ?」

「嗚呼。

 先に、部屋へ戻っていておくれ」

「必ず、ですよ?」

「良いから、」


 笑いながら、樹は椿を見送る。

 椿は何度も振り返った。

 不安気な、今にも泣きそうな目で、何度も。

 角を曲がるまで、何度も。



 其の日、樹が部屋へ戻る事は無かった。




 * * * * * * * * * *




 叁月贰拾捌日。


 戒刻の儀、当日。



 奥院の更に奥、窓無き大広間「禁呪の間」。

 分所総ての陰陽師……否、此度は数人の欠席者、そして外部警備に二十程割かれ、周囲を囲むは八十程。


 点在する蝋燭が揺れる。


 呪陣描かれた中央、其の上に御影石の台座。

 ……依代が、裸で横たわっている。


 入口付近。

 清慈を挟み、駄韋、椿、各家の長が並び立ち。


 ス……と、椿の横に樹が立った。


「…!」


 驚き涙ぐむ椿。

 樹は、只微笑んだ。

 何時もの笑顔で。



 彼等の前に、総次郎が佇んでいる。

 他の者達と同じ、束帯姿。

 目を瞑り、只静かに呼吸を繰り返している。


 皆が、印を組む。

 誰からともなく、呪の詠唱が始まる。

 一人、十人、二十人…… やがて、周囲の者全員の、声。


 詠唱が、同期していく。

 一つのうねりの様に、其れは低く、低く。

 ……床の呪陣が暗く光り……脈打つかの如く、光は流れ。


 詠唱と呪陣が空間を取り巻いた辺り、総次郎の目が開かれる。

 決心の、表情。

 ……身動きせぬ依代の前へ、立った。


「依代よ。

 (これ)なるは汝を我が(しもべ)とする儀……」


 漸く絞り出された、掠れ声。

 ……しかし、はっきりと、


「"我"を、拒むか?」


 問う。

 …… 沈黙。


 総次郎は、ゆっくりと瞬きした。

 拒んで欲しかった……そう、言いたげに。



 詠唱が、変化する。

 地を這う一つの声が、なにがしかの言へ。


 "逝哭凪螺(いくなら)…… 斬羅覇叉(あらはさ)……"


 一度詠唱される度、雲母の欠片に似た"何か"が、ちらり、ちらり……と、依代の身より剥がれ落ちていく。

 肌から、色が抜けていく。

 唇から、血色が、落ちていく。

 水に溶けた薄墨の様に、沈んでいく。

 ……剥がされ逝くは、"名"。



 やせ細り浮き出た鎖骨に、総次郎の指が触れた。

 人とは思えぬ程に、冷たい。

 す、と、下へ降り、左胸へ。


 床の呪陣と同じ文様が、現れる。

 其れに、手を置く。


 "ズル、"

 手が、其の中に、沈んだ。


 陣が、消えた。

 詠唱が、消えた。

 光が、消えた。

 術者と依代だけが、"其処"に、居る。


 触れた塊は、今だ温かい。

 規則正しく拍動し、……形が変わる。

 総次郎の手を迎える様に、ぬる……と、包み込んだ。


 意識が、思い出が、総次郎に流れ込んでくる。

 ……否。見得ない……酷く曖昧な、もやの様な。

 夜半の夢の如き、"深海の青緑"……脳裏に広がっていく、感覚。


 唇を噛み、……総次郎は紡いだ。


「聴け」


 空いていた左手を、依代の頭へ添える。

 "自我削除"の呪。

 胸の奥に秘められていた、彼を形作るものを、削ぐ。


 雲母の欠片が、一枚。

 "迷い"が、削がれる。


 雲母の欠片が、又、一枚。

 "疑問"が、削がれる。


 雲母の欠片が、又、一枚。

 "反抗"が、削がれる。


 雲母の欠片が、又、一枚。

 ……"意思"が、削がれる。


 只一枚のみ、残した。 ……"恐怖"。

 脳裏に流れ込む"色"が……澄んだ青緑へと、変わった。


 右手の中の塊は、総次郎を離そうとせぬまま。

 子供が、大人の手を握る様に。


 ……遠くに、頭痛。

 止める訳に行かぬ。



「…… 叁命剋印(さんめいこくいん)


 手中の拍動が乱れる。

 其の手を掴む"塊"に、力が入る。


「壹命、主命絕對」

「貳命、對象防護」

「叁命、禁未達」


 "ド、ク……"

 脳裏に居座っていた"青緑の何か"が、視界にまで膨張した気がした。


「……………!!!」


 依代の喉が、呼吸を止めた。

 目が見開かれ、身が跳ねた。

 …… "塊"は、総次郎の手より離れ。


 脈動が…… 落ちて、行く。

 ゆっくり、ゆっくり…… やがて、呼気と同じ程に、…… 落ちた。



 視界が、戻る。

 色が、戻る。

 禁呪の間の景色が、戻る。


 静寂。

 詠唱は止まっている。



 目を開けた総次郎の頬に、一筋。

 涙が、伝った。




 * * * * * * * * * *



 陽が沈む頃まで、椿と樹は器の傍を離れる事は無かった。

 ひんやりとした御影石の台座に、椿は縋り泣き続けている。

 其の背をそっと撫で続ける樹。……やがて、現れた総次郎を見、椿に囁く。


「……さあ、そろそろ暮六ツだ。

 我々は、去らねば」

「…… 貴方様は、何故に其れ程に……気丈でいらっしゃるのでしょう……」

「……」


 樹の表情が、曇る。

 唇を結び、其れが少しばかり震える様が見えた。


 今にも泣きそうな。

 刹那だけ、総次郎の目に焼き付く。

 が、ゆっくり瞬きし息を落とした後、樹の表情が、戻った。


「さあ、椿」

「…… 今宵は、貴方様も共に部屋へ」

「嗚呼」


 椿の泣き腫らした顔を、樹はそっと袖で隠す様に抱く。

 すれ違った総次郎に軽く会釈し、二人はゆっくりと禁呪の間を去っていった。


 重い音を立てて、扉が閉まる。

 耳をつんざく静寂と、肌を刺す冷たい空気が、自分と器を包む。


 総次郎は、台座に腰掛けた。

 ……ほんのりとだけ、熱を持っている。


 器は、

 動かない。

 まるで、人では無いかの様に。


 否、

 もう、

 "ヒト"では、ない。



「…… 蘭樹、」


 声を掛ける。

 もう、"其れ"の名では無い事を知っているのに。

 でれでも。


双樹(そうじゅ)おじさんはね、父上が僕位の頃に、式神になったんだって」


 ぽつり。言を、零す。


「父上が、まだ大樹(だいじゅ)って名であった頃だそうだよ。

 双樹おじさん、凄く面白い人であったって。

 皆に言いふらしておったそうだよ……大樹兄の剣になる事が…… 凄く、名誉だって………」


 涙が、御影石を叩く。


「…… 父上は…… 天ノ眼を、従えた頃から…… 変わったのだそうだ……

 今なら、ね…… 分かるんだ、其の意味」


 声が、震えた。

 其れは間に反響し、静かに消えた。


「……おじさんを壊したのは、父上だった。

 僕は……蘭樹、きみを…… この、手で……」


 過ぎる、あの感触。

 温かな体温。

 落ちていく拍動。

 この手を包み込む、子供の手の様な……


 そして、夢の様な、"青緑"の意識。

 何も、なかった、"あった筈の思い出"……


 あの時。

 只ひとつ、只の一瞬だけ過ぎったのは、

 自分の顔であった。



 ――― 蘭樹を、殺したのは、僕だ。



 震える手が、頭を抱えた。

 体が、崩れた。


 とめどなく、涙が溢れ続けた。

 悲鳴にも似た嗚咽を、しかし誰も耳にすることは無かった。


 

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