童歌 通りゃんせ ─弐、
「ちぃと通して下しゃんせ」
───御用の無い者、通しゃせぬ。
……余りにも静か過ぎる。
それが、怒りに任せて外へ出た早良の、周囲に対し一番に感じた印象だ。
この季節、夕暮れ時になれば虫の声止まぬ賑やかな夜である筈なのだが、その虫すら鳴かぬ。試しに近くの草むらを漁ってみたが、虫が居ない訳では無い。ちゃんと蟋蟀が数匹、ぴょいと飛び出して来た。
何かを察しているのか……?
早良は顔を上げ、ぐるりと周囲を見渡した後目を閉じ、じっと感覚を凝らす。
ガーァ……ガーァ……
……鴉。
夕闇に堕ちた周囲の山々から響く、遠いがしかし何百もの声。恐らく、この周辺が鴉共の塒なのだろう。
群青の空に黒の森……
時折鴉の飛ぶ影が横切る中、佇む早良は再び琥珀の目を見開き、じっとその影を追った。
……
…………
「…… 居るな」
ぽつり、零れる静かな声。
遠い森の中、早良の目は何かを追い、動く。しかし汗一つ流れ落ちる間も無く目標を見失い、早良は小さく溜め息を漏らして立ち直った。
森の中より此方を伺っていた"それ"が何であるか、早良には分からない。しかし熊だとか狐だとか言う獣でも、まして鴉共の気配でも無い。もっと、何か禍々しいものだ。
……だが、この暗闇で追えば墓穴を掘り兼ねぬ。早良は一度目を伏せ、再び正面へ顔を向ければ、ぽつりぽつりと増え始めた家の明かりが目に飛び込んで来る。初めて人の営みらしい営みを目にし、心の何処かで安堵を感じた。
一度来た道へ振り向き、確認するかの様にもう一度ぐるり見渡し。
早良は脇差しを差し直し、歩き出した。
先ずは一件目。
十六夜まで続く長い夜が、始まろうとしていた。
* * * * * * * * * *
「坊っちゃん、お名前は?」
「お家は何処だい?」
「……おや、」
「チョコレイト……食べなかったねキミ、」
「あれを食べないと、これから辛いんだよ。
何せ、酷く痛いからねぇ?」
「……さあ、乱丸君。もう逃げられないよ……おいで」
「乱丸君……さあ、おいで。」
「……乱丸君」
* * * * * * * * * *
まるで、揺らぐ水面に反射した光の如く。
心の奥底に仕舞い込んでいた筈の記憶が蘇りかけ、早良は振り払うかの如く頭を振る。
嗚呼、この迫り来る夕暮れが。
あの"男"に、似ておる故か。
……違う、
今の己に必要なのは過去の惨劇に有らず。
早良は今一度顔を上げ、ふっ、と大きく息を吐き、周囲を見渡した。
明かり……とは言え、家々の間隔が開いている故か、それとも皆の心内を映しているのか、その光景は余りにも頼りなく物悲しい。ちらちらと揺れる橙の柔らかな明かりに暖かみは一切感じられず、障子の向こう側を往来する人影も殆ど無い。
……本当に人が住んでおるのか?
訝しみながらも一件目の破れた障子の穴から中をそっと覗くと、確かに人は居る。其処には生気無く囲炉裏の前でじっと炎を見詰める老婆の姿があった。
「…………、」
暫く様子を伺ったが、それ以上の気配は無い。早良は何処か寂しげに目を伏せ、そっとその家を離れた。
二件目。
とっぷりと日が暮れ、明かり一つ無い暗い道を少し歩き、次の家へ着く。……一件目に同じく人気の無さ気な古い家の中に、老人が一人。
三件目、四件目と見て行ったが、やはり老人が一人、若しくは老人と猫が一匹。
「……?」
早良はまた去り次の家へ行こうとしたが、一つの疑問が湧き、真っ暗な道の真ん中にてふと立ち止まった。
……はて。確か、弥次郎の話では姥捨て子捨ての風習と言うておった筈なのだが。
「……何故に、」
其処まで言い掛けた辺りだ。
……ざざっ……
普通の人間ならば気付かぬ程度に微かに揺れる枝の音を見出し、くん、と顔を上げる。途端、早良は血相を変え家の陰へと転がり込んだ。同時に何処か暗闇から何かが飛び、早良が通った直ぐ後を追う様に突き刺さる。
避け切れなかった一本が早良の左腕に刺さり、陰へ逃げ込んだ早良は激しい痛みと痺れでその腕へ目を遣った。
鉄の針だ。
急いで抜き取り、傷口から毒を吸い出し、吐き出す。
「……」
上下に揺れる肩を抑えつつ、息を殺し。
何かに狙われている……破いた着物の袖で腕を縛りながら辺りの気配を探る。が、早良が振り向いた時にはその数寸もせぬ目の前にそれは居り、避ける間も無く首を掴まれ、持ち上げられてしまった。
「……かはっ……、」
「………………」
物凄い力だが、片手で持ち上げられているにも関わらずその手に掴む以上の力は入らない。
目前に居るそれは……此処まで近くにおれど闇に溶け込む程に……闇よりも黒い、鴉の如き者だ。
その腕を掴み必死に足掻くが、どうやら厚い手甲に覆われているらしいそれはびくともせぬまま、只自らの首が圧迫され、意識が急激に遠退いて行く。
「去れ」
「!?……、」
男が、狼の唸りの如き声で言う。必死で抵抗する早良は掠める程度にそれを耳にし、一瞬動きが止まる。
「夜明けと共に去れ。此処は余所者の来る所に在らず」
ちらり、家の微かな灯りを反射した眼が金色に光り。それを捉えた瞬間にふっと手が緩み、早良の身体が力無く地に落ちる。
激しく咳き込んだ早良は肩を上下させつつも顔を上げ刀に手を掛けた。が、その時には既にあの漆黒の男は影すらも消え、辺りはまた先刻と同じ寂しい静けさを取り戻していた。
「…………、」
未だ締め付けられている様な感覚を残す首をさすりつつ立ち上がろうとしたが、先刻毒針を受けた左腕が痺れて動かない。
「……くそっ!」
悪態を付き地面を殴った所で、家の中から誰かが動いた気配を感じ、藪の中へと転がり込んだ。
……一体、何なのだ?
先刻の疑問が再び浮き上がる。
年寄りばかりの家々。先刻の黒い男。
それ以上は未だ何も分からぬが、しかし明らかに異端な臭いを放っている。
……この村、何を隠しておるのだ……
家の者が中へ戻った辺り、早良がそう小さく独りごちた丁度その時だ。
早良が来た道から、ひいひい言いながらまるで逃げるかの様に走って来る者が居た。目前を通り過ぎようとした所で派手に転び、顔面から落ちて何処かへすっ飛んだ眼鏡を手探りで探すその姿は、紛れも無い。弥次郎であった。
「弥次郎……おめえ、何故に此処におる!?」
言えば、ようやっと眼鏡を掛けた所でびくりと身を震わせ、弥次郎は「うひゃぁ!!?」と間の抜けた声を上げ。とっさに口を塞ぎ再び藪の中へと入った辺り、弥次郎もそれが早良であると気付き、漸く大人しくなった。
「……嗚呼ぁ早良さん!!たた助かっ……た……」
「静かにせえ! ……おめえの様な臆病者が、何故に此処におるのだ!?」
「独りであの宿に居るのが嫌だったんですよぉ……障子はガタガタ音を立てて揺れるし行燈は消えるし!
それで出て来たら……ここ今度は真っ黒い鴉天狗が……!!この村おかしいですよぉ早良さぁん!!」
「…………おめえもか、って手前くっつくな気持ち悪いな!!」
半べそをかきながらしがみ付いて来る弥次郎を引き剥がしながらも、早良は眉根を寄せていた。
あの様な事をされ、益々逃げ帰る事は出来ぬ。早良の頭は、既に次の手を考えており。
落ち着きを取り戻した弥次郎に、早良は口を開く。
「弥次郎、己等は何をしに此処へ来た?」
「へ?あ、嗚呼……調査でしょ?姥捨て子捨ての」
「……姥捨て、だよな……」
そのまま腕を組みじっと考える早良の顔を、弥次郎は少々心配そうに覗き込んだが、やがて不意に顔を上げた所で再び驚き、弥次郎は後ろへ仰け反った。
「おめえは見たか?三件見て三件共年寄りばかりだ」
「えっ?そんな……可笑しいですね、姥捨てが有るなら」
「年寄りは少ない筈じゃ。……未だ全部回った訳では無い故、はっきりは言えぬが」
「でも嫌ですよ私は。今から動けばまた鴉天狗が……」
「怖ければ帰れ!時間が無い、今やらねば好機が無くなる」
苛々と顔を歪ませ立ち上がり去ろうとする早良に、弥次郎が涙目でしがみつく。
「そんな、独りにしないで下さいよぉ!!分かりました私も付いて行きますから!!」
「……全く、おめえは何をしに此処へ来たんだか。
立て、行くぞ」
心底呆れ果てた顔で、早良は溜め息混じりにその手首を掴み、引き上げる。その手首に掛かった力が思いの外強かったのであろう、弥次郎は眉根をひくりと動かし、人形の如くなすがままに立ち上がった。
辺りを見渡せば、次の家までまた歩かねばならぬ様で。
ほっとした様な表情を一瞬見せた弥次郎であったが、大分遠い所で薄らぼんやりと見える灯りを目にし、今度は気だるそうに肩を落とす。しかしさっさと歩き出した早良に距離を離され、慌ててその背中を追った。
……腕の痺れが取れない。だが、時間が無い。
弥次郎からは見えぬ早良の顔に、焦りが浮かんでいた。
* * * * * * * * * *
思ったよりも広いその村をぐるりと一周した頃には何処の家も灯りが消え、寂しさ増した辺りに彼等は宿へと戻った。
その頃には気付けば秋虫の合唱が静かだった辺りを包み込み、其処には他の村と同じ秋があった。
漸く得た落ち着きにほぅと軽く放心している弥次郎の傍ら、早良は今尚痺れ続けている腕に薬を塗りつつじっと考え込む。
総ての家を回り、弥次郎の帳簿へ書き入れて行ったのだが……
「……子供二人どころか、この村に子供がおった家は一件だけ。
何なんでしょうねぇ……此処まで年寄りが多い村も珍しいですねぇ」
呆けていた弥次郎が何と無く口を開き、こぼすかの様に呟く。それに早良が軽く顔を上げ弥次郎を見れば、彼はちらりと早良を見て手を伸ばす。
「傷、大丈夫ですか?私みたいに転んだとか?」
「おめえと一緒にするな! ……全く、何なんだこの村は」
早良の腕を軽くさする弥次郎のそれにほんの少し表情を歪ませ、しかしその中に軽い羞恥が混ざり、やがてその手を掴み止める。拍子でか如何か、かくんとずれた眼鏡を直す振りをしながらわざとらしく手を引っ込め、目尻を薄い桜色に染めて睨む早良から弥次郎は視線を逸らした。
「…… 己にそう言う趣味はねぇぞ」
「莫迦言わないで下さい、私にも無いですよ!!
……それより。如何するんです?これから」
「決まっておるだろうが、」
す、と立ち上がった早良は窓に手を掛け、様子を見るかの様に外へ目を遣る。
沢山の星と欠けた月が宵闇を照らす中、只一箇所……山の中腹にある神社だけ微かに灯りが漏れ、否応無しに目が行った。
「明日の夜……張るしかねぇだろうが、」
溜め息と共に漏れる言葉。
退く訳には行かぬ、その決意はあるものの……如何せん、一寸先が濃い霧に包まれているかの様で、何と無く渦巻く危機感があった。
「そうですね……」
弥次郎も、そんな早良の様子に何か察したのだろう。漸く諦めが着いたかの如き苦笑いで、早良を見た。




