蒼行燈(アヲアンドン) ─参、
オゾマシキ百話目ト
之ヨリ起コリシ怪異ヘノ
心亂レニ云葉無シ
蝋燭總テ消ヘシ時
果タシテ起コルハ
怪異カ、平穩カ
しん……と、辺りが静まり返る。
し乃雪の話に固唾を呑んで聞き入っていた皆であったが、その余りものおぞましさに絶句してしまっている。
「……そうじゃ、もう分かり得たであろう。
阿弥の正体は、幸信が助けた女郎蜘蛛であった。
阿弥は健気にも恩返しをしようとしておったが、彼の者は蜘蛛……結果的には仇で返してしまった……と言う事じゃ。
その後、幸信は気が狂うてしまい、自害したと言う」
誰もがじっと手を握り締め、恐怖の表情を浮かべている。一様に顔青く、し乃雪の客である四人を除き、身動きも取れぬまま。
「なかなか良く出来た話ではあるまいか、し乃雪太夫よ」
静寂を打ち破るかの様に、朧が不気味な笑みを浮かべながら口を開く。
「その話、百物語の最後にしてしもうて良かったのか?如何なっても知らぬぞ」
「んふふ……、」
妖しく美しき表情にて零れる笑みが、その場の空気をざわりと奇妙に揺らす。
外で、ざぁ…、と生温い風が吹き上がり、隙間風が青い紙を張った行灯の炎を僅か揺らす。それを見計らった様に、し乃雪は幽霊の如くゆぅるりと立ち上がった。
「さあ…… 覚悟は良いな? 消して来ようぞ」
音も無く、襖の向こうへと消えるし乃雪。不思議な事に、その動きには全く空気が揺れず、固唾を呑んだ皆の肌が総毛立った。
しん、
物音は皆の鼓動のみ。
と。
襖の向こうで何やら気配がしたかと思うと、小さな呻き声が聞こえ、同時に何かもがくかの様な音。
「……雪?」
それまで目を閉じじっとしていた源三郎が物音に目を開け、小さくそう呟く。皆一斉に源三郎を見た時、彼は立ち上がり他の客を押し退け、一目散に襖を開けた。続き、何事かと客の数人が源三郎に続き、後ろから襖の奥を覗き見た。
居る筈のし乃雪が、居ない。
最奥の蝋燭は既に消えており、しかし其処に気配は……無い。
「雪!?何処だ雪!!」
血相を変え叫ぶ源三郎に対し、覗いていた客共は少々怯えつつもその襖から離れた。起こると微塵も思っていなかった、しかし起こってしまった怪異に、ぞっと身の毛を振るわせたのだろう。
そして、異変は起こった。
“ゴトン“
客達が怯えつつも源三郎の様子に耳を欹てている中、その真ん中に何かが落ちる。
皆が一斉に其方へ目をくばせた時、一番に上がったのは眞鶴の悲鳴だ。
其処に転がっていたのは、血に塗れた……白い腕。
「イヤアアアア!!!」
「ギャアア!!」
「ヒィィィ!!!」
「何じゃあぁぁぁ!!!?」
一瞬の阿鼻叫喚と共に、その場の者共が一斉に後ずさり、障子を開け。まるで蜘蛛の子を散らすかの如く、殆どの者はそのまま外へと逃げて行ってしまった。
「…………」
そして部屋に残ったのは、源三郎、朧、霞……そして腰を抜かし動けないで居る眞鶴の四人。
「……雪、もう良いぞ」
襖に手を掛け寄り掛かり、源三郎は呆れ顔で小さく呟く。途端、蝋燭がある部屋の箪笥の中から、げらげらと大笑いしながらし乃雪が這い出して来た。
「成る程……お前の気持ち、何と無く分かって来た気がするぜ……雪」
「で、あろ?
毎年毎年、全く良う引っ掛かってくれおるわえ……!」
相変わらず笑いが止まらぬし乃雪を呆れつつ見ていた三人であったが、その顔に浮かぶは笑み。笑いを堪えていた朧がとうとう破顔し、続き源三郎も、そして最後には霞も、上品ながら笑いに混ざった。
それまで酷く冷たく重苦しかった空気が、妖共の笑い声にすっかり吹き飛ばされ、何時もの夏の夜と戻る。が、只一人、眞鶴だけは相変わらず放心したままだ。
「嗚呼、可笑しい!
太夫もお人が悪い、仰って頂ければもっとそれらしい山芋を掘って参りましたのに」
先刻天井から落ちてきた、血に塗れた腕……否、食紅に塗れた山芋を拾い上げ、霞が言う。
久しく見なかったその愉しげな姿に、朧もまた笑いながら再び口を開いた。
「余り本物らしいと我は良い気がせぬがな」
「あら、随分弱気ではありませぬこと?」
「戯け、闇に住まう者の出番が無くなるであろうが」
「嗚呼、そう言えば私も朧も住まいは闇でありましたかえ?」
「…………主と言う奴は、」
呆れ笑いにてそう零した傍ら、天板を外された天井よりストンと狛虎が降り立つ。穴より見物していたのであろう、その顔もニコニコと笑顔だ。
「ぬぁはははは!人間みんな見事に引っ掛かったからになー!」
「狛虎、御苦労様であったのぉ。良い頃合いであったよ、」
「おちゃのこさいさーい!」
もっと誉めろ、と言わんばかりにニカニカ笑い、し乃雪と源三郎の間にて胸を張る狛虎。
……源三郎はそれを見遣りつつも、しかし未だ身動き取れぬままの眞鶴が気になるらしい。放心したままの眞鶴を抱き留めれば、彼女は漸く涙目にて源三郎を見上げ、とうとう泣き出してしまった。
「……何なのよぉ、もぉぉ!!」
まるで街娘の様で、初々しい。美しくも可愛らしく、しかし源三郎へと縋り付き泣きじゃくるその姿は少しだけし乃雪の心を揺らしたらしい。
「…何じゃ、仲が良いのぉお前さん達は」
「雪、お前が驚かせたんだぞ?」
「この姿は思うても見なかったわえ。眞鶴姉さんはもっと気丈な女かと」
「分かっておらぬな、女心をよ?」
「おぉ?男に抱かれた事も無き男に言われとう無いわえ、」
そんな口論が始まろうとした辺り、じぃっと様子を見詰めていた狛虎の身がぴくん!と跳ね、すぅと顔色が変わった。真っ青となったそれをし乃雪達へと向け、その菖蒲柄の振袖へ駆け寄って握り締めた手が、震えている。
「おお狛猫よ、お前さんが縋り付くも可愛いのぉ、」
「ちちち違……太夫!後ろ、」
後ろ?
言われて何の気無しに振り向いた、刹那。
「うわあああ!!?」
し乃雪の直ぐ先に居た、人よりも大きな百足の変化。カチカチカチ、と鳴らした虫の大顎が黒く光り、今度は身を飛び上がらせ悲鳴を上げたし乃雪が狛虎へしがみつく番であった。
「何……なッ、何……!?」
青褪めたし乃雪、今にも泣き出しそうな潤み眼を泳がせた辺り。大百足は途端に身を揺らし、聞き覚えある声にて高らかに笑い出す。
「はははは!妖太夫が飛び跳ねおった!!」
その身がぐにゃと歪み、戻った姿は朧のそれ。笑う彼を始め、狛虎、源三郎、霞も、楽しそうにし乃雪の姿を笑った。
「お前さんも、人の事はもう言えねぇぞ?」
「太夫も可愛いからになー、何時もそんなのの方が好きさね!」
「…左様に、」
「……お前等ァ…… このし乃雪を嵌めやがったのかえ!?」
激怒の後に赤猫を呼び、その場がさながら妖の戦場と化した、宵も夜更けの丑三つ時。
只一つ。
大百足に驚いて白目向き気を失ってしまった眞鶴の、顔向いた方向…青い行灯の陰にて、手拭いを噛み音立てず地団駄を踏む姿。
其処に居る鬼女……妖・青行燈が、神と他の妖に出番を取られ、酷く恨めしい顔にてすぅと姿を消した事を、其処に居る誰一人とて、気付く事は無かった。
夏の夜、一時の涼が心地良い一幕である。
蒼行燈 完




