43.エインズワース侯爵邸
「ロザリア」
「テオ……!」
ようやくニライの保護から脱出したロザリアは、衒いもなくテオドロスに抱き着く。彼は妻の膝裏に腕を差し入れて、ひょいと抱きかかえると隙間なく密着した。
「怖い思いをさせて申し訳ありません」
「うん……テオが刺されたらどうしようかと思って、怖かった」
自分ではなく、テオドロスの危機が怖かったのだと言うロザリアに、もっとしっかりしなくては、とテオドロスは心を新たにする。
その一方で、気丈なロザリアがこれほど怯えているのが自分の為と思うとたまらないものがあった。
「心配かけて、ごめんなさい。ルイス陛下の狙いは貴女なので、貴女の弱点たる私を突いてくることは予想していました」
「弱点だなんて!」
「私の為に、泣いてくださるでしょう? 愛しい人」
テオドロスの優秀さを十分に知っているロザリアは、彼が弱いとは思っていない。
だが、今の主旨はそこではないので、テオドロスは優しい声で言い聞かせる。
「ええ……」
「敵には、それが弱点に見えるのです」
「テオのおかげで、私は強く自由になれるのに……悔しい」
「それが愛というものです。光栄です、私の人」
人前でお姫様抱っこなどしようものならば、いつもはお叱りがくるのだが、今はよほど怖かったのかロザリアは自らテオドロスにぎゅうぎゅうと抱き着いて離れない。
「イチャつくのは勝手だが、早くここを離れた方がよくないか?」
いい加減、妹夫婦のイチャイチャが見慣れたリッカが忠告する。
それもそうだ、とテオドロスはロザリアを抱えたまま足早に来た道を引き返し始めた。
「テオ、降りるわ」
「誰かに見咎められたら、急に貴女の体調が悪くなったので謁見には出られない、ということにしましょう。ですから、このままで」
さすがに恥ずかしくなったのでロザリアは自分で歩くと主張したが、サラリと彼に躱されてしまった。確かにレディを大切にする騎士の国であるアシュバートンの者ならば、その状況ならばよほどのことがなければ道を開けてくれるだろう。
渋々従う体を取ったが、まだ先程の恐怖が残っているロザリアはテオドロスに抱きしめられていることに安堵していた。
「ありゃロザリアとくっついていたいから口実を作ったな……」
さっさと行ってしまった夫婦と、護衛のニライ。リッカはオロオロとしているテッサに声を掛けた。
「ほら、行くぞ」
「は、はい!」
返事だけは満点の青年を促して、リッカも彼らの後を追う。
あのまま廊下でじっとしていたら、第二第三の衛兵隊が駆けつけかねない。その隊の隊長が皆、先程の彼のように単純に話術だけで退いてくれるとはとても思えなかった。
「それでドコに行くんだ? アスター領事館にでも逃げ込むか?」
「そうして、わざわざ国家反逆罪のネタを陛下に献上するわけですね、さすが賢くていらっしゃる」
「嫌味のキレがすげぇな、お前……」
リッカがげんなりとする。
テオドロスは、最初にリッカがロザリアにちょっかいを掛けたことをしつこく根に持っていて、これでも随分打ち解けたものの言葉は厳しい。
状況からいって、テオドロスにかけられている嫌疑であるところの『国家反逆罪』の内容は、外交官として赴任しているアスターに関することだろう。例えば今回の交易の件で、賄賂を受け取っているだとか、安易に考えつきそうなシナリオだ。
「ロザリア、どこに行きますか?」
リッカに対する時とは打って変わって、テオドロスがロザリアに話す声は甘い。もうすっかり抱きかかえられたままの移動に馴染んだロザリアは、こてんと彼の肩に頭を乗せて唸った。
アシュバートン滞在中は王城に用意された部屋に宿泊する予定だった。アスター領事館も使えないし、この様子では街の宿も安全とは言い難い。
「……仕方ない。出来ればあそこには行きたくなかったけど、敵の敵は味方、と思いましょう」
ロザリアは深く溜息をついて、甘えるようにテオドロスの首に擦り寄った。
彼女が方針を決めたことを見て取って、リッカが口を開く。
「んーじゃあ俺は予定通りアシュバートン城に滞在するわ。正式なアスターからの賓客の立場だし、テオドロスとは離れていた方が疑われなくていいだろ」
「ずっと離れていても構いませんよ」
「たまには優しくしてくれないと、さすがの俺も傷つくんだぞ?」
まだ何がどうなっているのか分からない状況だ。アシュバートンはリッカには手出し出来ないだろうし、彼が城内に残るのはロザリアとしても都合がいい。
「念の為、身辺には気をつけてねお兄様」
「おう、俺がいないからって寂しくても泣くなよ妹」
「寂しくないし、泣かせません」
「うん……めんどくさいなコイツ」
そのまま向かった先の馬車乗り場でベルとフリュイが合流し、挨拶もそこそこにリッカとは別れる。
衛兵側の連携が上手くいっていないのか、馬車は誰にも止められることなくスムーズに城から脱出し、窓から外を確認するとテッサは騎馬で付いてきていた。
「奥様、一体どうなさったのです?」
フリュイは突然のことで目を白黒させているし、ベルはやや怯えている。
国王に挨拶に行った筈の主達がすぐに戻ってきて、そのまま城を出ているのだから、尋常ではないことだけは伝わり不安を抱かせてしまったのだ。
「驚かせてごめんなさいね。ちょっと事情が変わったの」
ロザリアがそう言うと、メイドの二人は了承したと頷いた。多くを伝えなくともついてきてくれる使用人の存在は、有難い。
やがて馬車が到着したのは、エインズワース侯爵邸。
白い石造りの美しい屋敷で、よく手入れされた庭には花が咲き乱れている。つまり、ロザリアの実家だ。
大きな一枚板の扉が開き、中から姿勢のいい老人が現れる。
「おかえりなさいませ…………ロザリアお嬢様」
「急に来てごめんなさい。ベネディクトお兄様はいらっしゃる? お話したいのだけど」
彼はロザリアが生まれる前から侯爵邸に勤めている家令で、急な訪問だったがごく当然のように出迎えてくれた。
「ベネディクト様は出仕なさってます。奥様はおられますが、旦那様は領地においでで今夜遅くにお戻りの予定で……」
「そう。じゃあお母様にご挨拶するわ。数日、私と夫はこの屋敷に滞在するからよろしくね」
勿論ロザリアと父アルバートが縁を切っていることを知っている家令は、上品に言葉を濁す。
ロザリアはそれに頷き、有無を言わせない笑顔でハッキリとそう言うと、テオドロスの手を引いて家族の居間へと向かった。
その後ろで、ベルやフリュイは侯爵邸の使用人達と手分けして荷物を運び入れていた。監視兼連絡係のテッサもこちらに留め置かれる。玄関脇に待機用の部屋があるのだ。
護衛のニライだけは、ロザリア達に追従して廊下を進む。
居間に辿り着くと、既に誰かから報せが行っていたのだろう、侯爵夫人でありロザリアの母親であるフレデリカ・エインズワースが明るく微笑んで待っていた。
「ロザリア! おかえりなさい。もう、あなたったら本当に急に帰ってくるんだもの、驚いちゃったわ」
「ごめんなさい、お母様」
「あ、違うの違うの、驚いただけで帰ってきてくれたのは嬉しいのよ!」
ぎゅっとフレデリカは娘を抱きしめる。
政治手腕は父親似のロザリアだが、容姿は母親似だ。
蜂蜜色の髪も緑の瞳も同じで、少女のように天真爛漫なフレデリカは若々しいので姉妹といっても通用しそうだった。
彼女はようやく娘を解放すると、扉を潜らず廊下に立っているテオドロスに目をやった。
「テオドロス様もどうぞ! いつも娘がお世話になっているわね、ようやく直接ご挨拶が出来て嬉しいわ」
「……エインズワース侯爵夫人、急な訪問をお詫びします。手紙で挨拶をさせていただきましたが、結婚の報告にも来ず失礼を……」
「そんなことちっとも構わないわ。ロザリアがこんなに綺麗になったのはあなたのおかげね、幸せそうで本当によかった。さあさあ、いらして!」
フレデリカはにっこりと微笑んで、娘夫婦を居間へ導いた。
三人がソファに座ると、侯爵家のメイドがスッとお茶を置いていく。
「さて、あなたがこの屋敷に帰ってくるなんて余程のことなのね。ベネディクトにすぐに帰ってくるように使いをやりましょう。話はそれからの方がいい? それとも私が聞いておくべきことがあるかしら」
「話が早くて助かるわ、お母様」
「しかし宰相閣下を早退させるのは……」
ロザリアが機嫌よく母親に笑顔を向ける。テオドロスは思わず口を挟んでしまった。
「大丈夫よ、あの子は早退した程度で困るような仕事の仕方をしてないわ。それにあなた達が城じゃなくここにいる、ということは陛下絡みなのでしょう? 早く話をすべきよ」
「そうそう」
ロザリアが頷くと、フレデリカはすぐにベネディクトを呼び戻すように使用人に命じる。
「結婚生活の話とか、異国での出来事とか聞きたいけど、あとにしなくちゃいけないわよね」
「ええ、お母様。ここ一年程で陛下に纏わるゴシップがあれば教えてくださらない? 他国から政治情勢はある程度調べることが出来たけど、アシュバートン国内でのゴシップまではさすがに把握出来なくて……」
久しぶりの母娘の再会なのであれこれとお喋りしたいのはロザリアも同じだが、今は状況把握の方が先だった。
「あら! それじゃあ国王陛下に関するとっておきのゴシップがあるわ」
まるで少女達が恋の話で盛り上がるかのように、フレデリカは歌うように楽しそうに喋り出した。




