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スズカは、小さな妖精になっていた。
いや、自分の姿が見えるわけではなかったけれど、
雲から雲へと軽やかに跳ねまわる今の自分は、楽しさに浮かれた妖精に近かった。
階段のように上へ上へと続いていく、トランポリンのような平たい雲。
丸い綿のようなワタモドリたちが、
あちこちでふわふわ浮かびながらスズカを歓迎してくれている。
下に広がる雲海も、まるで生クリームのようになめらかだ。
気持ちいいほど愉快で、何から何まで夢のようだ。
ホップして落ちていく感じも、ちょっぴりスリリングでもある。
一番上までたどり着くと、
ワタモドリの女王さまがいて、金の冠をかぶっていた。
ここは、ワタモドリの王国だったのだ。
女王さまは、やってきたスズカを見てにっこりと笑い、愛らしい声でこう言った。
「夢はまだまだ続きますよ。オハコビ竜が、あなたを幸せにしてくれる」
ここで、目の前がすっと暗転した。
ワタモドリの女王さまや家臣たちも、空の風景も何もかも消えてしまった。
まるで一本の映画が終わりを迎えたように、
視界に広がるすべてが真っ暗になったのだ……が、
一呼吸おいたあとすぐまた視界が明るくなって、
目の前に青い文字が浮かび上がった。
『《オハコビ・ミラクルシミュレーター》
――係の者がヘッドセットをはずしますので、そのままでお待ちください』
スズカの頭からゆっくりと装置がはずされた。
視界いっぱいに施設の風景が広がり、周囲の音がまた聞こえるようになった。
「おかえりなさい。どうだったかな? 本物のような夢の世界にひたった気分?」
スズカの前に歩みよってきたのは、桃色のオハコビ竜だった。
頭の毛がふわふわしたボブヘアになっていて、
フラップに似て愛らしい丸い目をしたメスのオハコビ竜だ。
スズカの新しい引率者である。
彼女はフライトスーツを着ておらず、全身が無装備状態だった。
スズカはテレパシー・デバイスを装着し直すと、満足げにこう答えた。
『うん! すごかった、とっても!』
このオハコビ竜の名前は、フロルといった。
フロルは、嬉しそうにニコリとした。
スズカは、小型ジェットコースターのようなシートに座っていた。
そのシートは一人乗りで、
電磁浮力によって狭いスペースの中を自在に動けるマシンだった。
映像とあわせて動くことで、搭乗者はとてつもない没入感を味わえる。
スズカは、体を包む安全ベルトから解放されたとたん、
フロルの胸へと飛びついた。
今は昼の一時。
サーキットがオニ飛竜の襲撃を受けるよりも、一時間以上も前のことだった。
「あのね、クロワキ主任が外であなたを待ってるんだって」
『えっ、クロワキさんが?』
スズカは驚いて顔を上げた。
あの人がわざわざまた会いに来た? なんの話があるんだろう?
スズカはフロルと手をつなぎながら、シミュレーターの個室のドアから出た。
その先には、目の覚めるほど楽しげな光に包まれた広大な空間があった。
大勢の歓声や絶叫、ノリノリのポップミュージックが全身に押しよせてくる。
ここは、ターミナルの第二層にある遊戯施設だった。
サッカースタジアムくらいの屋内空間に、
オハコビ隊が作った乗り物やアクティビティスペースがぎっしりとひしめき、
日がな一日、亜人客の家族連れなどでにぎわっている。
言ってしまえば、ターミナルに滞在する旅客むけの、退屈しのぎの施設だ。
あのスカイトレインに似せた、オハコビ竜が引っ張る大型屋内コースター。
天井近くまで跳び上がる大型バンジートランポリン。
音楽にあわせてコロコロと踊るように宙を転がる、卵型のゴキゲンな乗り物たち。
頂上の竜の城にむかってよじ登るボルダリングタワー。などなど……。
ハルトたちと同行できなかったスズカは、
フロルに連れられてターミナルをまわる中、この施設に案内されたというわけだ。
もともとヒトが何百人も密集する場所は苦手だったが、
こういうテーマパークのように楽しげで、それも亜人だらけの場所なら平気だった。
「スズカちゃん。わたし、うまく案内できてるかな?」
きらびやかな施設内を歩きながら、フロルがそっとスズカにたずねた。
『えっ、なんでそれを聞くの? わたし、ちゃんと楽しめてるよ』
「だってスズカちゃん、『それ』をつけてると、
考えていること全部わたしに聞こえてきちゃうんだもん」
スズカは急にはずかしくなった。
『それ』とはテレパシー・デバイスのことだ。
たしかに、フロルに案内されてターミナルをめぐるなか、
スズカはずっとハルトのことを考えていた。
早くふたりに会いたい――そんなさみしさが心の声になって、
デバイスを通じてずっとダダ漏れしていたようだ。
「でもわたし」フロルは言った。
「スズカちゃんにターミナルを案内できるだけで、とても嬉しいよ。
だって、『人間の』お客様をもてなす仕事なんて、
わたしみたいな普通の隊員じゃ、めったにできないから……」
クロワキ氏は、施設を出たすぐのところで待っていた。
大通りの前でにこにこと笑い、スズカにむかって手をふっていた。
「やあやあ、元気にやってくれているみたいですねえ」
クロワキ氏は、昨夜の仕事の疲れが取れていないのか、
どこか顔色が悪そうに見えた。
『クロワキさん、具合が悪いんですか?』
スズカは心配になってそうたずねた。
「あ、いえ、心配にはおよびませんよ。お昼はもう食べましたか?」
『はい。フロルがいいお店に連れて行ってくれたから』
「それならよかった。では、いっしょに来てください。
キミにぜひ、見てほしい場所があるんです。
フロルちゃん、すみませんねえ、
ターミナル巡りの日程が狂ってしまうかもしれませんが、いいですか?」
クロワキ氏の思いがけない言葉に、フロルは恐縮した。
「あわわ……だ、大丈夫です!
クロワキさんのご提案でしたら、むしろ光栄です!」
クロワキ氏は、近くに停めてあった乗り物に乗りこむよう、スズカを手招きした。
スズカが見たのは、白くて丸い靴のような形をした、
翼もタイヤもない不思議な浮遊機体だった。
二人乗りのふかふかな座席があり、
その手前には大きなキーボードやパネルなどが備えつけられている。
「これは、『フローター』という乗り物です。
モニカちゃんのような、お運び部門のサポーターが日々愛用している……
ざっくり言うと、仕事をよくしてくれるマシンですねえ。
一人用と二人用があるんですが、これは二人用。座席が広いでしょう?」
スズカは、クロワキ氏に続いてフローターに乗りこんだ。
シートベルトをつけると、搭乗口が閉まる。
フローターはふわふわと風にただようように、全自動で進みはじめた。
フロルがその隣を飛んでついていった。
見なれないマシンが宙を飛んでいると、
周囲の亜人客が物めずらしそうにこちらを見上げていた。
カワウソ人の男の子が、
母親にむかって「あれはなに? 白い小舟みたい」と言う声も聞こえた。
一行はリフターの乗り継ぎをへて、
第二層から一気に第十七層までやってきた。ターミナルの最上層だ。
リフターを降りたとたん、スズカの視界に飛びこんできたのは、
太陽に輝いてそびえ立つ巨大タワーだった。
竜の角のような湾曲型のタワーだ。てっぺんまで、
天井をおおう雄大なガラスドームが風船ガムのように引き延ばされて、
張りついたまま固まっているような具合だ。
高さは三十階建てのビルくらいだろうか。
近くで見るとなかなか壮大なスケールだ。
「サポートタワーですよ。お運び部のサポーターたちが、
日夜オハコビ竜たちのサポートをしている現場です。
関係者以外は中に入れない決まりですが、特別に案内しますよ」
「しゅ、主任! 大丈夫なんですか? 『許可』はいただいているんです?」
フロルが横からあわてて確認をもとめた。
「いえ、もらっていませんよ」
と、クロワキ氏はゆうゆうと返した。
「ええっ、そんなのよくないことです!
ちゃんと『あの方』の許可を取らないと――」
「フロルちゃん、心配いりませんよ。わたしはマスターエンジニアだ。
多少のことは大目に見てもらえますよ。一部の者をのぞいてですがね」
一行は巨大な正面ゲートをくぐり、
広大なエントランスにある受付カウンターにむかった。
フロルは、クロワキ氏から受付手続きのかわりを頼まれた。
カウンターのむこうには、鳥人やら魚人やらの受付嬢がいて、
数分間の細かいやり取りのあと、フロルにヒモつきのカードを一つ手渡した。
「スズカちゃん。これを首にかけてほしいの」
フロルは、受付から受け取ったカードを、スズカの首にそっとかけてくれた。
そのカードには、『特別招待客』と書かれていた。
『ねえ、フロル。わたし、いいのかな、こんなところに入っても?』
「今は、せっかくの主任のご厚意だし、
大人しくついていくしかないよ。不安だけどね」
その後一行は、エントランスの奥へとむかうと、
通路を曲がったり、階段を上がったりをくり返した。
そして、スズカが気づいた頃には、
何やら長い螺旋通路をびゅんびゅん加速して飛んでいたのだ。
思いもよらぬ迫力に、
スズカは思わず座席横の手すりにすがるようにつかまっていた。
風圧で髪の毛が勢いよくなびいている。
「おや、怖いですか?」
『……ちょっとびっくりしただけ』
やがて、急に視界が開けた。
そこは、巨大な地球儀の内側のような空間だった。
四方を取りかこむ壁にさまざまな情報が映し出され、
多くの不思議な電子音が音楽のように鳴っている。
空間のいたるところにフローターがふわふわと浮いていて、
それぞれに人間や亜人が乗っていた。
みんなかっこいいヘッドセットを身につけ、
モニターを前にだれかと通話しているのが分かる。
縦や横に列を作って浮かぶ機体や、複数で輪を作って浮かんでいる機体もあった。
あちこちひっきりなしに動きまわる機体なんかもある。
「コントロールルームですよ。
オハコビ隊のすべてのフライターの飛行状態と、
飛行ルートを管理しているんです。どうです、幻想的でしょう?」
と、クロワキ氏は誇らしげに言った。
美しいサイバー空間に放り出されたような感覚に、スズカは子どもながら、
「こんな素敵な空間で仕事ができるなら、きっと大人も退屈しない」
と思うほどだった。
「みんな楽しくお仕事していますよ。
本当はモニカちゃんにも会わせたかったんですけどねえ、
彼女はちょっと用事がありまして。
ここに来られたのは、今までのツアー参加者でキミただひとりですよ」
『あの、どうしてサポーターさんたちは、
わざわざこんな空飛ぶ乗り物に乗って、仕事をしているんですか?』
「うーん、竜と心を重ねやすくするため、でしょうかねえ」
『心を重ねる?』
「ええ。ほら、サポーターは竜のように飛べないし、
実際に空を飛んで仕事をしているのは、オハコビ竜たちじゃないですか。
だから、竜と心が離れすぎないように、自分たちも空の浮遊感を感じることで、
竜たちの仕事現場に体を近づけているわけです」
羨ましい……スズカはただそれだけを思った。
サポーターたちの仕事が羨ましい。地上界ではこんなことは考えられない。
スズカにとって、スカイランドのオハコビ隊が途方もない憧れの対象になった。
この光景を、いつまでも目に焼きつけておきたい。




