聖女
二十.[聖女]
「さて。もう良いだろう」タパは言った。「人の集中できる時間などそれほど長くはない。日に十分で良い。早朝静かな時、あるいは寝る前の時間に、これを行いなさい」
「はい」
アオイは目を開いた。リリナネとシュスの姿はいつの間にかなく、そこにはタパと彼だけだった。
「リリナネさんとシュスロー様は?」
「先に終え、アオイ殿の邪魔にならぬよう、静かに立った」
「そうですか……。あの、もうしばらく続けてもいいですか?」どうしても上手くできなかった。呼吸に意識を集中させていても、必ず何かが心に浮かんでくる。
タパは笑みを浮かべ、「うむ」と頷き、静かに部屋を出て行った。
アオイはマアシナの像に向かい、一人瞑目した。『何かが必ず心に浮かんでしまう事に、苛立ってはいけない』伝授の中でタパは言った。『マアシナの像を目に焼き付けておき、何事か浮かんだらすぐさまその像を鮮烈に頭に思い描き、すり替えてやるのも一つの方法。神の姿を思い浮かべることに意味は無い。何かの図案でもよい––』。他にも教えられた様々な方法を、霧中でつかんだロープのように辿りながら、一人瞑目し試みた。しかしどうしても上手くいかない。
徐々に慣れるしかないのか、慣れるものなのか––、あきらめて、立ち上がろうと目を開いたとき、部屋に誰か入ってきた。ふり向くとアヅハナウラだった。彼の姿を見て入り口で立ち止まり。「お邪魔だったかな?」と声をかけた。
「いえ……、もうやめる処です」
「そうか」
アヅハナウラは静かに入ってくると、アオイの隣に敷物を敷き座った。
「アヅ様もされるのですか?」
「うむ。時々だが……」
アオイは邪魔しては悪いと思い、会釈して立ち上がった。しかし、ふと思い直してもう一度座った。
「よろしければ、今、少しお話しできますか?」
「何かな?」
その人のことは皆あまり口にしない。訊けば教えてくれるのだろうが、皆、口にしたくない様子が伺える。雰囲気で分かる。その理由もなんとなく分かる気がしていた。けれど知っておきたい。訊くなら、この人以上の人はいなかった。
「聖女様は、どんな人だったのですか?」
「そうか……君には記憶がないのだったな……」アヅハナウラは微かに笑みを浮かべた。ほんの少し眉を曇らせ。「うむ」と頷き、話してくれた。
「あれには、悪いことをした。私達が過大な期待をかけすぎた。人が重大な自分の運命をあらかじめ知ってしまうことは、とても辛いことだ」
やっぱりそうだったのか……、アオイの予想していた通りだった。神霊に召されて冥界へ入る、自分の前途にそんな運命が待ち受けていたら。聖女マナハナウラの人生は、幸せな人生ではなかったのではないか、そう感じていた。
「幼い頃はとてもおてんばでよく笑う子だった。この廟堂で暮らしていた。気丈で、男の子を口喧嘩で言い負かしたりもした。けれど長じて自身の運命を深く考えるようになると……気鬱の病になり、廟堂の高楼、その最上階に一人閉じこもり、滅多に外出もしなくなった……。無論、人とも会わず……。フィオラパだけと話をし……。フィオラパ達はあの子を慰めに毎晩現れていた……」
そうなんですか……、そう言おうとしたら、かすれて変な声になり言葉が詰まった。
「しかし十七歳を迎える頃になると、悟りきったような表情を見せるようになった。外出もするようになった。いつも物静かで口数少なく……。会う人皆に深い愛情を向け……。自分の望みは一切口にせず……いつも笑みをたやさず、人の爲ばかり思い……。あれは、本当に聖女だった……」
アヅハナウラはしばらく口をつぐんだ。逞しい体が小さく見えた。アオイは黙って先を待った。アヅハナウラは重い口を開きその日の事を話してくれた。
「その日、私達が歩いているとフィオラパが空を埋め尽くし舞い飛んだ。天空高くに光の門が現れ、そこから射した光があの子を包んだ。あの子はすっかり覚悟が決まっていた。私の顔を見上げ、今日まで育ててくれた礼を言い、タパ様やシュス様やリケ様、その人達の名前をあげ、お会い出来ず行きますが、感謝していたとお伝えください、そう言い残し、光の中へ消えた」
アヅハナウラは聖女の残した言葉を一言一句正確に胸に刻みつけているようだった。
「私には、光に包まれたときのあの子の顔が、本当に幸せそうに輝いていたことだけが、心の救いだ……」遠くへ向けられた目に、うっすらと涙が浮かんでいた。愛惜や悔恨の情、それらと入り交じり。
「どうして……」アオイには理不尽に感じられて仕方なかった。「どうしてその人は、冥界へ行かなければならなかったのですか……」口惜しかった。
「決まっていたことだからだ。それは、生まれる前から決まっていた……」
「けど……そんなこと」分からなかった。どうしてその人が犠牲にならなければならなかったのか。彼は若く、憤りを押さえられなかった。普段、そんな感情をみせることは滅多にない彼だが。「俺には分かりません」
「もしも……、あの子が冥界へ行かずに済むのなら、マアシナ様御自身が降りてきて、その子達を授けて下さっただろう。始めからそうなっていたはずだ……。あの子が冥界へ入り、そして神霊として迎えられることは、始めから決まっていたことだ……」
「連れて帰れないのですか……? その子達と一緒に、この世界に……」御子を受け取りに冥界へ入る、その時、その人も一緒にこの世界に連れ帰りたい、そう思った。唇を噛んだ。義憤、神に対する。
「君は若い……。よく考えなさい。それが出来るなら、御子を受け取りに冥界へ入らなければいけない、そんなことも起こらない。それは、人が、人の手で、やらねばならぬ事。あの子が神霊となるのは避けられない定めだったのだ……。全てはあの子の誕生から始まった……」
「そんなこと……」
アオイは奥歯を噛みしめた。下を向いた。彼がそう決意したとしても、何も不思議はなかった。一瞬で心を決めた。
床の板目を睨みつけ。
「もしも俺が冥界に入れたら、その人を連れて帰ります」
アヅハナウラは驚いて顔をあげた。下を睨んでいる彼の顔を見て口を噤み、しかしこう言った。
「よく考えなさい……」
考えなしの行動をしてはいけない、言外にそう言っていた。




