葦原国の剣士12
女性は名をリリナネ(リリ・ナネ)と言った。薄青の着物の上に、純白の道服をはおっていた。アオイがお礼を言うと、目を逸らしたまま返事をした。
「気にするな……」唇が無愛想に動いた。顔が赤いままだった。
もう一人の大男はカタジニ(カタ・ジニ)と名乗った。人より頭一つ高く、胸板厚く腕も足も太かった。顔附きも見るからに頑丈そうで、顎も首も太かった。そのくせ何故かしら女のように色白で、目は線を引いたように細かった。木賊色の着物の上に、黒い外衣を羽織っていた。背中には双頭の龍鳥が紋章風に描かれていた。小鬼族の血で濡れた斬馬刀を手に、笑いながら言った。
「移動呪を使う剣士とは前代未聞だな。さらに、そんな綺麗なつらをした剣士も前代未聞だ」
リュウ少年が飛び出してきた。「リリナネさま、カタジニさま」
「おう、お前はリケ殿の息子だな」カタジニが答えた。
「お戻りになったのですか」
「ああ。タパの廟堂でシュス等と落ち合う予定だ」
「では、シュスさまとアズハナウラさまもお戻りに?」
「いやいや。奴らは何時になるか分らぬ。まあ、それまでタパの廟堂に逗留するつもりだ。イオワニ(イオ・丸迩)は自分の道場へ戻ったぞ」
「先生も戻られたのですね」
その時には、わらわらと町の人が周りに集まっていた。アオイはその中から剣を貸してくれた女性を探し、剣を返し、お礼を言った。それからユタを捜した。
ユタは女の人の後ろに、隠れるように立っていた。うつむき、彼が側に来ても目を合わさなかった。アオイは女性にお礼を言って、ユタを促した。
「行こう」
ユタはうなだれて附いて来た。けれど、ふと戸惑ったように言った。
「どちらへ行くのですか……?」
「うん。……もう一度川が見たくて……」
タパタイラの廟堂へ向かうリリナネ、カタジニ、リュウ少年等と別れ、来た道を戻った。ユタは黙ったまま後ろをついて来た。門をくぐった。
●
空を茜色に染め、低い太陽が水面を照らしていた。聳え立つ壁を背に、階段状の石の護岸を降りて行き、岸辺に座った。足下に水が寄せている。
ユタは隣りに来てしゃがんだ。ずっと、しょげかえり黙ったままだった。
ずっとこの少年に言いたかったことがある。きっとこの少年には必要な言葉。誰かが、この少年のそれになってやらないといけない。
けれど、まずは自分自身の事。
目に焼き附いて離れない。苦しみのた打ち廻る生き物の姿。耳に残る叫び。鮮烈な血の匂い。嗅いだことのない強烈な爬虫類臭。きっと臓器の臭い。手の平に染み付いている。肉をひき裂く感触。あばらを砕く感触。殺さなければ殺されていた。いくらそう言い聞かせても、ふり払えなかった。現に今も、血を浴びた服が嫌な臭い漂わせている。
「なあ……。アイツらはどうして人を襲うんだ?」隣の少年に聞いた。
「悪龍の霊力を浴びて、その目となり、手足となっているのです……」少年は小さな声で答えた。
この質問はこの少年には酷なことだと気づいた。再び黙り込んだ。
彼には記憶がない。
記憶はないが生き物をこの手で殺したのは初めての筈だった。殺したから分かる。生き物を殺すことはどんな理由があれ善ではない。手に染み付いたあの感触。では、悪かと言えば、そんな簡単に割り切って良いものではない気がする。これは善悪などというくくりで受け止められないものだった。殺したからこそ分かること。
だが。彼は自分の手こそ汚さないものの、ずっと生き物を殺し続けていた。そのことに気づいた。色々考えてその事にまで思い至り、どう自分に納得させればいいのか分からなくなっていた。
自分が今ここに生きているということは、その事について明確な答えを持っていたからに違いないが、過去の自分が、その事をどう自分に納得させていたのか、今となっては霧の中だった。
水面を見ながらユタに訊いた。
「犬か猫を飼ったこと、ある……?」
唐突な質問の真意を量りかね、戸惑いながら少年は答えた。弱々しく元気のない声で。
「ありませんけど……?」
アオイは水面を見つめたまま続けた。
「じゃあ、もしも犬を飼っていたとして、その犬が死んだ時どうする? 食べる?」我ながら酷い質問だと思ったが、さほど驚いた様子もなくユタは答えた。
「そんなことはできません……」
「どうして? その犬を食べれば豚を一頭殺さなくて済む。他の命を一つ救えるんだ」
「それでも……、そんなことはできません。そんなことはきっと誰もできないと思います……」
アオイは深く目を伏せた。
「だよな……。どうして人間は、犬や猫は可愛がって殺せないくせに、牛や豚なら平気なんだろう……。牛も豚も、犬や猫と何も違わないと思うけど……。俺が殺しているわけじゃないけれど、俺が食べる爲に誰かが代わりに殺してくれているのだから、もっと悪い……。何言ってるか分からないだろうけど……、どうしてこんな、誰も気にしてないような事を言ってるのか自分でも分からないけど……」
何が言いたいのか、ユタは分ってくれた。小さな声で答えた。
「気にしてない人なんていないよ。みんな……。だから食べ物を食べて、美味しいとか不味いとか言っちゃいけないんだよ……。他の生き物を殺して食べて、この肉は上等だねとか言って喜ぶ人を、神さまは許さないと思うよ。だって、神さまは人間の爲だけにいるんじゃないんだもの……」
「そうか……。そうだな……」不思議な感覚に包まれた。何かが降りてきて、何かが分った。不確かながらも。
俺は、ただ生きているだけで、命を犠牲にしている。だから善いとか悪いとかじゃない。ただ、その言葉どおりの事実を、胸に刻んでいなければならない。
この事実さえ忘れ去り、置き去りにしている人間に、善悪を言う資格はない……。
彼は立ち上がった。隣りを見た。
今度は俺の番だ。払拭してやらないといけない––。
たった一言言ったくらいで、どうにかなる事とは彼も思っていない。が、たとえ今伝わらなくてもかまわないと思っていた。それは、この先行動で示すこと。自分にそれが出来ることを、戦って彼は知った。
「ところで。随分しょぼくれた顔をしてるけど? どうした」
少年は顔をあげなかった。消え入りそうな声で答えた。
「アオイさまは、僕を見て、呆れたでしょ……」
「そんな事ない」
「でも足が竦むなんて格好悪……」
「気にするな」
「慰めないでください……正直に言ってよ……。僕は駄目だって……」
「全然。ちっとも駄目じゃないさ」
ユタはうつむいたまま首をふった。足下の石の上に涙がぽとぽとと落ちた。
「ううん……僕は駄目なんです……。僕はちっとも駄目……。いつも、足が竦んでしまって全然体が動かなくて……。父さんも、母さんも、……妹まで……、なのに仇を討つどころか、……二年間ずっと、毎晩、天国にごめんなさいって……、悔しいのに、悔しくて仕方ないのに」
「もう言うな」流れる水面に目をやったまま、アオイは言った。
「お前はいつも誰かのために一生懸命じゃないか。俺は知ってる。お前がいつも頑張ってることを。お前のその気持ちは、勇気と何ら変わらない」
ユタは顔をあげた。アオイは水面から目を移し、涙をためた少年の目をまっすぐ見た。
「その気持ちは、いつか強い勇気に変わる。お前なら出来る。その時持つ勇気は、お前にしか持てない本物の勇気だ。その時までは、いくら怖くても気にするな。その時までは、代わりに俺が戦ってやる。お前は、俺が護ってやる」
嗚咽でゆがむ唇を一生懸命動かしてユタは言った。
「僕は、ふ、再び、勇気を、持てますか……?」
「当たり前だ。お前はきっと誰よりも強く優しい男になれる。それまでは俺が護ってやる。ついでに髪も洗ってやる」
泣きながら少年は笑った。護岸の石の隙間に生えた菜の花が、風に揺れていた。




