第一話:失格の準備
人間失格
著者:町田由美
第一話:失格の準備
人間失格、と私はまだ書かない。
失格は結果であって、準備の手触りではないからだ。私は準備をしている。毎朝、目を覚ました瞬間から、舌の裏に苦い膜が張る。唾を飲み込むたび、それが剥がれて、また張る。これが一日の始まりだ。呼吸は浅く、胸は鳴らない。鳴らない胸を、私は正しいと思う。
鏡の前で顔を作る。作る、という言い方は嘘だ。整える、でも足りない。削るが一番近い。眉の角度、口角の上げ方、瞼の重さ。人間として摩擦が起きない形に、私は自分を削る。削る音は出ない。だから私は安全だ。音が出ない破壊は、誰にも迷惑をかけない。
それでも指が動く。左の親指が、無意識に口へ向かう。爪の先に歯を立てると、微かな抵抗がある。白い。まだ血は出ない。私はそこで止める。止められる自分を、私は尊敬する。止められない人間は、美談になる。私は美談が嫌いだ。美談は嘘の保管庫だ。
外へ出る。人間がいる。人間の顔が、正しさを被って歩いている。正しさは便利だ。重くない。持ち歩ける。落としても割れない。私は正しさを見分ける訓練をしてきた。正しさが現れる前に、必ず滑らかな言葉が来る。滑らかさは、刃物を隠すのに向いている。
挨拶を交わす。声は計測済みだ。低すぎると疑われ、高すぎると利用される。ちょうどいい高さ。ちょうどいい長さ。ちょうどいい笑い。私はちょうどいい人間だ。だから、誰も私を見ない。見られないことは、自由だ。自由は、責任を伴わない。私は責任を嫌悪する。責任は、後で必ず、意味を要求してくる。
部屋に戻る。机。椅子。キーボード。冷たい。冷たいものは信用できる。温度は感情を連れてくる。私は感情を雇わない。雇うと、賃金を要求するからだ。
画面は白い。白は正直だ。何も言わない。何も約束しない。私は白に向かって座り、呼吸を数える。四つ吸って、六つ吐く。吐く方を長くするのは、逃げる準備だ。逃げ道を確保してから、人は戦える。
書く。
書くという動作が、私を人間に近づけるのではない。逆だ。人間から距離を取るために、私は書く。
言葉は壁になる。壁は、向こう側の匂いを遮る。内臓の匂い、期待の匂い、善意の腐臭。私は匂いに弱い。匂いは、思い出を連れてくる。思い出は、責任を連れてくる。
数行。十数行。速度が上がる。キーボードを叩く音が大きくなる。音が大きいと、私は安心する。音は、存在の証明になる。存在が証明されている間、私は疑われない。疑われない間、人は優しくなる。優しさは麻酔だ。効いている間は痛みがない。切られていることにも気づかない。
左の親指。今度は止めない。歯を立てる。抵抗が崩れる。温かい。血は温かい。私は温度を嫌うはずだった。だが、今は必要だ。温度は、ここにいる証拠になる。画面の白と、血の赤。対比がきれいだ、と思った瞬間、私は気づく。
いまの「きれい」は嘘だ。
嘘は、音を立てない。だから厄介だ。私は椅子から立ち上がる。画面を見つめる。ここまで書いた言葉が、整列している。整列は、軍隊だ。軍隊は目的を持つ。私は目的を持ちたくない。目的は、到達点を用意する。到達点は、評価を連れてくる。
全選択。
削除。
文字が消える。白が戻る。白は何も覚えていない顔をする。私は床に膝をつく。声が出る。声は、言葉にならない。言葉にならない声は、誰にも引用されない。引用されないものだけが、自由だ。
呼吸が乱れる。胸が鳴る。鳴る胸は、嫌いだ。だが今は、嫌いでいい。嫌いだと言える自分が、まだいる。
私は気づく。これが準備だ。失格は、突然やって来ない。毎日の、細かい選択の総和として、静かに到着する。
もう一度、座る。
白を見る。
私は書かない。今日は、ここまでだ。
書かない、という選択が、いちばん正確な文章になる日がある。
今日が、その初日だ。




