最終話 【新しい朝】運命の契約、アンバインド(完結)します
天界が崩壊し、神の「強制徴収」が消え去ってから三ヶ月。
世界は、かつてないほど「騒々しく」なっていた。
「――おい! この建築資材の『納期』、一日遅れてるぞ! 規約違反だ!」
「うるせえ! 昨日の嵐で道が崩れたんだ。不可抗力条項を読み直せッ!」
街のあちこちで、人々がバインダーを片手に議論を戦わせている。
神が決めた「運命」というレールを失った人々は、今、自分たちの意志で、一から「ルール」を作り直していたのだ。
それは不便で、面倒で、……けれど、誰もが「自分の人生」を生きているという実感に満ちた、眩しい光景だった。
そんな賑やかな王都の片隅。
以前と変わらぬ古びた外観の喫茶店『アンバインド』の扉が、カランコロンと涼しげな音を立てて開いた。
「……おはようございます。……ルナ。……コーヒーの準備を」
「はい、ゼノンさん! ――お湯の温度は、今日も完璧な『82度』に設定済みですよ!」
エプロンを締め直したゼノンが、カウンターに入る。
その隣では、銀髪を揺らすルナが、かつての「無機質なオペレーター」とは思えないほど豊かな表情で、楽しそうにカップを並べていた。
「……ゼノンさん。……今日の『退職相談』、一件入っています」
「……ほう。……次はどこの、どなたですか?」
「――やあ、ゼノン殿! ――今日は『冒険者』を引退しに来たよ!」
扉を開け入ってきたのは、かつての勇者、アルフレッドだった。
今の彼は、豪華な鎧を脱ぎ捨て、動きやすい革のジャケットに身を包んでいる。
「……アルフレッド様。……勇者の次は、冒険者も辞めるのですか?」
「ああ。……これからは、カナデと一緒に『魔導インフラの整備会社』を立ち上げることにしたんだ。
……彼女は、数学の天才すぎて、僕が隣にいないと、ご飯を食べるのも忘れるからね。」
「……なるほど。……『勇者』から『介護職』への転職ですね。……受理しましょう」
ゼノンがさらさらと書類を書き上げ、判を押す。
アルフレッドは満足げに笑い、カウンターに置かれたルナのコーヒーを啜った。
「……最高だ。……神様の奇跡より、この一杯の方がずっと『救われる』」
「――フン。……勇者の分際で、随分と安上がりな救済だな」
奥のテーブル席で、新聞を広げていた男が口を開く。
魔王ゼクス。……彼は今、魔王軍を解散し、地上の物流を支配する「ゼクス運送」の会長として、毎日この店に通っていた。
「……ゼクス陛下。……そちらの『退職手続き』はどうなりましたか?」
「……既に完了している。……昨夜、我が娘に『魔王』の称号を押し付けて、私はただの『隠居老人』になった。
……これからは、この店のコーヒーを飲みながら、株式市場を操作して遊ぶつもりだ」
「……相変わらず、たちが悪いですね」
店の中には、いつのまにか馴染みの顔ぶれが揃っていた。
最新の計算機を自慢しに来たカナデ。
「不当な契約」を回収した成果を報告しに来たカイン。
彼らは皆、かつての「役割」からアンバインドされ、自分たちが本当にやりたい「仕事」を見つけていた。
「――やれやれ。……繁盛してるじゃないか、ゼノン」
店の奥から、オーウェン所長が欠伸をしながら現れた。
「……所長。……今日は随分と『早起き(はやおき)』ですね。……『早』いだけに……」
「……ストップです、ゼノンさん! ――それは私の仕事です!」
ルナが慌てて制止し、店内に笑い声が広がる。
ゼノンはふと、窓の外を眺めた。
そこには、空から降った光の粒子を浴びて、力強く芽吹いた新しい並木道が続いていた。
神がいない世界。……奇跡が起きない、不便で、理不尽な世界。
けれど、誰もが「自分という名の契約書」に、誇りを持って署名し、今日を生きている。
「……ルナ。……事務用品の『在庫』は、まだありますか?」
「はい! ――万年筆のインクも、新品のバインダーも、……そしてゼノンさんへの『信頼』も、在庫過多ですよ!」
「…………。……そのギャグ、少しずつ所長に毒されていませんか?」
「えへへ、……そうかもしれません!」
ゼノンは一本のペンを手に取り、真っ白な報告書に最後の一文を刻んだ。
【――本件、世界の退職代行業務。……全工程を終了。
……これより、我々は『新しい契約』の受付を開始する。】
「――さあ、行きましょうか」
ゼノンが立ち上がる。
その胸ポケットのペンは、朝日を浴びて、かつてないほどに力強く輝いていた。
誰かが理不尽な「義務」に縛られた時。
誰かが自分自身の「価値」を見失った時。
彼らはいつでも、その扉を開くだろう。
――退職代行『アンバインド』。
そこには、一人の無愛想な事務屋と、最高の笑顔の秘書が、あなたの「自由」を用意して待っている。
【異世界退職代行】―― 完 ――
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