第9話 【生命の定義】魂の機密保持、アンバインド(存在証明)します
「――消えよ、不純物。汝は我の演算の端数から生まれた、実体のない『虚像』に過ぎぬ」
神の幾何学体から放たれた、絶対的な「否定」の波動。
それは万物を情報へと分解し、世界の理から抹消する初期化の光であった。
光を浴びたルナの指先が、微かに透け始め、電子のノイズとなって散りかける。
「……ルナ!!」
ゼノンが駆け寄ろうとするが、神の重圧がそれを許さない。
『無駄だ。その娘は、汝の深淵から漏れ出した「記憶の残滓」を、我のシステムが誤認して形作ったバグに過ぎない。
魂のない者に、この「真理の空間」に留まる資格はない。……汝の記憶から、彼女のインデックス(索引)を消去する』
「……違う……っ! 私は……私はここに、……いる……!!」
ルナが歯を食いしばり、消えゆく自分の胸を強く押さえる。
そこには、かつて鉄の塊だった頃には感じ得なかった、激しい「鼓動」があった。
『心だと? 嗤わせるな。それは電気信号の揺らぎに過ぎぬ。
汝の「愛」とやらも、生存本能が生み出した計算式の誤差だ。……計算し直せば、跡形もなく消える程度のものだ』
神の論理が、ルナの存在を根底から否定し、上書き(オーバーライト)しようとする。
「――いいえ、神様。……あなたは一つ、重大な『仕様変更』を見落としています」
ルナが顔を上げ、透き通るような、だが力強い瞳で神を見据えた。
「……仕様変更?」
「ええ。……私は確かに、あなたのシステムから生まれたバグかもしれません。
……でも、ゼノンさんが私に触れて、私を『人間』として認めてくれたその瞬間……。
――私のコア・データは、あなたの管理下から『独立』したんです!!」
ルナの全身から、天界の黄金色とは対照的な、柔らかで温かな「蒼い光」が溢れ出した。
「ゼノンさん、私の手を……握っていてください。
……今から、神様のメインサーバーに『直接交渉』に行ってきます!」
「……ルナ、まさか……!?」
「――事務屋の秘書は、ただスケジュールを管理するだけじゃありません。
……主人の行けない場所に飛び込んで、道を切り開くのも仕事ですから!」
ルナがゼノンの手を強く握り返した瞬間、彼女の意識は肉体を離れ、神の本体――『デスティニー・ログ(運命の演算)』の深部へとダイブした。
『――愚かな。我の演算の渦に飛び込めば、汝の情報など一瞬で「端数」として処理されるぞ』
神の冷笑が響く。
ルナの視界は、数千億の数式と、全人類の運命が記された膨大なログで埋め尽くされた。
一歩間違えれば、情報の濁流に呑み込まれ、自我を失う極限状態。
だが、ルナの脳裏には、ゼノンと共に歩んだ日々が、鮮やかな「非論理的」な光景となって浮かんでいた。
(……コーヒーが苦いって、文句を言ったゼノンさんの顔)
(……不器用なギャグに、困ったように笑った所長の背中)
(……あの日、私が初めて『自由』を知った時の、あの空の色!)
「――これらのデータは、あなたのサーバーには保存されてない!
……なぜなら、これは……神様でもコピーできない『唯一無二の著作物』だからッ!!」
ルナが叫びながら、サーバーの「論理障壁」を、自身の想いの強さで突き破った。
『……な……!? 演算が……弾かれる!?
あり得ぬ……! なぜ、たかだか一個体の記憶が、我が全知のロジックに競り勝つというのだ!!』
「それは……私たちが『退職代行』だからですよ、神様!!
……あなたは支配しようとするけど、私たちは『解き放とう』とする!
――解き放たれた魂の演算能力は、管理された魂の数千倍だって……ゼノンさんが教えてくれました!!」
ルナがサーバーの最深部――「世界設定ファイル」に辿り着く。
彼女は迷わず、そこに記された「人類=神の資産」という記述を、
――「人類=自由意志を持つ契約主体」へと書き換えた。
ドォォォォォォォォォォン!!!
天界そのものが、激しい震動に見舞われる。
神の幾何学体がひび割れ、内部からエラーの黒い煙が吹き出した。
「……やった……。……ゼノンさん……私、……書き換え、成功……しました……」
ルナの意識が肉体へと戻る。
倒れそうになる彼女を、ゼノンが力強く抱きとめた。
「……お見事です、ルナ。……あなたは今、世界で最も優秀な『ハッカー(秘書)』になりましたよ」
「……えへへ……。……報酬は、……後で、美味しいケーキ……奢ってくださいね……」
ルナは、もう透けていなかった。
神の否定を撥ね退け、彼女は自らの意志で、この世界に「在る」ことを勝ち取ったのだ。
『……おのれ……。……システムを汚したか……。
ならば、もはや管理など不要。……この空間ごと、すべてを物理的に『圧殺』してくれるわッ!!』
神の姿が巨大な漆黒の塊へと変容し、その質量でゼノンたちを押し潰そうと膨張を始めた。
だが、その膨張が、突然「パキパキ」という凍てつく音と共に停止した。
「――おいおい、……熱くなりすぎて、『冷却』が必要なんじゃないか?」
オーウェン所長が、満面の笑みで指を突き立てる。
「……所長、今度は一体何を……?」
「ゼノン、見ていろ。……これが、神が最も恐れた『絶対零度のジョーク』だ。
――いいか、神よ。……お前が今やろうとしていることは、
――『神』だけに、『紙』一重のミスだぞ!!」
ヒュゥゥゥゥ……。
あまりの「寒さ」に、神の空間そのものが、物理的に凍りつき始めた。
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