May
ドキドキ。
ドキドキ。
私の心臓の音、誰にも聞かれていない?
ドキドキ。
ドキドキ。
馬鹿みたいになっているこの音。
落ち着こう、そう思ってもとまらないこの音。
せっかく30分早く切り上げてきたのに、そう思いながらも、
この胸の高まりをおさめるためにはしょうがないかと、
結局いつもより時間をかけて会社から帰っていた。
家に着いた。
鞄から鍵を取り出して、カギ穴に差し込む。
毎日していること。
でも今日はそんな単純作業でさえ、特別に思える。
ガチャ
「ただいま~。」
言ってすぐに、リビングのドアの向こう、明かりがついた部屋から音がした。
「おかえり。」
靴を脱ぎながら、帰宅した自分に何度も何度もそう返してきた私なのだけれど、
今日は自分に返事しない。
「おかえり倫子。ご飯作ったよ。」
彼がこうして、返事してくれると分かっていたから。
「ありがとう、ただいま。」
私は靴を下駄箱にしまい終わると、彼に抱き着いた。
彼の甘いにおいと、今日の晩御飯のにおいがした。
「お風呂が先でもいいけど。」
彼がくしゃっと私の頭を撫でた。
「ううん、このにおいはカレーでしょ?
早く食べたいな。」
抱きしめられたまま、彼の顔を見あげた。
「分かった。
あ、別にごはんの前に、俺でもいいよ?」
「ばか。」
帰宅して早々、しかも玄関で、
はたから見れば何してんだって話なんだけど、でも楽しくて仕方がないの。
ただいま、おかえり。
ただそれだけのことなのにね。
同棲1日目。
彼と正式に私の家で住むことになった。
あの、彼が帰ってきた日から―――。
「さっき温めておいたから、座ってて。すぐ持っていく。」
彼はキッチンに立つと、カレーが入った鍋をくるくるとかき混ぜ始めた。
「ありがとう。箸はここにあったの使うの?」
「うん、倫子のとこで使ってた箸の方がきれいだから。
でも、今日はカレーだから、スプーンだけどね。」
ばかだなぁという口調で彼は笑った。
「うるさい。」
彼の笑いにつられてしまう。
私は鞄を置こうと寝室に入った。
「あ、倫子。
荷物しまうところ分からなくて、とりあえずそっち置かせてもらってるよ。」
彼の言葉通りクローゼットの前に、
彼の荷物と思わしき段ボールが3個ほど積んであった。
「うん。」
寝室から彼に返事して、明かりもつけないまま、かばんを隅に置くと私は段ボールの一つに触れた。
詰め詰めに入っているのかもこっりと盛り上がっていた。
現実なんだ、これ。
私、直人と同棲するんだ。
今でもまだ彼が家にいることが信じられない。
夢じゃないかって思ってしまう。
それでも、この段ボールが、カレーのにおいが、キッチンから聞こえてくるカチャカチャという食器の音が、
現実だって教えてくれる。
まさか私が同棲することになるなんて。
いつかは誰かと住むようになるのかなとか考えてたけど、いざするとなると……。
「倫子?」
カレーをテーブルに置くついでに、様子を見に来た彼が寝室をのぞいた。
両手に持っているお皿に盛られたカレーの湯気が、彼の顔の前にぷわ~んと揺れる。
「なんでもないよ。
うわあ、カレーおいしそうだね!」
彼はカタンカタンと音を立てながら、テーブルに置いた。
私もそこに座る。
彼はスプーンを取りにいってから、隣に座った。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
手をあわせて、私は彼に軽くお辞儀した。
福神漬け入りの、サラサラでもなくドロドロでもなく、中間のとろみのカレー。
スプーンにごはんとルーを盛って、私は口に運んだ。
「ん~!おいしい。
直人のカレー本当おいしい。」
顔がほころんでいく。
「よかった。」
彼が私の頭をまた撫でた。
触れ合える距離。手を伸ばせば届く距離。
何か聞けば、何か答えが返ってくる。
特別なことなんていらない、単純なこと。
私が一番したかったことが、今、私たちできているんだ―――。
二人の間に、スプーンがお皿をする音だけが続く。
二人とも食いしん坊だから、おしゃべりよりご飯優先。
だから、こうして食べているときは黙りがち。
でもたまに目をあわせて、おいしいねってアイコンタクト。
それだけでおいしさが増す。
「直人の前のお家、売れてて残念だったね。
空いてたら、直人のところの方が広かったのに。」
お茶を飲んで、のどを潤す。
「まあな~、
あそこ人気だって借りたとき言ってたからな、不動産屋さん。
でも別に俺はどこでもいいからさ、倫子と入れればどこでも。」
「はいはい。」
私はまたお茶を飲む。
ばかって言っても割に合わないぐらい、照れくさい、甘い言葉に酔ってしまいそうだったから。
「倫子、照れてるの?」
彼が私の顔をのぞいた。
「うるさい!ほら早く荷物片付けるよ!」
自分の分と彼の分のお皿をキッチンに運ぶ。
「ほんと照れ屋だな。」
笑いながら彼は、コップを持ってきた。
洗い物をはじめた私。
落ちそうになった袖を、彼がめくってくれる。
「…またこっちに勤務になってよかった。」
「うん。」
彼はこちらで勤務することを任されたみたいで、
何かある限り、移動は当分もうないみたい。
「……もし部屋狭かったら、新しく探そうね。」
お皿をすすぐ。
「ばか。さっき言ったこと本気だから、気にすんな。」
私の頭を右手の中指でこつん。
「ごめん。」
「…もういつでも会えるんだよな。」
彼はぎゅっと私を後ろから抱きしめる。
「…うん。」
注ぎ終わった私は、水を止めて腰にまわされた彼の腕にそっと触れた。
食器を洗い終わったというのに、私たちはしばらくそのままでいた。
彼も私の肩に顔をうずめたまま、私も彼の腕に触れたまま。
会えなくて寂しくて辛い毎日――――。
もしかすると私たちは、この日の為に送っていたのかもしれない。
にくいほどに幸せをかみしめるこの瞬間のために。
人知れず私はそう思った。




