プロローグ
闇が、佐賀城の奥深くを支配していた。
深夜の書院。
鈍い光を放つ行灯の向こうで、パチ、と硬質な音が響く。
それは碁石が盤を叩く音。
しかし、そこに通い合う平穏な一手はなかった。
「……また、そなたの勝ちか、又七郎」
低く、地這うような声。
声を絞り出したのは、肥前佐賀藩主・鍋島光茂であった。
その目は血走り、握りしめた白石が指の隙間で軋んでいる。
対峙する側近・龍造寺又七郎は、深く頭を垂れたまま微動だにしない。
実力差は歴然だった。
だが、主君の体面を慮ってわざと負けることを、真面目一徹な又七郎の矜持が許さなかった。
それが、破滅への呼び水とも知らずに。
「畏れながら。碁盤の上においては、身分の上下はございませぬ」
「黙れッ!」
激昂が、静寂を切り裂いた。
光茂は立ち上がりざま、目の前の碁盤を蹴り飛ばした。
白と黒の石が、まるで呪いの雨のように書院の床へ飛び散る。
次の瞬間、室内に鋭い金属音が響いた。
光茂の手には、すでに抜かれた大刀が握られている。
「不届き者が。ワシを愚弄するか!」
「殿、お待ちくだ―」
弁明の言葉は、肉を裂く鈍い音にかき消された。
一閃。又七郎の胸元から、鮮血が夜の闇へと噴き出す。又七郎は驚愕に目を見開いたまま、崩れ落ちた。床に散らばった碁石が、彼の流した赤黒い血に浸かっていく。
「……片付けよ。又七郎は乱心し、自害したと触れ回れ」
光茂は冷酷に言い捨て、懐紙で刀の血を拭った。
同じ頃。佐賀藩の片隅にある龍造寺の屋敷では、一匹の三毛猫が、じっと闇を見つめていた。
名を「たま」という。
又七郎が我が子のように可愛がっていた、美しい三毛の猫である。
たまは、主の帰らぬ夜の冷気を感じ取ったかのように、小さく、哀しげに鳴いた。
それが、肥前の国を揺るがす、血と怨嗟の幕開けであった。




