第15話「静かな距離」
その日の夜。
従業員のフリースペース。
人は、ほとんどいない。
静かすぎる空間。
ラーナは、一人で座っていた。
ノート。
資料。
ペン。
手は動いている。
でも。
(……集中できない)
原因は、分かっている。
さっきの距離が、残っている。
近すぎた、あの一瞬。
(……最悪)
昼のやり取りが、残っている。
あの距離。
(……崩したいって何)
一瞬、思考が止まる。
(……いや別に)
小さく息を吐く。
そのとき。
椅子が、引かれる音。
横。
レオ。
当たり前みたいに座る。
「……」
ラーナは、見ない。
「何」
短く。
「勉強」
当然みたいに返す。
「……ここじゃなくてもいいでしょ」
「ここがいい」
即答。
ラーナが、わずかに眉を寄せる。
「……なんで」
小さく。
レオは、少しだけ考えて。
「集中できるから」
さらっと言う。
(……は?)
意味が分からない。
でも。
そのまま、黙る。
静かな時間が流れる。
ペンの音だけ。
ページをめくる音。
⸻
「そこ」
レオの声。
ラーナの手元。
「違くない?」
顔を上げる。
距離が、近い。
さっきより。
自然に。
ラーナが、少しだけ引く。
でも、離れきらない。
「……合ってる」
「ほんと?」
すぐに返す。
ノートを覗き込む。
左手で、自分のノートを押さえながら。
自然と、距離が近づく。
ラーナが書こうとして――
右手が、止まる。
レオの左手。
自分の右手。
また、近い。
「……」
ラーナの手が、一瞬止まる。
「ほら」
レオが、ペンを持つ。
ラーナのノートに、さらっと書く。
「ここ」
解法の補足。
無駄がない。
分かりやすい。
一瞬。
ラーナが、言葉を失う。
(……何これ)
(分かりやすい)
悔しいくらいに。
理解が速い。
「……」
ラーナが、ゆっくり書き直す。
一瞬だけ迷って。
そのまま、ペンを動かす。
右手のすぐ隣。
レオの左手が、近いまま。
(……避けない)
指先が、かすかに触れそうになる。
レオの視線が、わずかに落ちる。
気づいている。
「……何」
ラーナが、小さく言う。
「別に」
レオが少しだけ笑う。
「ちゃんと書けてるなって」
ラーナは、ノートに視線を落とす。
さっきより、迷わず解けている。
「……ありがと」
小さく。
ほぼ無意識。
レオが、止まる。
(……今の)
予想外。
ラーナが、気づいていない。
普通に、次へ進んでいる。
レオの視線が、わずかに柔らぐ。
さっきまでとは、違う。
「どういたしまして」
いつもより、少しだけ静かに返す。
⸻
しばらく、無言。
並んで、同じ方向を見ている。
距離は近いまま。
でも。
さっきまでとは違う。
張り詰めていない。
落ち着いた空気。
⸻
「……なんで」
ラーナが、ぽつりと。
レオを見る。
「そんなに分かるの」
初めての質問。
一拍。
レオが、少しだけ目を細める。
「見てるから」
短く。
「何を」
すぐに返す。
「全部」
一拍。
「人も」
「流れも」
「思考も」
さらっと言う。
ラーナが、わずかに黙る。
(……やっぱり)
(同じじゃない)
でも。
(……似てる)
そのとき。
「あと」
レオが続ける。
「ラーナのことも」
逃がさない距離で。
ラーナの手が、止まる。
静かな空間。
音が消える。
視線が、ゆっくり上がる。
レオを見る。
レオも、逸らさない。
一瞬の沈黙。
数秒。
ラーナが、先に目を逸らす。
「……仕事の延長でしょ」
低く。
でも。
少しだけ、揺れている。
レオが、ほんの少しだけ笑う。
「どうだろうね」
ぼかす。
でも。
否定しない。
静かな時間が戻る。
でも。
さっきまでとは違う。
距離は変わらないのに。
少しだけ。
温度が上がっている。
ラーナは、気づいている。
(……近い)
でも。
(……嫌じゃない)
むしろ。
少し、落ち着く。
それが、一番問題だった。
レオも、分かっている。
(……引かない)
さっきとは違う意味で。
逃げない。
(……いいね)
静かに笑う。
その夜。
二人は。
初めて。
同じ温度で、隣にいた。




