4. もう一人のソレイユ
ヴェル(本来のソレイユ)視点です。
──突然、火花が散ったように頬が痛んだ。
だが次の瞬間、痛みがスッと消え、床が遠くなった。
気づけば私は天井近くに浮かび、眼下の光景を見下ろしていた。
ロザリア様の前には、頬を押さえて立ち尽くす“私”がいた。
「こんな不味いお茶を持ってくるなんて、どういうつもり!?」
鋭い叱責が部屋に響く。
お茶を用意したのは、確かに私だった。
ロザリア様から「紅茶を用意しなさい」と命じられ、紅茶を淹れ、部屋まで運んだ。そして怒られませんようにと震えながら、カップを置いた。
そこまでは間違いなく、私自身の意思で動いていた。
けれど今、眼下にいる“私”は、私の意思とは関係なく息をし、ロザリア様を見つめている。
手を動かそうとしても動かない。声を出そうとしても喉の感覚すらなかった。
何が起きているのか、まるで理解できなかった。
やがて“私”は他のメイドたちに引きずられるようにして、部屋の外へ連れ出された。
すると私も見えない糸に引かれるように、その後を追って移動した。まるで“私”の頭上に縛りつけられているようだった。
混乱している私とうってかわって、“私”は窓の外に広がる雨模様を静かに見つめていた。そして次の瞬間、ものすごい勢いでキッチンへ駆け出した。驚いたメイドが声をかける。
「ちょっと、ソレイユ!? さっき怒られたばかりなのに、どこへ行くの!?」
すると“私”は、迷いなく答えた。
「ロザリア様のお部屋へ行ってきます!」
そう言って、茶葉とティーセットを手に取り、再びロザリア様の部屋へ向かって走っていく。私は上空から、その一部始終を呆然と見つめていた。
自分の顔が、自分の知らない表情を浮かべている。
自分の口が、自分のとは思えない言葉を話している。
自分の体が、自分の意思とは無関係に動いている。
胸の奥から湧き上がったのは、恐怖と怒りだった。
「わ、私の体よ!」
上空から必死に叫ぶ。
「返して! その体は、私のものよ!!」
だが、その声は誰にも届かなかった。
十八年間、私はソレイユ・フランとして生きてきた。
嬉しいことも、苦しいことも、全てこの体と共に味わってきた。それなのに今は、見ず知らずの誰かが私の体を使っている。
(怖い)
(助けて)
けれど誰も、そこに私がいることすら気づいてくれない。
私は存在しない唇を噛みしめるようにして、“私”を睨み続けた。
一週間が経った。
その間も私は、“私”の頭上を漂いながら、その生活を眺め続けていた。
私の体に入ってきた人間は、ひどく奇妙な人だった。
まず、あのロザリア様の専属侍女になった。
ロザリア様の侍女は二か月も続かないことで有名だった。それほど気性が激しく、使用人への当たりも強いからだ。
ところが“私”は、専属侍女に選ばれたことを心の底から喜んでいた。水をかけられても、平手打ちをされても、何故か嬉しそうに笑っている。
見ているこちらが肝を冷やすような状況でも、“私”はにこにことしてロザリア様の世話を焼き続けた。
意味が分からなかった。頭がおかしいのではないかと何度も思った。
半年が経つ頃には、私はこの奇妙な生活に慣れ始めていた。
体を取り戻したいという気持ちは消えていない。だが、“私”の周りで起きる出来事があまりにも新鮮で、目を離せなくなっていたのも事実だった。
ロザリア様とダミアン様を引き合わせたこと。
カゼッタでは、ロザリア様と楽しそうに酒を飲んだこと。
男装して、ロザリア様のエスコートを務めたこと。
何をするにしても、“私”の行動には一つの想いがあった。
「ロザリア様を幸せにしたい」
ただ、それだけだった。
そんな“私”を見ながら、両親の言葉を思い出していた。
『ヴェルは体が弱いんだから』
『家族なら支えるのが当然だろう?』
私はヴェルを支えることでしか、自分の居場所を作れなかった。
給金を送れば褒められた。我慢すれば良い姉だと言われた。逆らえば家族を見捨てるのかと責められた。
だから誰かを愛することは、耐えることだと思っていた。自分を削り、役目を果たすことだと思っていた。
私は知らなかった。
こんな風に、見返りを求めることなく誰かを愛せることを。
私が体を離れてから、一年が経った頃だった。
その夜、“私”はベッドで静かな寝息を立てていた。
「ロザリアさまぁ……」
寝ぼけた声で名前を呼び、幸せそうに頬を緩めている。
私は思わずくすりと笑った。そのまま窓辺へ視線を移し、夜空に浮かぶ月を眺める。すると不意に声がした。
「姉さん」
驚いて振り返る。
そこには──ヴェルがいた。
私と同じように宙に浮かび、体は向こう側が透けて見えるほど半透明になっていた。
(なぜ、実家にいるヴェルが? それにこの体は……?)
疑問を口にするより先に、彼は寂しそうに笑った。
「僕、死んじゃったみたい」
その言葉を聞いても、思ったほど驚かなかった。
ヴェルは生まれた時から体が弱く、ほとんど屋敷の外へ出たことがなかった。どれほど薬を飲んでも良くなる気配はなかった。
「そう、なのね」
それだけ答えると、ヴェルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「姉さん、ごめん。僕の治療費のために、ずっと……」
「気にしないで。家族でしょう」
いつもと同じ言葉が、すらりと口から出た。
するとヴェルは寂しそうに笑った。見ているだけで胸が痛むような、静かな笑みだった。
家族のために支えるのは当然。
それは両親から何度も聞かされ、私自身も信じ込もうとしてきた言葉だった。私が心からそう思っているわけではないと、ヴェルには分かっていたのかもしれない。
居心地の悪さを隠すように、私は話題を変えた。
「今の貴方の体は、屋敷にいるの?」
「うん。眠っていたら、急に息が苦しくなって、そのまま。まだ誰も気づいていないけど」
ヴェルは力なく微笑んだ。
「死後の世界へ行く前に、せめて姉さんに会いたいと思ったんだ。でも……」
そう言いながら、ベッドで眠る“私”へ視線を向ける。目の前の状況が理解できず困惑しているのだろう。
私は、一年前に自分の身に起きたことを話した。
そして、この一年間で“私”がしてきたことも。
ヴェルは“私”の突拍子もない言動に驚き、呆れ、やがて声を上げて笑った。こんな風に弟とゆっくり話したのは初めてだった。
病気のことも、お金のことも、両親のことも考えずに、ただ二人で一つの話をして笑う。
それが、不思議なくらい心地よかった。
一通り話し終えると、ヴェルは楽しそうに“私”を見下ろした。
「ずいぶん変な人が、姉さんの体に来たんだね」
「まったくよ」
そう返すと、ヴェルはまた小さく笑った。
けれど、やがてその笑みは消えた。
「もっと姉さんと、こんな風に話せばよかった」
ぽつりと呟く。
「もっと色々なところへ行きたかった」
その声に胸の奥が締めつけられた。
ヴェルは、優しい子だった。
仕送りを求める両親の言葉には何度も傷つけられた。それでも私は、ヴェル自身を嫌いになることだけはできなかった。
きっとヴェルも、自由ではなかったのだ。
過保護な両親に守られ、屋敷の外をほとんど知らないまま、病人として生きることを求められていた。病気の体を守るためには、それが正しかったのかもしれない。
だが外の世界を知らないまま、あの屋敷で静かに死を待つような日々を送ることが、ヴェルにとって本当に幸せだったのだろうか。
私は拳を握りしめた。
「ねえ、ヴェル」
「何?」
「私が……貴方の体で生きるのはどう?」
ヴェルは驚いたように私を見つめた。
「貴方が見られなかったものを、私が見るの。貴方が行けなかった場所へ、私が行く」
「それは……姉さんが、僕の体に入るってこと?」
「ええ。できるかどうかは分からないけれど」
「でも、そうしたら姉さんの体は……」
ヴェルはそこで言葉を切った。何を言いたいのかは分かった。
私はベッドで眠る“私”を見下ろした。
もちろん、自分の体に未練がないわけではない。十八年間を共に生きてきた、たった一つの体だ。
けれど、私はこの一年間を見てきた。
この人がどれほど他者のために行動し、どれほど懸命に生きてきたのかを。
「いいの」
自分が思うより、穏やかな声が出た。
「この人になら、託してもいい」
私が答えると、ヴェルはしばらく視線を揺らした。
やがて迷いを振り切るように、まっすぐ私を見つめた。
「うん」
そして、泣きそうな顔で笑った。
「僕の分まで、生きて」
その言葉とともに、ヴェルの体がさらに透き通っていく。
別れが近いのだと分かって、私は何かを言おうとした。けれど──言葉が見つからなかった。
ヴェルは消える直前、目を細めて言った。
「ありがとう、姉さん」
その姿が完全に消える。私は、ヴェルがいた場所を見つめたまま動けなかった。
そこには細い光の糸が残されていた。淡く輝きながら、窓の外へと続いている。
これまで私はどれほど強く願っても、自分の体から遠く離れることができなかった。
けれど──今は違う。
光の糸は窓の外へ伸び、遠い場所へと続いていた。
ヴェルが私を受け入れてくれたからだろうか。あの光を辿れば、彼の体へ行ける。
理由は分からないが、なぜか確信できた。
窓の外を見る。
遠い空はわずかに白み始め、夜が明けようとしていた。
時間はあまり残されていない。
両親や使用人がヴェルの体を見れば、すぐに死んでいることに気づくだろう。その前に辿り着かなければならない。
最後にもう一度、ベッドで眠る“私”を見下ろす。
「この体を、お願いね」
返事はない。
それでも“私”は、ロザリア様の名を小さく呟きながら、幸せそうに眠っていた。
私は光の糸へ手を伸ばす。
そしてその導きを辿るように、故郷の屋敷へと飛んでいった。
お読みいただき、ありがとうございます。
本日8月3日、『推しの悪女の侍女になりました 〜断罪フラグ? 推し愛で全てへし折ります〜』
第1巻が発売されました!
こうして発売日を迎えられたのも、応援してくださった皆様のおかげです。
本当にありがとうございます!
美しいロザリアとかわいいソレイユが印象的な表紙をはじめ、
WEB版からの加筆や書き下ろしエピソード、9枚もある挿絵なども、
ぜひ楽しんでいただけたらと思います。
書籍の詳細は、下のリンクからご覧いただけます。
ぜひお手に取っていただけたら嬉しいです!




