350 Start Cold_War(3)
■新たな対立構造の成立
第二次世界大戦が終わったが、世界に平和が訪れた訳ではなかった。
ナチス・ドイツは崩壊したが、新たな対立と国際関係は戦争が終わった次の瞬間から始まっていた。
ごく簡単に言えば、アメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦ロシアを中心とする共産主義陣営の対立だ。
そして当初の対立の焦点となったのが、戦争が終わったばかりのヨーロッパだった。
ヨーロッパではアメリカは支援と援助で西ヨーロッパに自陣営を作り上げ、ソ連は半ば強引に東ヨーロッパ各地に共産主義政権を作り上げていった。
この時ソ連は、極めて強引かつ強権的に、それぞれ定めた国境にそれぞれの民族を大移動させた。
この事はあまり知られていないが、殆ど数年で1000年来の懸案だった国境と民族に関する問題のほとんどを解決した、極めて強引ながら共産主義的合理性の発露と言える政策だった。
恐らくこの当時の時勢とソ連、そして独裁者スターリンの組み合わせがなければ実現は不可能だっただろう。
これ以後日本では、アメリカを中心とする自由主義陣営を「西側」と呼び、ソビエト連邦ロシアを中心とする共産主義陣営を「東側」と呼ぶようになる。
東西の名称は、ヨーロッパでの地理的な対立構造が呼び名の発端となっている。
そして対立激化に伴う1949年に西側のNATO(北大西洋条約機構)と東側のコメコン(経済相互援助会議)の成立によって、東西対立構造の基本が出来上がる。
一方、東アジアは不安定さを増していた。
第二次世界大戦が終わったとき、東アジア地域の独立国は日本帝国、中華民国、タイ王国、極東共和国、モンゴル人民共和国、そして満州国しかなかった。
東南アジア地域のほとんどが西ヨーロッパ諸国の植民地のままで、朝鮮半島も日本の保護国だった。
満州国も、国際的に完全に承認されたとは言い切れない状況だった。
そして五大戦勝国で国連常任理事国となった日本が、東アジア地域の「警察官」としての役割を果たすのが筋なのだが、アメリカは日本をあまり信用していなかった。
加えてアメリカは、依然として中華市場への進出に熱心で、市場開放された満州でも日本との経済摩擦をさっそく引き起こしていた。
また中華民国は、大戦前の戦争(日支戦争)の影響で日本を敵視し、アメリカの庇護を求める向きが強かった。
日本とソ連の対立も、第二次世界大戦が過ぎるにつれて再燃しつつあった。
しかもソ連は、日本が本格的に自分の側になびきそうにないと分かると、中華民国への干渉を強めた。
中華共産党に、中華地域を支配させるためだ。
さらにソ連は、満州を含めた日本との国境線の軍備を増強し、東アジア各地の共産主義シンパへの支援も大幅に増やした。
日本の動きを抑えて、中華地域もしくは北東アジア各地に共産主義国を作り出すのが目的だった。
東南アジア地域も完全に平穏ではなかった。
第二次世界大戦で宗主国が一度ドイツの占領下となったインドシナ、インドネシアでは独立運動が起きていた。
特にインドシナのベトナム地域では、共産主義勢力が拡大していた。
しかし西ヨーロッパ諸国は、自らの植民地に他国が介入することを拒絶し、日本どころかアメリカすら干渉できなかった。
そして日本自身は、とりあえず朝鮮半島の独立を進めていたが、うまくはいっていなかった。
主な理由は、日本は欧米標準の植民地政策を朝鮮半島で実施していたため、保護国としての現地自治政府に独立準備をさせていたからだ。
そして現地政府とは、15世紀に成立した中世的国家のなれの果てで、現状のままではとても近代国家を作る事が不可能だった。
このため日本政府が本腰を入れて指導を始めたが、現地政府の無理解と強い抵抗で進まなかった。
朝鮮半島から日本が求められるのは、特権意識だけが高い世襲官僚達の懐に入るだけで殆どが消えてしまう各種の援助だけだった。
朝鮮半島の取りあえずの独立は1948年に実施され、形式だけ近代的な立憲君主国家にしたが、実態は「近代」にはほど遠かった。
あまりにも貧しいため、国内に多数ある日本が作った社会資本の買い取りも十分にはできず、独立当初から日本に対して莫大な借金をしての船出となった。
その上この借金も、当初は踏み倒す気でいたもので、日本が国際法を説いても聞かず、軍隊を少し動かすことでようやく話が付くという状態だった。
しかも独立後も、問題が多発した。
国内の底辺には共産主義が浸透するようになっていた。
日本の保護国時代は極力排除されていたのが、腐敗官僚だけになった事で、一気に民衆の不満が噴き出した形だった。
そして朝鮮半島の急速な共産化は、ソ連が日本に打ち込んだ共産主義の楔であり当面は日本を自陣営に引き込むための脅しでもあった。
このため朝鮮半島は、独立後実質的な内乱状態に苦しみ続ける事になる。
そして冷戦構造が始まってから、ヨーロッパに次いで注目された中華情勢だが、諸外国が呆気にとられるほど素早く状況が推移した。
当初、中華共産党は弱小勢力だとしか見られていなかった。
実際戦った日本も存在を軽視していた。
そして中華民国政府は、ナチス・ドイツとも関係を結んだファシズム体制を持つ政権のため、アメリカを始め諸外国は当初半ば放置していた。
全体主義が進む可能性はあるが、少なくとも共産化する事はないだろうと見ていたからだ。
このため諸外国は、戦争終了で余った武器を中華民国に売却して、戦災復興の足しにしていたほどだった。
だが事実上の内戦は、1944年には再開されていた。
そして一旦は中華民国が全土を掌握し、ちょうどその頃に世界大戦も終わったので、全てにケリがついたと見られていた。
しかし華北部は日本との戦争中に共産党の支配が進み、その後も農村部を中心にして共産党の支配が及んでいた。
そこに国民党が乗り込んで、都市部と鉄道を支配する。
図式としては、日本軍と中華民国(国民党軍)が入れ替わっただけだった。
しかも中華民国は、日本ほど住民慰撫をしなかった。
支配して当然だと考えていたからだ。
しかも敵である共産党の支配に甘んじていたのだから、敵だとすら考えられ過酷な支配が実施された。
このため民意は共産党のままで、都市を支配した国民党軍は、都市で孤立した。
その事に、紫禁城に残されていた宝物を検分していた蒋介石は、全く気付いていなかった。
(※紫禁城は、日支戦争で満州軍と言うより張作霖らに大規模に掠奪されている。)
しかも共産党は、ソ連から豊富な支援を受けるようになり、蒙古や東トルキスタンで軍隊の編成と訓練を行った。
ソ連の動きを追っていた日本が、満州での警戒態勢をほとんど戦時状態にまで高めたのと対照的に、国民党は共産党討伐ももうすぐ終わると考えていた。
実際、共産党の本拠地だった延安も一度は陥落させている。
実際は共産党が現地を引き払っただけなのだが、国民党は理解していなかった。
そして内乱は反転攻勢の形になり、中華民国(国民党)政府は1947年夏に首都に戻っていた北京を追い出されて南へと落ち延びた。
その後も中華民国軍は、共産党軍に負け続けた。
各地の軍閥も、次々に共産党に鞍替えして、形勢が一気に共産党有利に傾いていった。
慌てたアメリカと日本が国民党への支援を開始したが、既に遅すぎた。
それに国民党側の軍隊の士気が低すぎて、武器や物資を与えてもそのまま共産党に寝返るような情景が一般的に見られた。
暴政ばかりを行った国民党側には、民意も無かった。
この間日本は満州国の国境を閉ざし、スパイだけでなく流民が流れてくる事も阻止した。
流民の中に共産党勢力が紛れ込んでいることを強く警戒したからだ。
この行動は、後追いながらアメリカも支持した。
日本の行動はいちいち気に入らないが、中華中央の市場を失おうとしているのに、さらに満州市場を完全に失う可能性を増やすことも出来なかったからだ。
1948年には、国民党はほぼ中華国内から駆逐され、蒋介石と政府中枢も南部の海南島へと落ち延びた。
そしてこの時点で日本にも災いが降りかかってくる。
中華民国政府が満州、台湾の「返還」を求め、それを国際社会、特にアメリカにも訴えたのだ。
海南島はそれなりの規模の島だったが、当時は近代化や島の開発が遅れていた。
何より大陸との距離がわずか20キロメートルほどで、大陸からの安全性が低かった。
共産党に海軍は無かったが、無数の手漕ぎ舟で攻め寄せられたら、防ぎようが無かった。
そして自由主義陣営としては、安易に共産主義国家を認めることも出来ない。
そこを蒋介石が突いてきた形だった。
だが、かといって自分たちが一度は独立を認めた満州国を国民党に明け渡すことは、様々な点で難しかった。
台湾は国際法上で日本領だったので、こちらは論外だった。
満州国を国民党に明け渡す場合、まず満州国の正当性を否定する事になる。
次に、中華民国が自らによる吸収を求めている。
当然ながら、満州国皇帝の存在は認めていなかった。
それに、せっかくまともな国家建設を進めている満州だが、全体主義傾向が極めて強い国民党がまともな国家を作る可能性は低いと見られていた。
それに国民党に満州を明け渡した場合、ソ連と共産党中華に包囲されて攻め滅ぼされる可能性が高いとも考えられていた。
そして何より、日本が認めるはず無かった。
また満州は、日本に加えてアメリカにとっても得難い市場だった。
それを強欲な事が既に知れ渡っている国民党に渡すことは、自分たちの利益を大きく損ねると考えられた。
ここでアメリカは、日本との本格的な交渉に入った。
日本が完全に自由主義陣営としての立場を鮮明として、北東アジアで共産主義との対決姿勢をとるなら、アメリカは日本に対する最恵国待遇、自由貿易協定、さらに進んで二国間の安全保障条約の締結など日本にとって大きな利益のある、アメリカとの親密な関係を結ぶというものだ。
これでアメリカは、北東アジアでの安定を手に入れる事ができるし、日本は念願の外交関係を手に入れることができる。
そして満州は、日米の共通の利益として残し、中華民国は切り捨てられることが決まった。
そして表だって日本、アメリカが取った行動は、まずは国民党の亡命援助だった。
既に台湾に亡命者をかなり受け入れている日本は、人道的見知から枠の拡大を行うという方向で、アメリカは単純に共産主義陣営からの救助とした。
そして1950年には、北東アジア情勢の不安定化を受けて、日本とアメリカとの間に「日米安全保障条約」が締結される事になる。
その後蒋介石は、日本とアメリカへの激しい恨み節を唱えつつも結局アメリカに亡命した。
だが、国民党の一部が日本の台湾や満州へと亡命したことが、新たな対立構造の中での新たな戦いの狼煙を上げることになる。
そして中華中央部での共産主義勢力の勝利は、東西冷戦構造の中で宙ぶらりん状態の日本帝国を、否応なく西側に向かわせることになる。
しかしそれは、新たな時代の到来を予感させる第三世界の盟主という座が見えてきている中での選択肢であり、日本帝国に重大な決断を迫るものでもあった。
かくして、新たな時代が始まっていく。
(※海上の濃い青色は日本の経済水域。)




