36 - 夜会の準備
朝目を覚まして、今自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
いつもの天井とは違う、と思い――私の脳裏に浮かんだ“いつもの天井”が数か月前まで暮らしていたマンションの一室のものではなく、“こちらの世界”の温かみ溢れる木の天井に変わっていたことに気が付く。
ここはエヴァ伯爵のお屋敷の一室だ。昨日精霊ゲッコラの件が決着を見た後、ディネルカには戻らず用意してもらった客室で眠りについたのだった。
ゆっくりと体を起こす。のろのろと窓際まで近づきカーテンに手をかければ、太陽はすっかり高い位置にあった。
ずいぶんと寝過ごしてしまったようだが、それも無理はないだろう。昨日はいろんな意味で“盛り沢山”だったから――。
しばらく日の光を全身に浴びていたらだんだんと意識が覚醒してくる。仕上げにぐ、と大きく背伸びをして、私は用意されていた着替えに手を伸ばした。
そうしていつも以上に時間をかけて身支度を終えた後、エヴァ伯爵に会いに行ったのだが。
「今日、夜会に出てもらうから」
「え!?」
顔を合わせるなり朝の挨拶もなしに突然告げられた言葉に、私は大きな声を上げてしまった。
「あら、この前言ったじゃない。だからナーシャにマナーのレッスンをつけてもらったでしょ」
驚く私に目もくれず、エヴァ伯爵は優雅に紅茶を口にする。
確かに思い出してみればそんな話だった気がする。しかしナーシャ様と私を引き合わせたのは、彼女を屋敷から追い出すための“作戦”ではなかったのか。まさか夜会は本当に存在していたなんて正直予想外だった。しかも、今日!
「あの、でも、そんなしっかりとしたレッスンはまだ……」
「あの子も一応は伯爵家に連なる家系の出だから、最低限のマナーは身についているはずよ。その上あなたに良い感情を持っていなかった。そんな彼女が問題はないと判断したのだから、大丈夫よ」
どうにか逃げるための口実を探す私と、全く取り合ってくれないエヴァ伯爵。それでもなお「やっぱり……」と逃げ腰の私に伯爵は肩を竦め、手に持っていたカップをソーサーの上に音もたてず置いた。
礼節は弁えている方だと思うけれど、夜会となると話は別だ。当然今まで出席したことはないし、そもそも他に誰が出席するのか――
躊躇う私の手をエヴァ伯爵の美しい手が掴んだ。かと思うと、
「まずはドレスを選びましょう」
瞬間、世界が回る。数歩その場で足踏みして、ふらついた体を立て直す。そして顔を上げると、目の前には色とりどりのドレスと興奮した様子で頬を赤らめている数名のメイド。
――どうやら衣裳部屋にまじないで瞬間移動したらしい。
状況を把握したときにはメイドたちに囲まれて、私は着せ替え人形になっていた。
「絶対にこちらのドレスの方が素敵です! チカ様のお肌の色が映えます!」
「あらそう? 紺も素敵だと思うけれど……」
「いえ、こちらの赤の方が……!」
次から次へとドレスを着ては脱いで、また別のドレスを押し付けられる。私には口を挟む暇も余裕もなく、ただ言われるがままにドレスを着て、あれこれ意見し合うエヴァ伯爵とメイドたちの話を遠くに聞いていた。
メイドたちの一押しは背中が大きく開いた大胆なワインレッドのドレスだった。一方でエヴァ伯爵は繊細なデザインの紺のドレスを押しているようで、なかなか意見がまとまらない。
話し合いの最中、ふと伯爵が斜め後ろに視線を投げた。しかしそこには誰もいないし、何もない。一体なにかと首を傾げると、
「埒が明かないわね。セルジュ!」
エヴァ伯爵が視線は斜め後ろのまま、パン、と小さく手を叩いた。
――セルジュ。
伯爵の口から出てきた名前に、私は思わず隠れる場所はないかとあたりを見渡した。しかし周りにあるのは華やかなドレスだけで、隠れられるような都合のいい壁や箱は存在しない。
――正直、昨日の今日で彼とどんな顔をして会えばいいのか分からない。
散々醜態をさらした。人前であんなに情けなく泣いて、心の内を全て打ち明けたのは初めてだった。
その初めての相手がどうしてセルジュだったのか。その答えはもう分かっていたけれど――言葉にしてしまえば最後、今でさえ顔を合わせづらいのに、しばらく彼から逃げ回ることになってしまいそうだ。
隠れることは叶わず、かといって堂々と迎え入れることもできず、私は一人その場であたふたしていた。そんな私の様子を知ってか知らずか、セルジュは何もなかった空間に一瞬で現れて、
「急に呼び出してなんの用、だ……」
私を視界に捉えるなり、夕焼け色の瞳を大きく見開いた。
今の自分の姿を思い出して慌てて彼に背を向ける。背中がぱっくり開いたワインレッドのドレスではなく、まだ露出が控えめな紺色のドレスだったのが救いだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
しかしそんな私を許さないというようにエヴァ伯爵が背後に立ち、私の両肩を掴んだ。そしてドレスごと私をセルジュに“見せびらかす”。
「あなた、どのドレスが好き?」
肩を掴んでいたエヴァ伯爵の指先が私の胸元を叩いた。その瞬間、着ていたドレスの色が紺色から黄色へと変わる。――違う、色が変わったのではなく、別のドレスに着替えさせられたのだ。
着替えまでできるなんてまじないはつくづく便利だと実感する一方で、自分の意志とは関係なく、セルジュの目の前で次から次へとドレスを着せられる状況が落ち着かない。彼の顔を見ないように俯いていたが、そのせいで猶更向けられる視線を意識してしまい、耳が熱を持つのを感じた。
「そ、そんなじろじろ見ないでください」
注がれる視線に耐えきれずぽつりとこぼす。そうすればセルジュは小さく咳払いをした。
「露出が多すぎじゃないか?」
「あら、あなた、案外むっつりなの?」
「彼女はまだ成人前だろう!」
どんな顔でセルジュはそう叫んだのだろう。呆れていたのか、焦っていたのか、それとも――。
耳元でエヴァ伯爵はため息をついた。
「こっちじゃ十五にもなれば立派なレディよ。でもそうね、肌の露出が少ない方がかえって色気があるかも」
ふとエヴァ伯爵の指が、気配が離れていく。私は今すぐにこの場から逃げてしまいたかったがそうもいかず、かといってセルジュの顔色を窺う勇気もなく、ただその場で俯くばかりだった。
――私のドレス姿を見て、セルジュはどう思っただろう。少しでも似合っていると思ってくれただろうか。子どもが着飾ってと呆れただろうか。
「そうだわ、あのドレスはどう? レジアス侯爵のお誕生日パーティーで私が着たレースの……」
「お持ちします!」
エヴァ伯爵が提案する。するとすぐさまメイドの一人が反応して衣裳部屋の奥へとかけていった。
「あら、見ていかないの?」
「これ以上俺がここにいても邪魔なだけだろう」
依然俯いたままだったが、聞こえてくる会話からしてセルジュはこの場から去るようだ。
ほっと体の力を抜いて、私は少しだけ視線を上げた。そうすればおそらく扉の方へと大股で歩くセルジュの足元が見える。
「あなたのタキシードも適当に出しておくから、着てくるのよ」
「あぁ」
タキシードを着るということは、彼も夜会に出席するのだろうか。きっと似合うだろうなと想像し、私の意志とは関係なく勝手に頬が赤らむ。それを叱咤するように頬をぺちぺちと叩いて、扉が閉まる音が聞こえるまで、私は俯いたままでいた。




