35 - 夕焼け色の瞳
精霊ゲッコラに認められたことで無事使えるようになったまじないで、私たちはエヴァ伯爵家に一瞬で戻ってきた。伯爵に今日は疲れたでしょうと屋敷内の客室に案内され、豪勢なベッドに腰かける。瞬間、強い眠気が襲ってきた。
森の中を歩き回っていたせいで服は汚れてしまっているだろう。寝る前にせめて着替えようと慌てて立ち上がった。そして用意されていた柔らかな素材の寝間着に手を伸ばし――ガチャリ、とノックもなしに開いた扉にぎょっとその場で飛び上がる。
扉を開けたのはセルジュだった。
「あのまま死ぬつもりだっただろう」
挨拶もなしに、セルジュは問いかけてきた。彼の訪問は想定外だったため、最初こそ驚いたもののすぐに心臓は落ち着きを取り戻していく。
しかし真っすぐすぎる問いかけにどう答えていいのか分からず、時間を稼ぐためにも彼の突然の訪問を咎める。
「セルジュ。勝手に部屋に入るのは感心しませんよ」
「話を聞いたら出ていく。だから答えてくれ」
セルジュは後ろ手に扉を閉め、ずんずんと大股でこちらまで近寄ってきた。逃がしてなるものかと強い光をたたえる夕焼け色の瞳から逃れられず、私は寝間着を手に持ったままその場から動けなかった。
見つめ合うこと数秒。セルジュは耳触りの良い嘘に騙されてくれるような相手ではないと知っている私は、隠さず白状することに決めた。
「……私のせいでまじないが使えないなら、私がいなくなることで、今まで通りの暮らしができるなら……そうするしかないと思っただけです」
夕焼け色の瞳がカッと見開かれる。その瞳の奥に揺れていたのは激しい怒りと、悲しみだった。
「他にいくらでも方法はあった! まじないが使えなくても生きていける! 最悪この町を捨てて新たな土地を目指せば……!」
「住む場所が変わることがどれだけ負担になるか、私は身をもって知っています! ずっとこの町で暮らしてきたであろう方々に、この町を捨てろだなんて……私は言えません!」
口喧嘩をするつもりはなかったのに、思わず強い口調で言い返していた。
この世界に来てから三か月弱、戸惑いの連続だった。エヴァ伯爵には感謝しているけれど、自分と同じ苦しみをディネルカの町の人々に強いることは私にはできそうもなかった。
言い返されるとは思っていなかったのか、セルジュは一瞬怯んだ。しかし煩わしそうに髪をかき上げると、今度はその顔に苦痛の色を滲ませる。
「自分の胸に銀のナイフを突き立てようとしたとき、君はほんの少し……笑ったんだぞ!」
それは悲痛な叫びだった。
笑った自覚はない。セルジュの見間違いではないかと責めることは簡単だった。けれど、彼が初めて見る表情を――今にも泣きそうな表情をしていたものだから、私は言葉を失った。
「そのときの俺の気持ちが分かるか! 死んでもいいなんて、二度と考えるな!」
喉を枯らしてセルジュは叫ぶ。
――こんなに声を荒げる彼を、激しい感情に我を忘れる彼を、初めて見た。それだけ心配をかけてしまったのだと驚きと共に反省する一方で、同時にあなたも私の気持ちを分からないだろう、と腹の底からせり上がってくる感情があった。
「あなたにとっても、私は邪魔者なのではないですか?」
「……は?」
一度こぼれてしまうと駄目だった。
壊れた蛇口から水がとめどなく流れ出るように、私の口から言葉が溢れていく。
「逃げ出した父のかわりに、あなたが祖父を支えてくださった。あなたは祖父の跡を継ぎたかったのではありませんか? 領主になりたかったのでは? それなのに、血の繋がりだけで異世界人である私が連れてこられて……きょ、教育係なんて、面倒ごとを押し付けられて……」
息が上がる。心臓がバクバクとうるさい。もっと冷静に、しっかりと顔を見て話したかったのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
初めて出会ったときからそうだ。セルジュを前にするとペースが乱されて、うまくいかない。
「だから俺と目を合わせようとしなかったのか」
感情を失ったような無機質な声が鼓膜を揺らした。
セルジュの顔が見られない。私は俯いたまま、何の反応も返せなかった。
「いつ俺が、領主になりたかったと言った」
「それは……でも、祖父と一緒にずっとこの町に住んでいたあなたは、私より領主に相応しい――」
「それは君の感覚からしたら、だろう。俺の意志はどこにもない」
はぁ、とセルジュは大きなため息をついた。
――呆れられた。
私はますます顔が上げられなくなる。視界が涙で滲んで、必死に堪えようと眉間に力を入れた。
旋毛のあたりに注がれていた視線が外れたのを感じる。あぁ、もう今までのようにはいられないかもしれない、とますます視界が歪んで、それから――ふわり、と気配が近づいた気がした。
あ、と思ったときには全身がぬくもりに包まれていて、私は硬い壁に頭突きをしていた。――違う、私が頭突きしたのは壁じゃない。だって、私は部屋の真ん中に立っていたのだから。頭突きできるはずがない。これは――セルジュの胸板だ。
「君が頑固で意地っ張りなことを、すっかり忘れていた。最近は……ひどく穏やかな顔で笑いかけてくれるようになっていたから」
すぐ耳元で落とされた声は、先ほどまでとは打って変わって、優しさに満ちたものだった。
「俺は確かにあの町が好きだ。だがアマンドさんの跡を継ぎたいなんて思ったことは一度もない」
ぽん、ぽん、とまるで小さな子どもを寝かしつけるような手つきでセルジュが私の背を叩く。
「考えてもみろ。貴族社会の柵が嫌で逃げ出した俺が、今更領主なんて立場になりたいと思うか?」
言われてみればそうかもしれない。けれど、勝手に判断することは私にはできなかった。
だいぶ落ち着きを取り戻した私は、ずび、と鼻をすすりつつ答える。
「……分かりません。貴族の方の考えなんて」
かわいくない物言いになってしまい、セルジュが耳の横で苦笑した。
ふ、とぬくもりが離れていく。しかし背中に回った腕はそのまま、セルジュは先ほどよりは体を離して私の顔を覗き込んできた。
「俺がエヴァ・ダリ伯爵に教育係として頼まれたのはただ一つ。『頼られたときには邪険に扱うな』。それだけだ」
セルジュの指先が私の前髪を整えてくれる。赤くなっているであろう目元を見られるのは恥ずかしかったが、向けられる夕焼け色の瞳から目を逸らすことはできなかった。
目を逸らしては勿体ない、と思ってしまったのだ。あまりに優しく、穏やかな色をしていたから。
「一日中傍にいろと言われたわけじゃない。勉強の手伝いをしろなんて命令はない。あの魔女に屋敷を掃除しろと指図されたら、にべもなく断るだろう」
優しい声。包み込んでくれるぬくもり。
「教育係だから君の傍にいたんじゃない。君の傍にいて、君の力になりたいと思ったから……今もこうして、ここにいる」
そう笑ってくれたセルジュの笑顔はよく見えなかった。――涙ですっかり滲んでしまったから。
「案外君は泣き虫だな」
セルジュは喉を鳴らして笑う。無骨な指先が優しく涙を拭ってくれる。けれど涙はとめどなく溢れて、私の頬もセルジュの右手も水浸しにしてしまった。
「こ、怖かった」
「あぁ」
「私のせいで、私がいなければ、全部がうまく回るんだと思ったら、足元がふわふわして」
「……あぁ」
自分でも見て見ぬふりをして、気づかないようにしていた恐怖が今更溢れてくる。自分の犠牲の上に大切な人たちの幸せが築かれると分かっていても、やはり恐ろしかった。彼らの幸せの中に混じることができないことが悔しくて、寂しくて、悲しかった。
「ナイフで胸を刺したらどれぐらい痛いのかな、死んだらお父さんやお母さんに会えるかなって、いろいろ、考えて」
「よく頑張ったな」
セルジュの腕に力がこもる。かと思うとそのまま強く抱きしめられて、私はとうとう声を上げて泣いた。
抱きしめてもらっている間に何を言ったか、正直覚えていない。めちゃくちゃなこと、意味不明なことを感情のままに口にしてしまったと思う。けれどセルジュは私の言葉一つ一つに細かく頷いて、頭も背中も優しく撫でてくれた。
――そうしてようやく落ち着いた頃、私はセルジュから与えられるすべてのものにすっかりリラックスしてしまって、いなくなったはずの眠気の再来を自覚した。
「一人で抱えてしまえるその強さは君の長所かもしれないが、一人で泣くのはやめてくれ。傍にいるのは俺じゃなくてもいい。ただ、誰かの傍で泣いてくれ」
体から力が抜けていく。夢うつつにセルジュの言葉に頷けば、ぎゅう、と更に強く抱きしめられた。
あたたかい。小さい頃はよくこうして両親に抱きしめてもらった。安心できるぬくもり。すべてを委ねられる相手。
「おやすみ、チカ」
耳元で囁かれた言葉を最後に、私の意識は睡魔に飲み込まれた。




