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31 - 銀のナイフ



 セルジュに連れられて、エヴァ・ダリ伯爵の屋敷を訪れた。しかし屋敷に伯爵の姿はなく、メイドの案内でガラス張りの壁から町を一望できる部屋へ通される。この世界に初めて来たとき、自分の出生について教えてもらった部屋だ。

 目の前に置かれた紅茶の香りが分からない。乾いた喉を潤したいのに、胸も喉もぎゅっと締め付けられるような息苦しさに、手がカップへ伸びない。



「どうやら全国的な話ではなく、まじないが使えないのはこの町一帯の話らしい」


「ど、どうして……」



 セルジュはいつもより乱れた髪をかき上げる。そしてガラス張りの壁に寄りかかると、眼下に広がる森を見つめた。



「森に棲む精霊が臍を曲げた可能性があるようだ。今魔女が説得に向かってる」


「精霊が……?」



 まじないが使えない話に突然精霊の単語が出てきた理由を、私は瞬時に理解できなかった。なんの関係があるのかと数秒考え込んで、ようやく思い出す。



(まじないは、精霊の力を借りている)



 それはセルジュの声だった。私がこちらの世界に来てすぐ、彼が教えてくれたまじないの“成り立ち”。

 鼓膜の奥で、セルジュの声は続ける。



(精霊はうんざりするぐらい潔癖で、自分のテリトリーを侵されることに敏感でな。本来この世界にはない異物……異世界の気配を嫌う)



 それは確か、この世界の技術革新について触れたときのことだった。セルジュはそれ以上深く語ることをせず、だから私が異世界の出身であることもあけすけに話さない方がいい、と忠告で話を結んだのだが――

 精霊は、異世界の気配を嫌う。

 途端に顔から血の気が引く。今回の緊急事態を引き起こした原因に気づいてしまった。

 異世界の気配――それはつまり、私自身のことではないのだろうか。



「わ、私のせい……?」


「チカ」



 咎めるように鋭い声でセルジュが私を呼んだ。それ以上言うな、と制止されたように感じたが、それでも私の口は止まらない。



「異世界人の私を嫌って、精霊がこんなことを?」


「違う!」


「だって、そうでしょう。今までこんなことは一度もなかったってペルナさんが言ってました! 最近この町に現れた変化といえば、私だけです」



 声を荒げて真正面からセルジュに食って掛かる。セルジュは歯がゆそうに下唇を噛みしめたが、それ以上反論してくることはなかった。――私のせいだということを、彼は否定できなかったのだ。

 ショックだった。この町で暮らしたいと、ここでなら今まで取りこぼしてきたものも大切に抱えて、前を向いて生きていけると思ったのに、結局“異分子”としてはねられてしまうのか。しかしそれ以上に、自分のせいで町の人々に迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

 だから精霊が望むのなら、“異分子”は“異分子”らしく跳ね除けられようと思ったのだ。



「どうすればいいですか。この町から去ればいい? この世界からいなくなればいい?」



 早口で捲し立てる私の肩をセルジュが強く掴んだ。そしてもう片方の手で顎を掴まれ、半ば強引に視線を合わせられる。

 夕焼け色の瞳は揺れていた。



「落ち着け、チカ。まじないが使えなくてもすぐに生活がひっ迫されるわけじゃない。食料の貯蓄は十分だし、いくらでもやりようはある」


「……朝食も作れないのに?」


「それはまじないが使えないことにペルナが動揺したからだ。普段できることができなければ、誰だって驚くだろう」


「でも、だからってこのままじゃ……魔物だって、いるのに」



 セルジュの言葉は真実かもしれない。一日二日、まじないが使えなくても困ることはないのかもしれない。でも、それが一週間続いたら? 一か月、一年続いたら――いくらエヴァ伯爵が森の主を手懐けた土地といえど、いつかは限界が来るに違いない。国内最東の地に最新技術を今すぐ持ち込むことは困難だろうし、やはり“原因”を取り除くのが一番分かりやすく手っ取り早いのだ。だから――

 分かっている。今この場でセルジュに何を言うべきか。どう説得するべきか。分かっているのに、口が開かない。恐れているのだ。ようやく手に入れた安らげる場所を手放すことを――



「だめね、へそを曲げて出て来やしない」



 突然第三者の声が割って入った。声の方を振り返れば、いつもの優雅な笑みはどこへやら、眉間に深い皺を刻んでいるエヴァ伯爵と目があった。

 咄嗟に視線を逸らす。なんて声をかければいいのか分からず、ただ俯いて、エヴァ伯爵がどのような決断を下すのか待った。



「セルジュ、あなた、ナナのおかげで少しならまじないが使えるわね?」


「最低限だが」



 ちりん。涼やかな音色に顔を上げる。すると思いのほかエヴァ伯爵が近くに立っていて、赤の瞳が私を至近距離で貫いた。



「護衛ぐらいにはなるでしょう。チカ、あなたが森に行きなさい」


「え!?」



 思いもしなかった“命令”にたじろぐ。ここから出ていきなさい、と言われる覚悟は固めていたけれど、まさか精霊に会いに行けと言われるとは考えもしなかった。

 動揺する私の手をエヴァ伯爵がとった。すらりと美しい手は、その見た目とは反してとても強い力で私の手を握る。その力強さに、広大な領地を守り治める伯爵の強さを垣間見た気がした。



「森に行って、直接精霊にあなたの存在を認めてもらうの。そうすれば全て元通りよ」



 全て、元通り。

 その言葉に自然とエヴァ伯爵の手を握り返していた。するとそれを感じ取ったのか、伯爵は険しかった表情をいくらか緩めて、私を鼓舞するようにぎゅっと一度、更に強く私の手を握った。

 ――セルジュの過去が未だ気がかりだ。私が領主になることで、彼から大切なものや未来を奪うようなことはしたくない。だからいっそ、私がこの町から去ることで精霊が機嫌を直してくれるのならそれでもいいと思っていた。

 けれどそんな結末、セルジュからしてみてもすっきりしないだろう。だから領主の座に誰が座るのかはどうであれ、この事態は収めなくてはならない。そのために私が精霊に認められる必要があるのなら、目標に向かって努力するだけだ。

 幸い私は目標が定まると強いタイプだ。がむしゃらに努力し、時間をつぎ込むことも惜しくはない――

 腹を決めた私とは対照的に、セルジュの表情は未だ晴れていなかった。



「いくらなんでも危険だ。せめて伯爵がいた方が……」


「私がチカをここに連れてきたってばれてる。裏切者に顔を見せる気はないそうよ」



 エヴァ伯爵は肩を竦める。まるで聞き分けのない子どもを前に呆れる母親のような仕草に、先ほどまでの緊張感が一気に緩んだ気がした。

 一つ深呼吸。そして尚も言い募るセルジュの腕にそっと触れ、彼とエヴァ伯爵の間に入った。



「分かりました。私、精霊に会いに行きます」



 私が出した答えに満足そうに頷くエヴァ伯爵。一方でセルジュは納得がいかないようで口を開きかけたが、言葉が見つからなかったのかふいと顔を逸らした。



「寝床は森深くにある湧き水の近く。けれどそこに必ずいる保証はないわ」



 頷けば、伯爵がふと持っていた鞄の中を漁った。少しして目当ての物を探り当てたようで、彼女は「これを」と“それ”をこちらに差し出してきた。

 “それ”――鞘まで銀で出来た、立派なナイフを。



「これは……」


「護身用の銀のナイフよ。邪悪なものを払ってくれるわ」



 伯爵から受け取った銀のナイフはずっしりと重く、私の心に影を落とした。これを使うような局面が訪れませんように――そう祈らずにはいられなかった。



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