第二五三話:世にも恐ろしい、はじめての——
しばらくして、集落に向かった数騎と供にタリオンが帰ってきた。
「……やっぱり、駄目だったよ」
「そうか……」
騎士のひとりが、タリオンの肩を慰めるように叩く。
後で聞いた話によると、派遣された騎士全員が、ちび――子供たちの埋葬を手伝ってくれたらしい。
「そんでもって、この集落も、もうおしまいだ。僕らふたりだけじゃ、とても運用できたもんじゃない」
攻め手側の人間の目的は、当初この集落の炭鉱であったが、抵抗が想定以上であったため、殲滅に舵を切ったらしい。
そのための砲撃であり、そして魔王軍が強攻策にでざるをえなくなった要因でもあったのだから、皮肉なものである。
結果として、人間側は攻め手側も守り手側も壊滅。
魔王軍の損害は、ほぼ軽微だっというが……。
「戦略的には失敗。大失敗といってもいいわね……」
集落の方向へ黙祷してから、悔しそうに先の陛下はそう評価した。
元々は集落で働いている俺たち魔族の保護が最優先目的であったらしい。
炭鉱の占拠は二の次であり、むしろ領土が拡大するのは好ましくないっと考えていたというのだから、驚きである。
「さて……君たちはどうする? わたし達と一緒に来てもいいし、辺境になるけど、戦いがほとんどない土地で暮らすのもいいと思うわ」
俺とタリオンは、一瞬顔を見合わせた。
「マリウス、僕は魔王軍に仕官しようと思う。君はどうする?」
「僕は……」
未だに被っていた底が焦げ付いた鍋を脱ぎながら、俺は少し考える。
何もないが安寧な暮らしか、あるいは――。
「うわ……」
野営を挟みつつ、馬に乗って北に向かうこと、数日。
何もないと思っていた荒野の果てに、山の陰が見えた。
それは影絵のように見えたが、近づくにつれその様子が少しずつ鮮明になっていく。
そしてそれがはっきりと見えた時に、俺は思わず声を上げてしまったというわけだ。
山のほぼ頂上に、城が建っていたのである。
魔王城。
俺が治めた魔王城の原型となった城である。
当時は箱状の本城を中心に、いくつもの城壁が張り巡らされており、それは大元の山という地形も相まって、自然と魔族の手が加わった、二重の意味での要塞となっていた。
「すごいな、街が階段状になっている!」
馬から降りて最初の城壁をくぐった後、隣で歩くタリオンが歓声を上げた。
そう、大通りは坂道であったものの、その脇は階段になっており、民家とおぼしき箱状の建物が段々で建っていたのである。
「もともとは魔族だか人間だかわからないけど、放置されていた廃城でね、それをわたし達が改修したの。やっとここまで大きくなった感じ――かな?」
先の陛下が、そう説明してくれた。
「そしてここから先が、本城です!」
聞けば山の頂上を囲むように建っていた古城を改修し、中央部分を削り取って城に置換したらしい。
当時の俺からすると、どうやったのかさっぱりわからない代物だった。
当時の魔王城は二階建ての巨大な建物で、一階が城としての政庁と軍司令部を兼ねており、二階が魔王を中心とする高級幹部生活の場となっていた。
驚くべきことに、そのほとんどが共用で、個人で所有しているのは、寝室と個人用の書斎のみであるという。
「さて、まず君らは――」
「……あ。臣は先に確認したいことがありますので、また後ほど」
タリオンが、真っ先に逃げた。
「ん、じゃあマリウスくん」
がっしと俺の襟をつかんで、先の陛下は不敵な笑みを浮かべる。
「まずは予告通り、お風呂に入ろうか」
それはいいのですが、なぜ俺の襟をつかむのですか、陛下。
脳裏に言葉が浮かんだが、口にはできなかった。
恐るべき膂力で、そのまま引きずられていったからである。
「なんだこれ……」
湯船の前の広大な洗い場で、全裸の俺は呆然と突っ立っていた。
風呂なんぞ、生まれてこの方入ったことがない。
せいぜいぎりぎり雑巾になる前の布で、身体を拭く程度が関の山だった。
それが、これである。
平らな石を、それも均等な大きさに切り出されたそれを敷き詰めた洗い場の奥には、住んでいた小屋どころか、集落の最も大きかった酒場よりもなお広い湯船が鎮座している。
その背景には、巨大な山の絵が描かれていた。
後で先の陛下に聞いたのだが、それは廃城になっていた魔王城最初の姿であるらしい。
確かによくみると、王冠を被った山のようである。
そして今俺が立つ洗い場には、壁に相対する形で均等に桶と手ぬぐいと背もたれのない低い椅子が並べられており、その壁からは噴水のように湯が等間隔で流れ落ちていた。
「どう、すごいでしょ」
「すごいというか、初めてみるので圧倒されま――うわあ!?」
先の陛下が、当然のように立っていた。
慌てて手近な桶に入っていた手ぬぐいで、身体の前を隠す。
対する陛下は、胸と腰だけを覆う――。
「し、下着姿はどうかと思うのですが!」
「やだなぁ、これは湯浴みの時に着る専用の服よ。それとも、脱いでほしい?」
「そんなことないです!」
同じ魔族の異性、それも子供でないその身体なんて、みたことがなかった。
故に、俺にとっては刺激が強すぎるのである。
「それじゃ、ここの使い方ね。壁のくぼみに白くて柔らかい石があるでしょ? それが石鹸。――知ってるよね?」
「みたことはあります!」
先の陛下の身体が、できるだけ視界に入らないように苦労しながら、俺。
使ったことは、当然ながらない。
「じゃあ石鹸の使い方からね。まずはこの手ぬぐいをお湯の噴水にあてて、その後石鹸でこするのそうすれば泡がでるから――」
「でるから?」
「身体を、洗います!」
「ちょ! ま! 陛下、できます、それくらいなら、僕ひとりでもできますから、陛下ぁ!」
「だめよ! その様子じゃお風呂そのものがはじめてでしょ! 徹底的に洗うわ!」
「せめて他の方を!」
「残念、今はわたしとキミだけの、貸し切りです!」
「なぜえええええ!?」
今ようやく、わかった。
タリオンは事態をここまで読んで、逃げたのだ。
「ふぅ……」
全身を徹底的に洗われ、湯船で陛下と一緒に浸かったあと、ようやく俺は解放してもらえた。
古いぼろの服は処分してもらい、支給してもらった新しい服を着る。
どうも、騎士の従者が着る平服であるらしい。
脱衣場でそれを着込み、併設されている歓談室に出ると――。
「お、似合っているじゃない」
すでに平服に身を包んでいた陛下が、座っていた長椅子から立ち上がっていた。
「ん、んん!?」
俺は軽く混乱する。
最初に戦場で出会ったときからいまの湯船まで、陛下は肩あたりで切りそろえた金髪であったはずだ。
それは今は、瞳と同じ緋色の、豊かで長い髪をしていたのである。
「ああ、これ?」
血よりもなお紅い髪を手でかき上げながら、先の陛下。
「戦いの時とか、お風呂の時とかは面倒だから本来の髪にしているの。でも普段は威厳とかいうのが必要だからね。魔法でこうしているわけ」
そういって、陛下は指を鳴らせてみせた。
すると前触れもなく、元の金髪に戻る。
そして指をもう一回鳴らすと、緋色の髪に変化した。
「ま、魔法?」
「そう。それこそが、わたしたち魔族が人間から嫌われる、長命と双璧をなすもうひとつの要素」
指先に小さな火を灯して俺に見せながら、先の陛下は言葉を続ける。
「もちろん君にも使えるようになるわよ、マリウスくん?」
「なるほど、恐ろしい拷問だったんですね。マリウスさん」
「拷問ではない。拷問ではないが……(改めて悶絶している)」




