第7章 夜明けの門(後編)
ルルはカウンターの端の瓶の蓋を開けて、細い指を赤蕪の汁の中へ入れた。
「あら、卵が一つ多いわ」
指が、瓶の底を探った。一つ、二つと卵をよけて、いちばん底の一つをつまみ上げた。赤い汁が、白いカフスに一滴だけ落ちた。
ルルはそれを、カウンターの上に置いた。
鶉の卵ほどの大きさの、紅玉だった。赤蕪の汁に一晩漬かって、表面が少しだけ曇っていた。俺はそれを布で拭った。拭うと、朝の光の中で、深い赤が戻った。指に載せると、温かかった。人肌くらいに。一晩、冷たい汁の中にいたくせに。
夜啼きの涙。
俺はそれを、カウンターの内側に置いた。代わりに、金庫から出した革の袋を、カウンターの上に置いた。金貨が四十枚入っている。この店を十年やって、俺が貯めた金の、だいたい半分だ。
ルルは袋の口を開けて、中を覗いた。覗いて、閉じた。数えなかった。
「多すぎるわ」
「石の値段としては、安すぎますよ」
「あら。じゃあ、ちょうどいいのかしら」
ルルは袋の口紐を、蝶の形に結んだ。この娘は、何でも蝶の形に結ぶ。エプロンの紐も、髪のリボンも、客の忘れ物の包みも。
それから、ルルは白いカフスを片方外して、カウンターの上に置いた。もう片方は、手首に巻いたままだった。
「これ、返すわ。制服だから」
「もう片方は」
「あら? 片方は、あたしが持っていくの。おそろいにしたい人がいるから」
俺はカフスを取って、たたんで、金庫に入れた。
ルルは袋を胴着の内側にしまって、階段の下の壁ぎわへ歩いていった。ザザの前にしゃがんだ。石取りの盤を挟むときの、俺と同じ高さになった。
「ザザ。ありがと」
ザザは箒を抱いたまま、瞬きをした。瞼が下から上へ閉じた。
「私は何もしていない」とザザは言った。「訊かれたことを言っただけだ。訊かれなかったことは、言わなかった」
「それが、ありがとうなの」
ザザは、もう一度瞬きをした。それから、少しだけ首を傾けて、ルルの胴着の、袋をしまったあたりを見た。
「温かいものは、もう持っていないな」
「ええ。もう持ってないわ」
ルルは立ち上がって、ザザの肩の鱗を、指の先でそっと叩いた。ザザは何も言わなかった。
ルルはカウンターの端から離れて、壊れた扉のところまで歩いていった。扉の前で、振り返った。
「マスター」
「なんです」
「元気でね」
白い耳が、朝の光に透けていた。
「あなたも」と俺は言った。
ルルは、壊れた扉をすり抜けて、広場へ出ていった。白い耳が、朝の人波の上を、北門のほうへ遠ざかっていった。跳ねるみたいな足取りだった。俺は、今度は見送った。耳が角を曲がって見えなくなるまで、見ていた。
大聖堂の鐘が、七つ半を一つだけ鳴らした。
俺は、紅玉を瓶の中に戻した。赤蕪の汁の中で、十三個目の卵みたいに沈んだ。瓶の蓋を閉めて、いつもの場所に置いた。
*
昼の鐘が鳴ると、俺は表の扉に札を下げた。
『氷を買いに出ています』
北の氷室は、北門のすぐ内側にある。北門の門番は、昼の交代の前で、あくびをしていた。俺の顔は知っている。十年、この街で酒を出していれば、門番の半分は客だ。
*
夕方六つの鐘の少し前に、俺は店に戻った。
氷は背負っていなかった。
表の扉の札を外して、中に入った。ダリオはもういなかった。床に、麦酒の空き樽が一つ転がっていた。ザザが箒を抱えて、階段の下の壁ぎわにしゃがんでいた。
靴紐に、赤い棘草の実がいくつも絡んでいた。俺はカウンターの内側で靴を脱いで、実を一つずつ外して、暖炉にくべた。棘草の実は、ぱちぱちと小さくはぜて燃えた。
上着の内側から、細い短剣を出した。鞘から抜いて、布で丁寧に拭った。刃の根もとまで。柄に巻いた紐の、黒ずんだところまで。拭い終わると、刃をランプにかざして、もう一度見た。それから鞘に納めて、カウンターの下の奥の、元の場所に戻した。拭った布は、暖炉にくべた。
上着の懐から、革の袋を出した。
口紐が、蝶の形に結んであった。今朝、このカウンターの上で結ばれた形のままだった。重さも、今朝と同じだった。
俺はそれをほどかずに、棚の奥の金庫に戻した。片方だけのカフスの横に。
階段の下の壁ぎわで、ザザが俺の足もとを見ていた。蜥蜴人は、人を足で覚える。
ザザは何も言わなかった。訊かれていなかったからだ。
夕方六つの鐘が鳴った。北門が閉まる鐘だ。俺は、それを数えなかった。
その夜は、店を開けなかった。
壊れた扉の内側に卓を一つ立てかけて、風よけにした。ランプを一つだけ灯して、カウンターを拭いた。端のほう、ルルがいつも頬杖をついていたあたりは、木目が少しだけ擦り減って、色が薄くなっていた。三年分の頬杖の跡だった。俺はそこを、ほかの場所と同じように拭いた。
ザザが、階段の下で石取りの盤を出していた。俺はランプを持って、盤の前に座った。
黒と白の石を、交互に置いた。名前のない石を。ザザは今夜も、何の意味もなさそうな隅に、石を一つだけ置いた。俺はそれを放っておいた。三十手あとに、俺の陣地は、いつものように真ん中から割れた。
「あんたの負けだ」とザザは言った。
「ええ」と俺は言った。石を片づけながら、盤の上の、囲まれた白い石を数えた。十三あった。
*
翌朝、トマスが来た。
隊の外套ではなく、洗いざらしの上着を着ていた。非番なのだろう。壊れた扉はまだ直っていなかったので、トマスは扉の隙間から体を横にして入ってきた。
「酒場番さん。給金、出たっす」
トマスは銅貨を二枚、カウンターに置いた。
「卵、一個」
「どうぞ」
俺は瓶の蓋を開けて、赤蕪の汁から卵を一つつまみ上げた。底のほうの一つはよけた。トマスはそれを受け取って、一口で半分かじった。
「酸っぱっ」とトマスは言った。「……でも、うまいっす」
「ありがとうございます」
トマスは残りの半分を口に放り込んで、指を舐めた。それから、ふと思い出したように言った。
「そういや、聞きました? 北街道の話」
「いいえ」
「三つ目の一里塚の先で、今朝、隊商が亡骸を見つけたっす。二つ。灰色の狼と、白い耳の娘。棘草の中で、並んで倒れてたって。二人とも、喉を細い刃で一突き。財布も荷も、何もなかったそうっす」
トマスは、もう一つ卵が欲しそうな顔で、瓶を見た。見ながら、指についた赤蕪の汁を上着の裾で拭いた。洗いざらしの上着に、赤い筋が一本ついた。
「野盗っすかね。北街道は、冬が近いと出るって言いますし」
「物騒ですね」と俺は言った。
「娘のほうの耳、本物だったそうっす。兎人だったんすね」トマスは首をかしげた。「兎人が城壁の中にいたなんて、誰も知らなかったって、隊長が」
トマスは、しばらく黙って、カウンターの端の、いつもルルが頬杖をついていた場所を見ていた。見て、何か言いかけて、やめた。
「……卵、もう一ついかがです」と俺は言った。
「あ、いや。給金、大事にしないと」トマスは頭をかいた。「また来るっす」
トマスは扉の隙間から、体を横にして出ていった。
酒場には、俺と、階段の下の壁ぎわのザザだけが残った。ザザは箒を抱いて、俺の靴を見ていた。
俺は瓶の蓋を開けて、赤い卵を一つつまみ上げた。底のほうの一つはよけた。
一口で食った。酸っぱかった。
悪くない朝だ。




