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1回、白球の記憶

カキィーン。

 甲高い金属音が、雲一つない青空の下を駆けて耳まで届く。俺はわずらわしさに顔をしかめながら、足早に校門へと歩く。


 ズパアァァァン。

 続いて、ミットが立てる銃声みたいに乾いた破裂音。わずらわしさを通り越して嫌悪感を覚えた俺の足は、自然とその速度を上げてゆく。


 ベキッ。

 足元に転がっていた夏の残骸、死んだセミ。意図せず踏み砕いてしまったそれを、さらに怒りに任せて靴底でぐりぐりとすり潰す。イライラする。どうしようもなく。


 校門を抜けると、次第にグラウンドの熱気が遠ざかってゆく。少しだけ呼吸がしやすくなった。

 下宿先に帰るため、慣れない都会の喧騒の中をゆく。寮を追い出されたのはわずか一ヶ月前の話なのに、もうはるか昔のことのように感じる。高校の最寄駅へと続く道の途中でいつも通る交差点。行きかう車をぼうっと眺めていると、思考はいつのまにか白球の記憶を辿っている。


 誰も踏みならしていないまっさらなマウンド。

18.44メートル先のキャッチャーミット。

構えられたバットと、打者のぎらついた双眸。

まるで弾丸のように指先から発射される白球。

空を切るバット。ミットの中の白球。雄叫び。


忌まわしき光景が未練の形をして身体にまとわりついてくる。ひどく熱い。忘れたいのに、骨の髄まで染み込んだ青春の音が、汗の匂いが、白が、そう簡単に消えてくれるはずもなかった。

 女々しい自分への怒りに我を忘れ、無我夢中で脚を前へ運ぶ。駅に着いたら、売店で寮生活中には禁止されていたコーラでも買って飲もう。それから家に帰ったら、同じく禁止されていたケータイで思う存分アプリゲーでもやってやろう。バイトも始めたことだし、最近ハマっているサッカーゲームに少しぐらい課金したってバチは当たるまい。


 キキィ、という摩擦音が耳をつんざく。たぶん車が急停車する音だ。それも大きいやつ。視線を上げると赤色の歩行者信号。激しい衝撃と痛みの後、視界が左へとスライドしていく。誰かの悲鳴。ピヨピヨという青信号の呑気な鳴き声。駆け寄ってくる足音。

 ああ、やっちまった。

 コンクリートの上に頭から叩きつけられた俺は、流れ出した血の池の真ん中、後悔の念に襲われながら静かに意識を手放した……


/


「おい。おい起きんか、小僧。早く起きろ! さっさと起きないと耳元でQueenの『Ⅾon`t Stop Me Now』歌うぞ」

 なんだそれ、嫌すぎる。レクイエムにしては少々ハジケすぎだろう。俺はしかたなく目を開ける。病院にありがちな白い天井、ではない。ないが、真っ白だ。起き上がって周りをぐるりと見渡すと、まるで雲の中にいるような白い景色が、果てしなく広がっている。まぁ、病院じゃなかった時点でここがどんな空間かはだいたい想像がつく。

「どこを見ている。こっちじゃ小僧」

 不意に目の前から声が聞こえた。顔を正面に戻すと、さっきまで何もなかったはずの場所にみすぼらしいジャージ姿のオッサンが立っている。どうやら先ほどの声の主らしい。それが証拠に、左右にステップを踏みながら小声で「ハヴィナグッターイム、ハヴィナグッターイム」と口ずさんでいる。

 いや、なんだこいつ。

「こいつとは失礼な。我は神であるぞ」

 俺の心を読んだように、オッサンは言った。

「神、だと? ……あんたが?」

神という存在そのものより、格好のほうに疑問が湧く。こいつが神? マジで? このボロボロのジャージ着た小太りのオッサンが?

「ちょっとそろそろ黙れ小僧。その気になれば、我はお前のことなどいつでも殺せるのじゃぞ」

「え、あ、すんません」

 反射でとりあえず謝ってから、気付く。

「あの、俺もう死んだんじゃ?」

「まぁギリギリアウト寄りのセーフってとこじゃ。具体的には、意識不明の重体じゃな」

「じゃあ、ここはまだ天国じゃないのか」

「逆にそんなおめでたい場所に見えるのか? どこに天女がおる? 天使は? おるのはジャージ姿の小汚いオッサンだけではないか……誰が小汚いオッサンだ小僧!」

 ……俺はツッコミを放棄した。そんなことより、今は知りたいことが多すぎる。

「ここはどこだ? 意識不明の重体なら、俺は何でこんなところにいる? あんたの目的はなんだ? 早く説明してくれ」

「ここ異世界の入口。お前異世界転移する。異世界で野球しろ」

「すみません、やっぱりゆっくり説明してください」

 自称神は俺のお願いにハァと大げさなため息を吐いた。ため息を吐きたいのはこっちだ。何がなんだか、わけがわからない。

「まず、言った通りここは異世界への入口。そしてお前にはこれから異世界転移してもらいたい。聞いたことあるじゃろ? 異世界転移。なんか今流行っとるらしいし」

「ええと、一応」

「本来ならお前はさっきの事故で死んでおったんじゃ。そこをまぁ我が神の権限で? ちょっと無理やり延命させたみたいな? あ、これオフレコでよろしく頼むぞ。他の神に聞かれたらヤベェから。神って人間が思っているほど、なんでもやっていい万能な感じじゃないからのう」

「はあ。延命してくれたのはありがたいから黙っとくのはいいんすけど、なんでわざわざ」

「さて。ここからは交渉じゃ」


 突然、神のまとう雰囲気が変わった。

「これからお前に転移してもらうのは、我が管轄する世界の中の一国。そこではお前が元いた世界と同様に様々なスポーツが発展しておるんじゃが……野球だけが存在しない国なのじゃ」

「え」

「そこでお前には野球という概念を持ち込んで、発展させ、国技にしてもらいたい。それができたら神の力を思いっきり悪用して生き返らせてやろう。期限はそうじゃな、半年以内で。それ以上はダレるし飽きるからのう。ああ、心配せずとも用具一式はいくらでも我が用意して、」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 俺の制止に神は「なんだよもう」と口を尖らす。一見陽気なオッサンが、一見気さくなハイテンションで、めちゃくちゃな要求をしてきている。その不自然さになぜか背筋が粟だった。

 しかもたぶん、これは交渉ですらない。

「断ったら、どうなる」

「言っただろう。その気になれば、我はお前のことなどいつでも殺せる、と」

 神の顔から表情が消えた。が、次の瞬間には元通りの無邪気な笑みをたたえている。その子どもじみた純粋さがかえって恐怖を増幅させる。

 俺はこれから異世界に転移して、野球という概念のない国で一から野球を発展させ、半年以内に国技にしなければならない。できなければ死ぬ。選択肢などはなから存在しないじゃないか。

 しかも。

「どうして野球なのか、か? そんなこと、お前が知る必要はない。別に我の個人的な目的のためとかそんなことは決してない。決してな。カミ、ウソツカナイ」

 そう言って神は鼻の頭をポリポリと掻いた。

まただ。この男は俺の心を読んでいる。やはり神だ。疑いようもない。それにしてもこの俺にまた野球をやらせようとは……元々大して信心深いわけでもなかったが、本物の神は想像していたよりもずっと冷酷で、無慈悲で、優しさの「や」の字も持ち合わせていなかったらしい。

「と、いうわけで! 楽しみにしておるからのう。バイビー」

 神が指パッチンをすると、三半規管を手掴みで直接シェイクされているかのような、強烈な吐き気に襲われる。真っ白な視界がぐにゃりと曲がり、右も左もわからないほどのめまいが数十秒ほど続いた後、俺の身体は何か固い場所に放り出される。


「ってぇ……」

 目を開けると、俺は芝生の上に転がっていた。都会の喧騒とは真逆の、どこまでも続く一面の緑。

 なにやら声がする。ゆっくりと立ち上がって振り返ると、赤髪や赤茶髪、金髪といった、およそ日本人離れした髪色の人たちが数人目に入る。というか、こっちに近づいてくる?

「あなた、誰? 見ない顔だよね」

「アゼリアのスパイではないでしょうか?」

「わからねぇが、俺たちの『インディアカ』の試合の邪魔をしやがったんだ。一番アツいところで。どのみちタダで返すわけにはいかねぇよな」

 男八人……否、男七人と女一人が、俺を取り囲み一斉に銃口を突きつける。

 本当に、神というやつはもう少し優しさを持つべきだと、一人間として思った。


/


「ふぅむ……本当にアゼリアのスパイではないのですね?」

「だから違うって。アゼリアってのを知らねぇんだよ、そもそも」

 俺は今、八人のうち三人から挨拶という名の取り調べを受けている。

 まず、ジョナーと名乗った男の質問に俺は苛立ちながら答える。彼らの中では比較的落ち着いた黒に近い茶髪に、クールそうな、ともすれば冷たい印象の瘦身メガネ男子。丁寧な口調とは裏腹に、彼だけがいつまでも銃口を俺に向け続けている。そんなあからさまに警戒しないでほしい。


「ちぇっ、しけてんなぁ。金になるようなモン、何も持っちゃいねぇじゃねぇか」

「悪かったな。こちとらバイト始めたての高校生なんだよ」

「それにしたってこりゃねぇぜ。財布の中身も、見たことねぇ人の顔が付いた紙と、変な柄のコインしかねぇんじゃ」

「それが金なんだよ。俺の住んでた世界ではな」

 ウィリー(仲間内では愛称でウィルと呼ばれているようだ)とやらに財布を盗られ、物色された。ものの、結局なんの収穫も得られなかったらしく、そのまま芝生の上にポイと捨てられる。八人の中でもひと際目立つ金髪に、碧眼。まるでファンタジー世界の王子様のような容姿だが、生憎男には興味がないもので、ただただガラの悪いやつとして俺の海馬に登録された。


「へぇ、じゃあ本当に異世界人なんだね! なんだかワクワクしちゃう!」

 紅一点、オジー(愛称オズ。以下略)が目を爛々と輝かせて言う。赤みが強いボブカット?とそばかすが快活さを際立たせる。銃を俺の手が届くところにほっぽりだし、ジョナーとは対照的にすでに警戒心皆無なのはそれはそれでどうかと思う。

「ねぇねぇ、なんて国から来たの? 名前は?」

「……日本。宮下涼《みやしたりょう》」

「リョウ! 変わった名前ね!」

 宝石のように輝くブルーの瞳にまっすぐ見つめられ、思わずたじろぐ。このタイプの女は経験上人の話を聞かないから苦手だ。


「ねぇ、リョウ! 私たちと一緒にインディアカしましょ!」

「おい、待て」

「そうねぇ、せっかく一人増えて九人になったんだし、たまにはセルフジャッジじゃなくて順番に審判をローテしながら、」

「だから待てって」

「あ! インディアカはちょっとマイナースポーツだしわからないかな? 基本的には四対四のバレーボールみたいなものなんだけど、バレーボールはわかるよね? でもボールがバレーボール用のボールじゃなくて、大きな羽根つきの」

「待てってば、オジー!」

 早速俺の経験則の正しさが立証される。「なぁに? あと、オズでいいよ」と心底不思議そうなオジー……オズに、俺は冷静に告げる。

「悪いが、そんなことしてる場合じゃない。俺は、」

「そうです。そんなことしてる場合じゃありません。アゼリアのスパイではないとのことですがあくまで自称ですし、国王の元に連行し、拷問でもなんでもしてもらうべきでしょう」

「そうそう、拷問でもなんでも……って、なんだと?」

 横槍を入れてきたジョナーの言葉にサッと血の気が引く。

「待ってくれ! 俺は本当にアゼリアとは関係ないんだよ! というか、いい加減アゼリアを教えろ!」

「口ではなんとでも言えます」というジョナーの声と、「喧嘩中の隣国だよー」というオズの声が重なる。

 やばいやばい。早く誤解を解かなくては。

「そ、そうだ! 見ただろ? さっきの財布の中身。あのお札にもちゃんと『日本銀行券』って書いて、」

「確かに、僕のデータにあのような通貨はありませんね。日本とかいう国の名前も」

「だろ? だから俺は、善良な異世界人で、」

「仮に本当に異世界人だとしても、国王に判断を仰ぐのが妥当かと。善良かどうかを決めるのは僕たちじゃありません」

「な……っ」

「いいねぇ。こいつの身柄を引き渡したら報奨金出るんじゃねぇか? テンション上がってきたぜ」

「ウィル。彼を拘束してもらえますか? 不本意ですが、インディアカのネットを使いましょう。アル、ジャック、アレク、バーリー、ロブ! 君たちはあの怪しい物体どもの回収です。この男と一緒に国王に引き渡します」

 ジョナーが、遠巻きから退屈そうにこちらを眺めていた残りのメンバーに指示を出す。すると彼らは「はいはい」だの「りょーかーい」だのと気怠げに返事をし、インディアカ?のコートに散らばった怪しい物体――野球用具たちを拾い集め始める。

「くれぐれも気を付けてください。なんせこの男と一緒に降ってきたんです。アゼリアの兵器かもしれませんから」

 ウィルの手で、バレーボールのネットのようなものを身体にぐるぐる巻き付けられながら、俺は心に決めた。

神よ。俺は二度と、あんたを拝んだりなんてしないからな。


 王城への道程はあっという間だった。なんせ俺が落下したこの広い芝生一帯が、全て城の庭だったのだから。ちなみにオズたち一行は国王の関係者……というわけではなく。公園感覚で勝手に忍び込んで遊んでいるただの一般人だったらしい。

 このなんともゆるい感じ。そして、予定調和のような展開。

なんだかとても嫌な予感がする。まさか、な。

「うむ。よくぞ怪しい侵入者を捕らえてくれた。褒めてつかわすぞ、怪しくない侵入者たちよ」

「「「はっ! ありがとうございます、国王様!」」」

 王の間に着いた俺は唖然とする。偉い人特有のやたら背もたれのデカい椅子に腰かけて俺たちを待っていたのは――みすぼらしいジャージ姿の小太りなオッサン。

「神!?」



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