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第8話 怪物の影

 徹夜明けの学校ほど、現実味のない場所はない。


 黒板の文字はぼやける。

 教師の声は遠くから聞こえる。

 隣の席のやつがシャーペンを落とした音だけで、心臓が跳ねる。


 それなのに、俺の頭の中ではまだ、昨夜のネームが動いていた。


 暗い部屋。

 写真。

 選択肢。

 主人公の震える指。


 眠い。


 体は限界だ。


 でも、鞄の中に入っているあの紙束の重さだけが、俺をぎりぎり現実につなぎ止めていた。


◇ ◇ ◇


 午前中の授業は、ほとんど記憶がない。


 英語の時間、俺はノートの端に無意識でコマ割りを描いていたらしい。


 先生に当てられて立ち上がった時、自分が何の授業を受けているのか一瞬わからなかった。


 昼休みになって、俺は机に突っ伏した。


 寝たら終わりだ。


 そう思っていたのに、意識が沈みかける。


 その瞬間。


「蒼介」


 後ろから慧の声がした。


 俺はゆっくり顔を上げる。


 慧もひどい顔だった。


 目の下の隈は濃いし、髪はいつも以上に乱れている。


 しかも、片手には購買で買ったらしいパンを持っていた。


「食うか?」


「……何でそんな元気なんだよ」


「元気じゃない。燃料を入れてるだけだ」


「言い方だけかっこつけるな」


 慧は俺の机にパンを一つ置いた。


「放課後、電話するんだろ」


「ああ」


「鬼島さん、何て言うと思う?」


「知らない」


「またボロクソに言われるかな」


「たぶんな」


「だよな」


 そこで、慧は少し笑った。


 いつもの調子には見えなかった。


 疲れている。

 怖がっている。


 それでも、目だけは死んでいなかった。


「でも、見せたいよな」


「……ああ」


 俺は机の横に置いた鞄を見る。


 中には、昨夜のネームが入っている。


 直されるかもしれない。


 否定されるかもしれない。


 また現実に殴られるかもしれない。


 それでも、見てほしかった。


 あの夜に、俺たちが何を掴んだのか。


 自分たちだけでは、まだわからないから。


◇ ◇ ◇


 その日の放課後。


 俺と慧は、二人揃ってひどい顔をしていた。


 授業中、何度も意識が飛びかけた。


 慧は数学の授業中に完全に寝落ちし、先生にチョークを投げられていた。


 それでも。


 俺たちの鞄の中には、あのネームが入っている。


 それだけで、足取りは重くなかった。


 学校を出て、駅へ向かう途中。


 俺は鬼島さんの名刺を取り出した。


 夕方の風が、制服の袖を揺らす。


 駅前へ向かう生徒たちの流れの中で、俺と慧だけが少し立ち止まった。


「かけるぞ」


「おう」


 慧が隣で頷く。


 俺は深く息を吸い、電話をかけた。


 数回のコール音のあと、鬼島さんの声が聞こえる。


『はい、鬼島です』


「あ、藤原です。神宮寺と一緒にいます」


『お疲れさまです。どうしました?』


「ネームができました」


 電話の向こうで、少しだけ間があった。


『……早いですね』


「見ていただけますか」


 自分で言っていて、声が少し震えているのがわかった。


 怖い。


 また駄目だと言われるかもしれない。


 でも、それ以上に。


 見てほしかった。


 鬼島さんは小さく笑った。


『いいですね。今日、編集部に来られますか?』


「行けます!」


 思わず即答した。


 慧が隣で拳を握る。


『ただし』


 鬼島さんの声が、少しだけ低くなった。


『一つ、先に言っておきます』


「……はい」


『今年の新人賞には、かなり強い原稿が来ています』


 足が止まった。


 慧も、俺の顔を見て動きを止める。


『正直、僕が見ても驚きました。完成度だけで言えば、すでに新人の域を少し超えている』


 喉が鳴る。


『君たちのネームがどれだけよくなっているのか、楽しみにしています。ただ、本気で賞を狙うなら――その怪物と比べられることになる』


 怪物。


 その言葉が、胸の奥に重く落ちた。


 怖い。


 そう思った。


 でも、同時に。


 血が熱くなるのを感じた。


「……望むところです」


 俺が言うと、慧が隣で笑った。


 電話の向こうで、鬼島さんも少し笑った気がした。


『いい返事だ。では、待っています』


 通話が切れる。


 俺と慧は、しばらくその場に立っていた。


 駅前の人混みが、俺たちの横を流れていく。


 けれど、その音は少し遠かった。


「怪物だってさ」


 慧が言った。


「ああ」


「面白そうじゃん」


「怖くないのかよ」


「怖いに決まってるだろ」


 慧は、にやりと笑う。


「でも、相手が強い方が、勝った時に気持ちいいだろ」


「まだ勝つ気でいるのか」


「当然」


 俺は少しだけ呆れた。


 でも、口元は勝手に上がっていた。


 鞄の中には、できたばかりのネーム。


 目の前には、まだ名前も顔も知らない怪物。


 俺たちはまた、現実に殴られるかもしれない。


 それでも。


 今度は、殴られる前から逃げるつもりはなかった。


◇ ◇ ◇


 出版社へ向かう電車の中で、俺たちはほとんど喋らなかった。


 窓の外を、夕方の街が流れていく。


 慧は吊革につかまりながら、空いた片手で鞄の持ち手を握りしめていた。


 たぶん、俺と同じことを考えている。


 怪物。


 鬼島さんがそう呼ぶ原稿。


 新人の域を超えている完成度。


 まだ名前も顔も知らない相手なのに、その存在だけが妙にはっきりとした輪郭を持ちはじめていた。


 でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


 むしろ、見てみたいと思っていた。


 そんな原稿と比べられた時、俺たちのネームはどこまで届くのか。


 俺たちが一晩かけて掴んだものは、本当に武器になるのか。


 電車が出版社の最寄り駅に近づく。


 慧が小さく息を吐いた。


「なあ、蒼介」


「何だよ」


「もしまたボロクソに言われたら?」


「直す」


「即答かよ」


「そのために見せに行くんだろ」


 慧は少しだけ目を丸くした。


 それから、楽しそうに笑った。


「お前、ちょっと変わったな」


「うるさい」


「褒めてる」


「お前に褒められても、あんまり嬉しくない」


「ひどくない?」


 そんなくだらない会話をしているうちに、電車は駅へ着いた。


 改札を抜ける。


 見慣れはじめた出版社のビルが、夕方の空の下に立っていた。


 初めて来た時は、ただ巨大で、冷たくて、遠い場所に見えた。


 今も遠い。


 とんでもなく遠い。


 でも、前よりは少しだけ、足が震えなかった。


 俺は鞄を抱え直す。


 慧も隣で背筋を伸ばした。


 第三会議室。


 鬼島さん。


 そして、まだ見ぬ怪物。


 俺たちは、その全部に向かって歩き出した。


 勝てるかどうかなんて、わからない。


 だけど。


 このネームを見せないまま終わることだけは、もうできなかった。

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