第7話 白紙の向こう側
教室を飛び出してから、俺たちはほとんど会話らしい会話をしなかった。
いや、黙っていたわけじゃない。
「最初のページは暗室から入るべきだろ」
「いや、いきなり結果を見せた方が引きは強い」
「じゃあ、写真だけ先に出すか?」
「でもルール説明が遅すぎると読者が置いていかれる」
そんなことを、駅までの道でも、電車の中でも、改札を抜けたあとも、ずっと言い合っていた。
さっきまでただの紙切れだった大綱が、頭の中でどんどん漫画の形に変わっていく。
コマが浮かぶ。
台詞が削れる。
ページをめくる音まで聞こえる気がした。
この熱が冷める前に、形にしないといけない。
そう思った時には、俺たちはもう俺の家の前まで来ていた。
◇ ◇ ◇
家に着くなり、俺は部屋の机の上を片づけた。
漫画。
参考書。
飲みかけのペットボトル。
全部まとめて床に避難させる。
「雑だな」
「今は机が使えればいい」
俺はネーム用紙を広げ、シャーペンを握った。
慧はその横に座り、大綱の紙を広げる。
「まず、ルール整理だな」
「説明しすぎるなよ」
「わかってる。だから相談するんだろ」
慧は自動鉛筆をくるくる回した。
「主人公の目的と、能力のルールと、代価。この三つが見えれば読者はついてくる。問題は、どこまで説明するかだ」
「最初から全部説明したら死ぬ」
「じゃあ、どうする?」
「見せる」
俺は一ページ目の枠を切る。
「読者に説明を聞かせるんじゃなくて、まず何が起きたのかを見せる。主人公が何を見て、何に震えたのか。そこから入る」
「台詞は?」
「最初は削る。息遣いと手元だけでいい」
「おお……」
慧が身を乗り出す。
「じゃあ、ルール説明は後から?」
「そう。読者が『どういうことだ?』って思ったあとで、必要な分だけ出す」
「なるほどな」
慧はメモを取り始めた。
そこからは、ほとんど戦争だった。
「蒼介、ここの動機がまだ弱い!」
「じゃあ、その前に相手のやばさを一コマ足せ。説明じゃなくて行動で見せろ」
「なるほど。あ、でもそれだとページ足りるか?」
「足りなきゃどっか削る。後半の説明を一段落ぶん消せ」
「え、そこ削るのかよ! 大事なとこだぞ!」
「大事なのは分かるけど、読者はそこ読む前に飽きたら終わりだろ!」
「あーもう、くそっ、分かった!」
口ではぎゃあぎゃあ言い合いながらも、不思議と手は止まらなかった。
俺が画面に起こし、
慧が設定を詰める。
慧が台詞を捨て、
俺が表情で補う。
噛み合いはじめた歯車が、すごい勢いで回っていく。
前の原稿を描いていた時とは、何かが違った。
あの時は、俺も慧も、自分の武器をただ押しつけ合っていた。
俺は描き込むことばかり考えていた。
慧は説明することばかり考えていた。
でも今は違う。
慧の言葉を、俺が画面に変える。
俺の画面を見て、慧が言葉を削る。
どちらか一人では作れない形に、少しずつ近づいている気がした。
「ここ、主人公の独白いらない」
「いや、さすがにここは必要だろ。心情が伝わらない」
「目で伝わる」
「出たよ、最近のお前すぐ目で伝えようとするやつ」
「お前はすぐ口で説明しようとするだろ」
「うっ」
「図星かよ」
そんなやり取りをしながら、何度もコマを描き直した。
たとえば、主人公が初めて決定的な選択をする場面。
慧はそこに、長い葛藤の台詞を書こうとしていた。
どうしてそうするのか。
どれだけ迷っているのか。
自分が本当に正しいのか。
その全部を、言葉にしようとしていた。
でも、俺は首を振った。
「三コマでいく」
「三コマ?」
「一コマ目、震える指。二コマ目、写真に写った相手の顔。三コマ目、黒い背景の中で指だけが選択肢に触れる」
「台詞は?」
「一つだけ」
「一つ?」
俺は紙の端に、小さく書いた。
『ごめん』
慧はしばらく、そのラフを見つめていた。
それから、悔しそうに笑った。
「……俺の二十行が、一言になった」
「漫画って怖いな」
「怖いな」
俺たちは少しだけ笑った。
でも、すぐにまた紙へ向かった。
気づけば床には丸めたメモ用紙が散らばり、机の隅にはエナジードリンクの空き缶が増えていた。
夜が深くなるにつれて、部屋の空気はどんどん濃くなる。
それでも、不思議と眠気はこなかった。
「蒼介」
ふいに、慧が俺の肩越しに覗き込んできた。
「俺たち、今回いける気しね?」
「言うな」
俺は画面から目を離さずに返す。
「そういうの口にすると、一気にダサくなる」
「でも、お前ちょっと笑ってる」
「うるさい。集中しろ」
「へいへい」
軽口を叩き合いながらも、手だけは止まらない。
時計の針が、深夜を越え、明け方へ向かう。
外が白みはじめるころには、俺たちの目の下にはしっかりとした隈ができていた。
◇ ◇ ◇
「……できた」
最後のページを描き終えたのは、朝の六時を少し回ったころだった。
俺はペンを置き、背もたれに深くもたれかかる。
肺の奥の空気を、全部吐き出すみたいに息が漏れた。
机の上には、『死の一分前』のネーム。
まだ完成原稿じゃない。
線も荒い。
絵も仮だ。
背景なんて、ほとんどない。
でも、確かに形になっていた。
慧はしばらく無言でそれを眺めていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……すげえな」
「何が」
「いや、俺の話が、お前の手でちゃんと漫画になってるのが」
珍しく素直なことを言うもんだから、ちょっと返事に困る。
「そりゃ、するだろ。俺たちでやってるんだから」
「……だな」
慧は目をこすって、それからふっと笑った。
その顔は、疲れ切っているくせに、どこか満足そうだった。
俺も、たぶん同じような顔をしていたと思う。
体は限界だった。
頭も痛い。
指も痛い。
まぶたも重い。
それでも、胸の奥だけが異様に熱かった。
そのとき。
「蒼介ー? 起きてる? 学校遅れるわよー!」
部屋のドアの向こうから、母さんの声。
俺と慧は同時に跳ねた。
「やばっ」
俺は慌ててエナジードリンクの缶を机の下に蹴り込む。
慧はネームの束を抱え上げ、近くにあった数学の参考書でさっと隠した。
「今起きた! 大丈夫!」
我ながら苦しい返事をしつつ、慧を見る。
向こうも向こうで、ひどい顔で笑っていた。
「……学校、行くのか」
「行くしかないだろ」
「地獄じゃん」
「知ってる」
それでも、机の上に積まれた紙の束を見た瞬間、妙な達成感で笑えてきた。
徹夜で作った、荒いネーム。
たったそれだけのものが、今の俺たちには、どんな完成原稿よりも重く見えた。
まだ誰にも認められていない。
鬼島さんに見せれば、また容赦なく直されるかもしれない。
それでも。
この朝だけは、少しだけ信じられた。
俺たちは、前よりちゃんと漫画に近づいている。
窓の外では、朝の光がゆっくりと街を照らしはじめていた。




