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しあわせな木  作者: 汪海妹
9/15

9 怖いほどの幸せ













   9 怖いほどの幸せ












   













   春樹












   

 リフコの会社を訪れてから、俺は渕上さんに教えてもらった素人でも比較的理解しやすそうなプラスチックの成型に関する様々な本を読んでにわか知識をつける一方、今までに争われた特許権侵害の判例の中から参考になりそうなものを探し出してはファイリングして、概要を分析し、似たケースの判決の傾向の参考にする。全部、江上先生に提出するのだけれど、その際にいろいろ質問されて、全く把握できておらず、しどろもどろになったところで、また、それについて調べる。そんな日々を送っていた。

 刑事の現場100回ではないけれど、どうも文字や写真の情報だけではピンとこないものが多くて……。俺は何度かまた会社にお邪魔して、問題になった製造法の工程や参考になりそうな工程を見学させてもらっていた。とある日に社長さんと廊下でばったり会った。


「君はまた来たのか」


呆れられた。


「うちの仕事だけしてるわけじゃないんだろう?事務所からここまでの移動時間だってばかにならないし。こんなに遊んでていいのか?弁護士は気楽な商売だな」

「僕は経験は足りませんが、若いから体力だけはあるんです。睡眠時間削って働けますから」


 そう言うと、社長さんは一瞬無表情になった。なんか、また、失言をしてしまったかと内心冷や汗をかいた。次の瞬間に社長さんは笑い出した。笑っているのを初めて見た。


「先生もなかなか言うじゃないですか」


 そして、その後にぽんぽんと肩を叩かれた。


「頼みましたよ。先生」


 そして、そのまま行ってしまった。


 そんな生活を続けるうちに、最初はあやふやだった今回の件の争点のようなものの目鼻立ちがつくようになってきた。そんな折に、今度は、リフコの客先である医療機器メーカーに出向いた。リフコ、原島のどちらの部品も使用している、第三者の立場の意見を聞くためだった。

 アポイントを取って出向くと、忙しなく人の行き来する社の一角に通されて、しばらく1人で待たされた。半透明のすりガラスに囲まれたこ綺麗だけど妙に落ち着かない小さなミーティングスペースでぼんやりしていると、


「お待たせしました」


 初老の男性が入ってきて、慌てて椅子から立ち上がった。


「あなたが弁護士さん?随分、若いね」


 最近どこに行っても若いということで損をしている気がする。


「僕はアシスタントみたいなもので、抗弁する者は、僕の上のものでして」


 お辞儀をしながら、名刺を交換した。名刺の肩書きは開発室室長となっていたけれど、どのくらい偉い人なのかいまいちわからない。


「それで今日は何をすればいいんですか?」

「お忙しいところすみません。お時間いただきまして」

「いや、困ったときはお互い様ですから。それにね、リフコさんにこけられると結局は僕たちも困るからね」


 とても丁寧に対応してくれた。その日も、後日、わからないことがあって追加で連絡した時も。今回のケースが特許権侵害に当たるかどうかについて、意見書を作成してもらえないかということとそれを抗弁の際の参考資料として提出したいという要望にも応じてくれた。


 進捗内容を江上先生に報告すると、先生がぽつりと言った。


「なんとかなりそうだな」

「えっ?ほんとですか?」


 ずっと淡々としていて見込みについては口を開かなかった先生が、初めて楽観的なことを言った。


「なんだ。だめだと思いながら、いろいろやってたのか?」

「いや、何も考えてませんでした」


 ただ、必死だった。


「まぁ、こういうのは最後までなんとも言えないものだからね。クライアントには軽々しく大丈夫だみたいなこと言わないでくださいよ」

「はい」


 まだ喜ぶのは早いのだろうけど、ここのところバタバタしていた苦労が報われた気がした。


「そう言えば、ちょっと前に言っていた榊原先生のご意向を汲むとかいうのはもう解決したの?」

「ああ……」


 すっかり忘れてた。


「解決しました」

「よく考えたのか?」

「はい」


 江上先生はじっと俺の顔を見た。それから言った。


「そうか」


 たったそれだけだった。


 その後、外出のためエレベーターに乗って一階に降りるとき、後から乗ってきた榊原先生と一緒になった。横には腰巾着みたいに高岡のやつがくっついていた。


「上条君じゃないか」

「どうも」

「どうだい?江上君のところは」

「ああ、はい。まぁなんとかやってます」

「君、活躍してるみたいじゃない。いろいろ噂で聞いてますよ」

「いえ、まだまだです。僕はただ言われた通りに走り回ってるだけですから」


 自分にできる精一杯の謙遜の表現だったけれど、やっぱり榊原先生の気には入らないらしい。とても冷たい目で見られた。


「そんなに頑張らないでもいいよ。江上君とこに代わって焦る気持ちもわからないでもないけど」


 どうしてそんな見方、言い方しかできないのか。一瞬、カチンときた。すぐに消した。自分の目の奥に灯った怒りの炎のようなものを。


「はぁ」


 榊原先生は冷たい顔のまま、降りてった。気のせいか高岡がニヤニヤしてた気がする。

 しばらくして、自分はやっぱりなにかまちがったのだと思う。へいこらするやり方を覚えた方がいいという江上先生の言葉を思い出した。


 そして、そんな風に慌ただしく過ごしていたとある日の夜、家で風呂に入った後に持ち帰った仕事をしていた。携帯が鳴って、こんな時間に誰だ?と思ったら、静香さんだった。

 その瞬間まで俺は静香さんのことをすっかり忘れていた。

 やっぱり望みはないのかなと悶々と思うとか、恋ってそういうものだと思うのだけれど、きれいさっぱり忘れてた。変なものだ。別にいい加減な気持ちでもないのに。

 嬉しいとかなんとか感じる前にびっくりしたまま、でも、すぐに出ないと切れちゃうような気がして慌てて出た。


「もしもし?静香さん?」

「春樹君、助けて」


 そして、ここ数週間、不遜にも静香さんのことをすっぽり忘れてた俺の心は、すごい速度で元あったところに戻った。聞くと、彼女は自分の家の近くにいた。夜中に助けてと言いながら、自分の好きな人が自分を頼ってきて、頭に血の昇らない男がいるとしたら紹介して欲しい。部屋着を着てたから、下だけ着替えて外へ出る。素足にスニーカー。あれ?髪とかきちんとしてたっけ?歩き出してから、そう思う。まぁいいか、洗ったままほったらかしてたけど。

 そして、最寄り駅の近くのファミレスに入ると、静香さんがちょこんと座ってた。スーツケース抱えて。


「出張?」

「家出」

 

 何を言ってるのだろう?この人。こんな突拍子もないことする人だったっけ?


「1人暮らしの自分の家を出るのは家出とは言わないんじゃ……」

「でも、出たの」

「なんで?」

「男の人が来るから」

「男の人?」

「うん」


 男?不意に電話きて、飛んできて、浮足だってた自分が急速に冷えていく。


「その……、付き合ってる人」

「彼氏?」

「いや、彼氏ではない」

「……」


 ああ、いたんだ。やっぱりわけありの男……。


「その男の人が来るからって、なんで静香さんが家を出るの?」

「別れたいの」

「はぁ」


 俺の常識の範囲では、男と別れたいからって、家出をする必要はないはずだ。一緒に暮らしてたわけじゃないよね?


「別れたいって言えばいいんじゃないの?」

「顔見てると言えなくなっちゃうのよ」

「それってまだ、好きなんじゃないの?」

「好きじゃない」


 この言葉をどこまで信じていいんだろう?しばし、じっと彼女の顔を見る。


「じゃあ、家にあげなきゃいいじゃない」

「うちの鍵持ってるんだもん」

「それで、自分の家なのに逃げ出してきたの?」

「うん」


 思わず笑ってしまった。こんな支離滅裂な静香さん、初めてなんだけど……。


「おかしい……、ていうか、大人気ない。ちょっと可哀想、その人」

「もう、笑い事じゃないの」

「で、俺に助けてって、何をしたらいいの?」

「今晩、泊まるところがないの」

「うちに泊まりたいの?」

「……うん」

「いいよ。じゃ、もう遅いし、行こう」

「そんな、あっさり許しちゃうの?」


 俺が立ち上がると、彼女はそう言って驚いた。困った人だと思う。

 話の節々からなんとなく、その男の人が結構好きなんだとわかる。別れがたい男から逃げ出して、自分を好きだと言っている男のところに転がり込むなんて……。さっき浮かれた自分が哀れだな。完全に利用されてるし。


「他の人なら絶対だめ。静香さんはいいよ。特別だから」


 でも、それでも抗うことはできない。会えて嬉しかった。もう一生、会えないかもと思ってただけに。たとえ利用されても、そこにいくらかの可能性があるのなら、それでいい。


「それ、まだ、残ってるの?さっさと飲んで」


 俺は彼女の荷物を持って会計を済ませると外に出る。階段を降りたところで静香さんに向かって手を差し伸べた。


「今日の静香さんは捕まえてないとどっか行っちゃいそう」


 素直に出してきた手を捕まえた。

 2、3日経ったらこの人は、頭が冷えてやっぱり帰りますと言って、その男のところへ帰るんじゃないかと思う。こうやって手を繋いだって何にもならないだろう。自分の家へ向かって好きな人と初めて手を繋いで歩きながら思う。

 この恋がどこへいくのか自分は知らない。でも、確かに動き出した。破滅の方向へ向かってか、或いはハッピーエンドへ向かってか。


 家に着くと、彼女の鞄を寝室に置いた。


「俺はもう入ったから、風呂、適当に使って。あと、ベッドの部屋使っていいよ」

「春樹君はどこで寝るの?」

「そんな狭いベッドで一緒には寝られないでしょ?」


 静香さんは律儀にも、わざわざベッドの大きさを確認しに行った。


「なんでシングルベッドなの?」

「俺、1人暮らしでしょ?」

「女の人が来た時に不便じゃないの?」

「自分の部屋には女入れないから」


 静香さんは、じっと俺の顔を見た。なんか子犬みたいだった。この時だけ。飼い主を見上げる子犬。


「わたし、女なんだけど……」

「だから静香さんは特別だって言ったでしょ」

「なんか、すみません」

「いや、別に」


 そして、そそと寝室に消えた。ジーッとカバンを開けてる音がする。俺はさっきやりかけだった仕事を片付けてしまうことにした。こんな状況で仕事できるわけないし。


「あのー」


 ぱっと顔をあげると、静香さんがドアんとこ立ってこっちじっと見てる。今度はネコみたいだった。人間を警戒してるネコ。


「なに?」

「それで春樹君はどこで寝るの?」

「え?ああ……。ここ、ソファー」

「お布団」

「ん?」

「その、失礼してそこいら見たけど、お布団一組しかないんじゃない?」

「あ」


 そんな細かいこと、考えてなかった。


「別にいいよ。春先だし」

「わたしがソファーで寝るよ」

「布団なしで?」


 こくんと頷いた。


「そんなことさせるわけないでしょ。野郎ならともかく」

「じゃ、一緒に寝る?」


 どういうつもりで言ってんだろう……。


「そんなん、朝まで寝られなくなるからやだ。冬もんのコートでも引っ掛けて寝るから気にしないで」

「わかりました」


 やっと戻ってった。

 さっきの、あれ、どういうつもりで言ったんだろう?据え膳食わぬは……

 いやいやいやいや


 例えば、とある日、窓を開けたら美味そうな鳩が飛び込んできて首尾良く捕まえた。焼いて食っちまうだろう。でも、美味そうだなと思うけど、ガラスで隔てられた先にいて見ることしかできない鳩がいたとする。8年間美味そうだなと思って見てました。ある日、いきなりガラスが消えた。焼いて速攻で食うか?食わんだろ。


「春樹君」


 また出てきた鳩。じゃなかった静香さん。


「どうしたの?」

「パジャマ忘れてきちゃった」

「……」

「すっごい急いでて、それで……」

「ああ、いいよ。なんか適当に貸すよ。サイズ合わないと思うけど」


 俺が適当に見繕った服抱えて静香さんは洗面所に消えた。しばらくすると、風呂場のほうから水音がしてくる。静香さんが俺んちで風呂入ってるし。このシチュエーションで風呂場の中を想像しない男がいたら、紹介してほしい。拷問に近いです。まじで。俺の理性、一晩もつだろうか……。だんだん心配になってきた。

 静香さんが風呂から出てきたら、できるだけ見ないようにしよう。それと近づかないように。


「ありがとう。いいお湯でした〜」


 しばらくすると上機嫌で出て来た。仕事の資料さも見てるようなふりした。


「仕事?」

「ああ、うん。ちょっと、ね」

「大変ね」


 彼女は髪に巻いたタオルを取って、洗い髪をもう一度ふいていた。


「あ、ドライヤー、使う?」


 そしてぱっと顔上げて、見ないでおこうと思ってたものを見てしまった。化粧落として、頬がほんのりと赤く染まって、俺の服着た静香さん。


「ありがとう」


 ドライヤーを渡して、寝室のクローゼットから冬のコート出す。リビングの電気消してソファーに横になると、コートひっかけて……。般若心経唱えてた。頭の中で。全部暗誦できるわけじゃないから、覚えてるとこだけ飛び飛びに。そのうち、ドライヤーの音が止まった。キイっと音がして静香さんが俺のこと覗いてる気配がした。俺は般若心経唱えながら寝たふりをした。パタンとドアが閉まって、しばらくかさこそという音がしてたけどそのうち静かになった。静香さんも寝たのだろう。














   静香












   


 アドレナリンでも出てたんだろうか?

 手を繋いでついて行って、お家にあげてもらって、だんだん冷静になってくると、勢いだけで押しかけてしまったけれどよかったのだろうかと思う。人ん家の寝室で1人、スーツケースのファスナーを開けてるときに、ジーッと、なにか間違ってしまったかもとたんたんと思い始めた。

 春樹君、ソファーで寝るって言ってたけど、布団あるのかな?掛け布団。探すまでもない。引っ越してきたばっかりだからかもしれないけど物が少ないのだ。クローゼット開けて上の方見たけど、空っぽだったし。春先、布団なしでは寝られないよ。

 で、一緒に寝るかと誘ってみたが、断られました。

 なんか、微妙にですね、これは女としても、名誉が傷つくというか……。もう2度と言うのは止めようととりあえず決心しました。なんか成行でそういうふうになるものでもないのね。しょうがないか、いろいろくよくよ考えるのはやめて寝てしまえ。良いほうの寝床譲ってもらったんだから。

 そしてお布団の中に潜り込むと、春樹君のにおいがした。当たり前だけど。

 その香りをわたしはうっすらと知っていた。無意識のうちにどこかで嗅いでいたのだろう。

 ああ、男の人って、同じ男でも1人1人香りが違うものなのか。ぼんやりとそう思う。どこから来るんだろう?この香り。香水とは違う、その人だけが持つ自分の香り。本人はここにいないのだけれど、香りに包まれて、なんだか安心してしまった。慣れないベッドの上にしてはぐっすり眠った。


 そして、朝起きると、家主がいませんでした。

 テーブルの上に鍵と置き手紙が置いてあって、2つ目の鍵だから、自由に使っていいって。こんな早く出るの?時計見て思った。ま、自分は朝はゆっくりなんです。夜に予約されることが多い仕事なので。

 支度して、もらった鍵でドアを閉めて、駅へ向けて歩く。たしか、こっち。てくてく歩きながら、なんとなーく思った。若干……、避けられてるというか……。そういうのではなくて、うーん。

 そう、戸惑われている?

 そして、わたしは道に迷った。スマホを出して、地図を開いた。右に曲がるべきを左に曲がっていた。来た道を戻る。本当はもっとちゃきちゃき歩かなきゃダメな時間かな?たぶんそうだ。でも、今日は真面目に正しく生きるためのやる気が出ないわ〜。もし、遅刻してしまったら、朝、お腹が痛かったんですとでも言ってしまおう。普段真面目にして貯めた信頼の貯金はこういう時に使っちゃえ。

 そして、電車の座席に収まって、訥々とまた、春樹君のことを考える。春樹君、怒ってはないと思う。ただ、たしかに戸惑ってる。そして、もし、わたしが春樹君の立場だったら、わたしだって戸惑うだろう。

 どうかしてたかなぁ。

 なんか、春樹君のとこに来たら、手放しで喜んでくれる気がしてた。そんな単純なものではないか……。


 結局、職場にはぎりぎり間に合った。そんなに忙しい日ではなくて、たんたんと業務をこなすと、夕方には解放された。まっすぐ帰ってしまっていいのかな?春樹君、何時くらいに帰ってくるんだろう?電話してみる?

 スマホを出して、悩む。

 なんか、はしゃいでる?わたし。わたしだけはしゃいで、春樹君は戸惑ってて、なんかこの温度差、微妙に痛い。好きって言ったからって、いきなり家まで押しかけてくるなんて普通は思わないよね。

 そこまで考えて、思い切り落ち込んだ。














   春樹












   


 うちに早く帰ったほうがいいのか、遅く帰ったほうがいいのか迷ってしまった。

 本心としてはさっさと帰りたい。家に好きな人がいるなんて素敵じゃないですか。それでご飯とか作っててくれないかなぁ。泊めてもらったお礼に、とか言って。いや、なんか今、イタイこと考えたな。でもね、そんなにはしゃいでしまっていいのか?っていう思いがあるわけです。つまんないやつだな。俺。


 やっぱり帰る。ありがとう。さよなら。


 俺にそう言って出て行く静香さんの像が、ありありと想像できてしまう。だから、はしゃぐのにブレーキかけてる。これは、恋する人の普通の防御反応だ。そんなわけもあって、早くもなく遅くもないような時間に家に戻った。でも、家は暗かった。あれ?もしかしてもう帰っちゃった?と思って寝室覗いたら、スーツケースがちょこんと置いてあってほっとした。

 そのとき、玄関のほうで音がした。帰ってきたと思って部屋から出てみると、なんかおっきなの抱えてる静香さんがいる。


「今度はなに?」

「え?ああ、布団」


 そう言って、でかいけど軽いそれを両手で差し出してくる。


「へ?」

「春樹君が風邪ひかないように買ってきた」

「……」


 一瞬のうち2つのことを考えた。布団をわざわざ買うってことはしばらく出てくつもりはないんだなってことと、俺と一つの布団で寝る気もないんだなってこと。


「ね、受け取って。春樹君のだよ」

「あ、ありがとう」


 俺、般若心経全部誦じれないんだけど、練習したほうがいいのかな?今のままでいつまでもつかわからない……。


「軽いね」

「ホームセンターで一番高かったやつ。一応羽毛布団」


 思わず眉間に皺が寄った。


「安物に囲まれて生活してんのに、布団だけ豪華になったな」

「え、そうなの?」


 布団を持ってリビングに移動する。


「そのうち女の人と暮らしたりしたらさ、つまりは結婚とかしたりして」

「うん」

「普通は新居は、その女の人がいちから揃えたいものじゃない。その時に惜しみなく手離せるように、安物にしてるわけ」

「へー!」

「なに、その顔」


 目がきらきらしている。


「ほんと春樹君って、実はむっちゃ尽くすタイプだよね」

「またその話?」


 前にも言われたことがある。


「これ、折角だから静香さんが使いなよ」

「だめ」

「だめ?」

「えっと、迷惑かけてるお詫びだし」


 手料理にはならなかったか……。


「あ、ご飯食べた?」

「忘れてた……」

「なんかあったかな……」


 冷蔵庫を開けた。


「ピラフ、食べる?冷凍食品だけど」

「あ、わたし、やるよ」


 そう言ってる彼女に向かって笑った。


「あっためるだけだから。いいから座ってて」


 その日の夕飯は、彼女と出会ってから共にしてきたものの中で間違いなく一番安いものだったろう。でも、自分にとっては一番特別なものだったかもしれない。これから先、こんな風に彼女とひとつ屋根の下でありとあらゆるものを一緒に食べたら、この第一回目にしたささやかな食事のことも綺麗さっぱり忘れてしまうのかもしれないけど。


 一緒にいることが普通になって、ひとつひとつの瞬間を簡単に忘れてしまうくらい長い時間、静香さんと一緒にいることができたらどんなにいいだろう?やっぱり帰ると言って、出て行ってほしくない。こんなに近くまで来て、そして、また手に届かないくらい遠いところまで行ってしまったら、自分は一体どうなるだろうか。














   静香












   


 布団を買った次の日、仕事中に秀から電話が来た。わたしはまた、それに出ないで切れるまで神谷秀という名前を眺めてた。この前の夜よりも冷静な気持ちで見られた。

 秀も今度という今度はわたしが本気だってわかったろう。

 今までも別れ話をしたことは何度もあった。こんなことしてたら、自分にとっても秀にとってもよくないと思って、1人に戻ろうと。やっぱり不倫なので、未来のない関係だから。その度にわたしの本音は見透かされて、彼はわたしを説き伏せてきた。わたしの底にある甘えや寂しさを秀はよくわかってたから。

 でも、やっぱり秀はずるかったと思う。だってそうやって長引かせたとしても、彼はわたしの甘えや寂しさを全部掬える立場にない。彼の人生の大半の時間は別の人のものだから。待たないでも会える男の人がわたしには必要で、つまりは別れることが2人のためなんだ。

 今ならちゃんと秀と向き合って、さよならと言える気がした。さよならと言って鍵を返してもらって、自分の家に帰ろう。布団は買ったけど、連日連夜あんなソファーで寝かせたら、春樹君の背骨が曲がっちゃう。

 秀とのことがちゃんとするまで、本当は春樹君に甘えちゃいけなかったんだ。














   春樹












   


 そして、布団を買った次の日に帰ると、今度は荷物をまとめた彼女が俺を待ってた。


「お世話になりました」

「帰るの?」

「うん。迷惑かけてごめんね。落ち着いたから、帰る」

「彼氏とより戻すことにしたんだ」


 静香さんは、きょとんとこちらを見た。


「いや、彼氏じゃないし。ま、でも、ちゃんと会って別れ話してくる。で、鍵返してもらって自分の家戻るよ」

「顔を見てたら、やっぱり言えなくなって、より戻すことになるんじゃない?」


 彼女はちょっと嫌そうな顔をして、でも、否定できなかった。


「いきなり来るのは迷惑」

「うん」

「でもいきなりいなくなるほうがもっと迷惑」


 泣きたい気分だった。相手の男のとこになんて帰したくない。


「あなたのところにまた戻ってきてもいい?彼と別れた後に」

「静香さんは別れられない。だから、出てったらもう俺のとこになんか戻ってこないよ」

「わたしのこと、信じられないの?」

「……」


 好きな人に信じられないなんてひどい言葉、ぶつけられるわけがない。

「じゃあ、あなたのものにして。彼に会う前に。わたしがちゃんと春樹君のもとに戻って来られるように」


 聞き間違いではないかと思った。自分の耳がおかしくなったのかと。静香さんは、俺のずっと好きだった人は、でも、その後こう言った。


「抱いてください」


 信じられなかった。自分の聞いたことが。


「本当に?」


 彼女はため息をついた。吐き出される息に合わせて上下した胸もとと綺麗な首すじをぼんやりと見た。


「こんなこと、何度も女に言わせないで」

 

 今まで何度も簡単に手を伸ばして女の人を抱いてきたのに、静香さんに手を伸ばして触れた時、手が震えるかと思った。ぎゅっと抱き寄せて髪の毛撫でながら自分の腕の中にいる静香さんを上から見ると、彼女も下から俺を見上げてた。ほんというとこの時、もう一回ほんとうにいいのと聞きそうになった。でも、怒らせそうな気がしてやめた。代わりにそっと彼女の顔に自分の顔を近づけた。俺が近づくと彼女が目を閉じた。

 自分の唇が彼女の唇に触れた。

 それはゴールだったんだろうか?いや、それはスタートだったんだけど、本当は。でも、自分にとってはそれはひとつのゴールだった。長い長い間、たどり着けるなんて思ってなかったゴールだった。

 自分の舌で彼女の唇を押し開けて、彼女の柔らかい唇を吸いながらお互いに舌絡めながらキスをした。これでもかというほどの甘くて痛いぐらいの快感に貫かれた。


「このまま今日、死んでしまってもいい」


 それはたしかに本心だった。


「ねぇ、春樹君」

「ん?」

「わたしのこと、愛してる?」


 その時、静香さんはとても、とても悲しそうな顔をしていた。


「愛してるよ」


 彼女にそう問われるまで、俺は自分が彼女を愛してるかどうかなんて考えたことなかった。そもそも、愛についてなんて考えたことがなかった。そして、愛してるなんて言葉、使ったことがなかった。だから、先に言葉が外にこぼれてしまって、俺の場合。そして、すぐにそれが真実になった。俺の静香さんに対する愛が言葉にしたことで生まれて、足が生えて歩き出した。

 よくわかんないけど、こんなものを静香さんが欲しいなら、いくらだって渡してあげる。

 みんながまだ起きてるような時間に、ベッドに彼女を連れて行ってキスしながら互いに互いの服を脱がして、俺たちは愛し合った。いろんなところに触れて、最後にはひとつに繋がって、お互いに息を乱して、香りを嗅いで、そして、彼女の声を聞いた。自分の腕の中で彼女があげる声を。

 彼女が身体を震わせてる時にその身体抱きしめながら耳元で囁いた。愛してると。なんとなく、彼女がそれを求めてる気がして。


「このベッドは狭いから」

「ん?」

「朝まで寝られないから一緒に寝ないんじゃなかったの?」


 裸の彼女後ろから抱きしめたまま、笑った。


「何もしないでは寝られないって意味だよ。わかってるくせに」


 彼女が俺の腕からもぞもぞと逃げようとする。


「どこ行くの?」

「服着るの。春樹君も着なよ。風邪ひくよ」

「そればっかじゃん。大丈夫だよ。くっついてたら」

「えー」

「あ、そうだ。羽毛布団使おうよ」


 笑った。2人で。


「こんなことのために買ったんじゃない」

「いいじゃん。羽毛布団使ったら、服なんか着なくたってあったかいって」


 こんなに幸せでもいいのかと思う。眠って起きたら夢になって消えてしまうんじゃないかと思う。この瞬間で時を止めてしまいたくて。だから、服を着させたくなかった。お腹空いてもベッドから出たくなかった。

 それは怖いほどの幸せだった。俺は知らなかった。人は本当に手に入れたいものを手に入れた時、恐怖を感じるのだということを。


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