7 純粋な欲望
7 純粋な欲望
静香
とある日、平日、お昼の休憩から戻ると、受付の子に呼ばれた。
「月城先生、飛び込みの新規の方が、来てますよ」
「え、わたしに?梶先生ではなくて?」
梶先生は、このクリニックのメインの先生です。看板も梶先生の名前。新規の人がわたしを指名するのは珍しい。
「いや、はっきり月城先生にお願いしたいって」
「……」
受付に座って下からわたしを見上げるマミちゃんの目がキラキラしてる。
「なに?そんな顔して」
わたしが女じゃなかったら、勘違いしそうな顔してたわ。
「あ、すみません」
怒られるとでも思ったのか、笑顔を引っ込めた。皆さん、いろんな気分でくるのだから、表情には気をつけろと普段から言われているのだ。
「わたしに対してはいいわよ。なんでそんなにやにやしてんの?」
「えーっと」
それでも、言い淀む。
「あ、待って。当ててみるから」
そこでちょっと考えるふりをする。本当いうと考えるまでもない。この子単純だから。ま、そこがいいところなんだけど。
「その飛び込みで来た人が若い男の人だったんでしょ?」
「え?なんでわかるんですか?」
あなたの頭の中の関心ごとのナンバー1はいつもそれ系だから。
「ついでに言うと、結構好みのタイプだったわけだ」
「いや、好みっていうか、むっちゃかっこいい人でした!」
とうとうあからさまに興奮した顔を見せたまみちゃん。わたしはしかめつらした後にポンっと持ってたチラシを丸めて、頭をはたいた。
「今みたいな顔、ご本人の前で見せないでね。悩んでる人って何が負担になるかわかんないんだから」
「結局叱るんじゃないですか〜」
「仕事だからしょうがないの」
手を差し出すと、今部屋にいる人の資料を載せてくる。ぶつぶつ言いながら仕事に戻るマミちゃんを後にして、カウンセリングルームのドアをノックした。こんこんと乾いた音がした。
「はじめまして、月城静香です」
でも……
「すみません」
そこにいた人は、はじめましてではなかった。
「あ……」
さっき受け取った資料の名前のところを見た。しまった。部屋に入る前に確認するべきだった。
「ごめんなさい」
上条春樹
「……」
言葉が出てこない。不意をつかれてしまって。頭が真っ白になった。
「らしくないことしてるって自覚あるし、ちょっとやばいってのもちゃんとわかってるから」
彼は顔を真っ赤にして弁解し始めた。
「だから、こんなことするのはこれが初めてでそれで最後だから」
ため息が出ました。それから、彼の腰掛けているソファーの向かいに腰掛けた。
「怒ってる?」
「いや……、まだびっくりしてるけど」
それから、なんとなく2人で黙った。明るい白い部屋の中で、もう会うこともないと思ってた春樹君はやっぱり、綺麗だなと思った。綺麗というか、清浄だなと。しばらくして、春樹君が口を開いた。
「その、俺、今更だけど……」
「うん」
「静香さんのことがずっと好きだった」
「……」
「いっつもふざけていろいろ言ってたけど、そういうのじゃなくてちゃんと真面目に好きでした。というか……」
彼は俯きがちだった顔を上げて、わたしをまっすぐに見ました。
「過去形じゃない。好きです。静香さん」
彼が直接そう言う日が来るなんて、思っても見なかった。わたしは、彼の思い出、通過点として消えていくと思ってたから。いつかこの人は、自分に相応しい人を見つけて、そして、本当の意味で大人になるのだと。
「俺、年下だし。頼りないし。叶うことなんてないと思ったから、言うつもりなんてなかった。傷つきたくなかったから」
明るい光の差し込む部屋で、彼はまた少し俯き、わたしは彼の節目がちになったまつ毛を眺める。
「でもね、この前最後だって思って会った後に、俺、考え方が変わったの。中途半端に逃げたら、きっと一生後悔するって。がんばって、がんばって、それでもだめだったら、俺じゃやっぱりだめなんだってわかったら、きっとその時はちゃんと、諦められる」
光が柔らかく彼に当たっていた。春樹君の髪はいつも以上に茶色く見えた。光のせいで。
「俺にちゃんと向き合ってよ。静香さん」
「この前……」
「うん」
「あなたにあんなとこ、見せるつもりはなかったのよ」
「そう。静香さんはいつも、俺になにも見せてくれなかったよね」
「……」
「俺が年下で頼りないからですか?」
「……」
「なにか言ってくれないとわからないよ。ねぇ、静香さんのこと忘れたほうが俺のためだってどういうこと?」
この前は、わたしの携帯が鳴って、会話が中断された。今度は彼の携帯が鳴った。彼は立ち上がってわたしに背を向けると、窓際に立って電話を受けて相手といくつかやり取りをする。しばらくすると、電話が終わった。春樹君は電話を切ってこちらを向いた。
「もう行かないと」
「うん」
そう言いながら、でも、春樹君はその場に立ってぼんやりとわたしを見ていた。ゆっくりとわたしは立ち上がった。彼はわたしの前に立つと、手を伸ばした。わたしの方へ。嫌がられるとでも思ってたのか、おそるおそると。彼は手の甲でそっと、本当にそっとわたしの髪をなでました。その時、今にも泣き出しそうなそんな顔をしてた。
自分の手が伸びて彼に触れそうになるのを、わたしは抑えていました。
お互いの目の奥をただお互いに見つめ合った。
「俺に心を開いてよ。静香さん」
囁くような小さな声で、春樹君はそう言った。それから、彼の手はわたしから離れていきました。
「あなたから連絡が来るまで、もう電話もしないし、会いにも来ない。でも……、待ってるから」
そう言い残して立ち去って行った。
バタンと背後でドアが閉まる音がしました。わたしは体から力が抜けてしまって、ソファーにすとんと座った。しばらくぼーっとしてました。
「静香先生」
がちゃりとドアが開いて、はっと我に返った。
「どうしたんですか?なんかクライアント帰った後も全然出てこないですけど」
「ああ……」
まみちゃんは、ドアのとこからちょこんと顔だけ出してこっち覗いている。最初は普通に心配そうな顔してたのが、しばらくしてにやりと笑った。
「なんですか?先生。人にあんだけ注意しといて」
「え、なに?」
「一目惚れでもしちゃったんですか?さっきの人に」
「は?」
「だって、そんな顔してますよ」
「そんなわけないでしょ。もう」
立ち上がった。驚いた。本当に、もう、ありえない。息を吸った。脳に酸素を取り込むために。本当にありえない。手を自分の頬にあてる。手が冷たいのか、それとも頬が熱いのかよくわかんないことになっていた。
春樹
そして、それから自分は、彼女からの連絡を待ちわびながら生活をするようになった。
それは不思議な日々でした。こんなに純粋な欲望を持ったことが今までなかったからだと思う。欲望という言葉を使ったし、確かにそれは欲望なのだけれど、でも、敢えて願いという言葉を使いたくなるような、そんな気持ちだった。
彼女がもし、自分の願いに応えてくれるなら、きっとこれから死ぬまで毎日神様に感謝する。本気でそう思う。今はそう思っていても、そのうちこのくらい強い気持ちを、純粋な欲望を、自分が持っていたということを人は忘れて生きていくものなのかもしれないけど。
そして、そんな欲望を抱えながら粛々と働いていたとある日、
「上条君、ちょっといい?」
江上先生が自分の個室から顔を出して、俺を呼んでいる。自分のデスクから立ち上がって、先生の個室に入った。
「この前君も同席してもらったリフコの件だけど……」
「ああ、はい」
「君はどう思う?断るなら早いほうがいいんだ」
「え?僕が決めるんですか?」
全然そんなつもりはなかった。こういうことは上の人が決めることだと思っていたから。江上先生は机に座ったまま、両手を顔の前で組んで、下から俺を見上げる。
「先生のご意見は?」
「ご意見というか事実を言いますが、既に担当しているお客さんで手一杯。火がついてから飛び込んで来たお客さんの相手をしてるうちに、既存のお客さんに迷惑をかける可能性が高い」
「じゃあ、断りますか?」
江上先生は静かな目で俺を見た。先生の背後の窓から見える灰色の空と無愛想なビルの様子まで、一緒に目に映る。
「君はどう思う?」
「わかりません」
「じゃあ、よくわからないから断ろうか。僕たちはなにも困らない」
例えばその口調に、俺を批判するような様子があれば、先生にとっての正解を、大変になるけど引き受けましょうと、答えればいい。反対なら、断りましょうと言えばいい。でも、江上先生の口調からはそのどちらのニュアンスも感じられなかった。困ってしまった。
「先生」
「はい」
「先生方で相談して決められると思いましたので、内容をよく把握していません」
「じゃあ、これ」
まるでその言葉をあらかじめ待っていたかのように先生は、机の端っこに置いてあったクリアファイルを差し出した。薄いファイル。
「佐々木さんがまとめてくれたから簡単に目を通して、回答を聞かせてください」
「本当に僕が判断するんですか?」
江上先生は、手を組んで俺をじっと見た。
「自分が判断する立場でもそうでなくても、自分が関わる全てのことに自分の意見を持ちなさい」
「全てのことにですか?」
「そうだよ」
ちょっと驚いた。だって、自分はまだぺーぺーで、考える頭は首の上についてるけど、社会ではぺーぺーは意見を求められない。いい大人はペーペーの参考にならない意見をわざわざ聞くほど、暇ではないのである。なにを言うべきか思いつけずに黙っていると、先生は淡々と続けた。
「判断力というのはそういうことの積み重ねでしか、結局は磨けないのだから。休んじゃいけないよ」
「……はい」
よくわかんないままに、差し出された資料を受け取って下がろうとすると背中に言われた。
「わざわざ言わなくてもわかってると思うけど、リフコは突然特許権侵害なんて警告を受けて、そういうのに免疫ないから不安な気持ちでいるんだ。受けるにしても断るにしても、早く判断しなさい」
たんたんとそう言われた。俺はちょこんとお辞儀して部屋を辞した。
リフコは医療機器を製造するための部品を作っているメーカーで、高度なプラスチックの射出成型の技術を持っている企業だった。中堅とまではいかないが、そんなに小さな会社ではない。業績も堅調。そんな会社がある日いきなり、同業他社から特許権侵害で訴えられた。
どういう経緯だったのか知らないが、その話が榊原先生のところに飛び込んできて、それを榊原先生がほってよこした。とりあえず、話を聞こうと先方に連絡を入れたら、リフコの社長が事務所に数名の社員と一緒に来た。その時、応対した江上先生が榊原先生ではないと知った時の社長のがっかりした顔を思い出す。
なんだか嫌な感じだった。
資料を読んだ感じではなんとも言えない案件だった。訴えてきている原島産業は、やはりプラスチック成型の会社なのだけれど、もともとはさまざまなプラスチック製品を自社で製作して販売している会社だった。プラスチックのバケツとか、洗面器とか……。医療に使うような部品を作り始めたのはリフコより遅い。ただ、会社の規模は原島の方が上だ。
榊原先生は、新規の顧客は何かしら自分の得になるような要素がなければ、すでにたくさんの顧客を抱えているので手は出さない。例えば、同じ案件でも原島から持ちかけられたら、勝てるかどうか真剣に中身を吟味しただろう。原島の規模なら、興味が湧くからだ。
それでも、直接断らずに下に投げてきたのは、間に入って仲介している人がいて、その人の手前、何もしないわけにはいかないから。だから、江上先生は、忙しくてもこれを受けなくてはならない。勝手に断ったら、榊原先生にどう思われるか。かと言って、榊原先生が求めているのは、勝つことではない。俺たちに榊原先生が期待しているのはおそらく、一生懸命やりましたけどダメでしたという結末。榊原先生も事務所も、原島とリフコなら、原島と仲良くしたいのだから。仲良くまではいかなくとも、敵には回したくない。
ため息が出た。
上手に負けてこいと言われて、ため息の出ないやつなんている?
弁護士としての知識や経験より演技力のほうが求められている案件じゃないか。
「答えは出た?」
「受けます」
「君が忙しくなるよ。大丈夫?」
「仕事ですから」
「そうか」
先生は、ほっとした顔をするというようなこともなく、見事にいつも通りだった。それで、聞いてみたくなった。
「先生、僕が断ろうと言ったら、どうするつもりだったんですか?」
「やりたくないということ?」
「いや、そういうわけではないですが……」
唾を飲み込んで少し喉を湿らした。
「この件は、榊原先生の手前、断ることはできないものなんじゃないですか?それに……」
「それに?」
「榊原先生は受けた上で、上手に負けることを望んでるんじゃないですか?」
「なんで?」
「原島産業を敵に回したくないからです」
そういうと、江上先生はにっこり笑った。
「君は中途半端に賢いなぁ」
「……」
これはきっと褒められていない。
「この世はね、中途半端に賢い人が一番苦しむように設定されてるんです。なるなら、突き抜けて賢い人か、目端の利かない全くの馬鹿がいい」
「はぁ」
「それで君はどうするの?榊原先生の望む通りに動くの?」
「わかりません」
その後、ちょっと躊躇してから言った。
「先生は僕がどうしたほうがいいですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
やっぱりそう言われた。
「僕の動向は、先生にも影響します」
「もし、僕がそういうことを気にする男だったら、君の意見なんて聞かずに直接指示だけしてますよ」
穏やかな顔だった。
「上条君」
「はい」
「この世にはね、正解のない問いというのがたくさんあるんですよ」
いつも江上先生は不思議なことを言う。謎々のようなこと。
「榊原先生の望む通りにするのが正しいかどうか、それを決めるのは君。僕に委ねるのはやめなさい」
「でも、よくわかりません」
多分、榊原先生に逆らったら、ある一定の不利益を被るのは僕だけではなく、そして、その度合いは先生のほうが高い。
「じゃあ、わかるまでよく考えなさい」
やっぱり、突き放された。それじゃ、とりあえずお引き受けしますと先方に伝えますと言って下がろうとする俺に江上先生が言った。
「上条君、大切なことを一つ言っておく。自分の手綱は、僕に預けても、榊原先生に預けてもいけない。他の誰にもね。自分で持ちなさい。日々で行うさまざまな決定は、いつしか君という人間を形作り、そして、人は歳を取るとその形を変えられなくなる。自分の下した決定が、自分の進む方向を決めてるんだよ。そんな大事なことを、他人に一回でも、譲ってはいけない」
よくわからなかったんです。この時、何を言われてるのか。ただ、妙に印象に残って、忘れられなかった。
そして、それからしばらく、静香さんどころではなくなった。
原島産業が特許権侵害を申し立てている特許の内容について確認し、それから、リフコが所有している特許についても確認した。ただそれ以前に、自分自身にリフコが製造している医療部品や、プラスチック成型についての知識がなさすぎた。まずは、その知識について補う必要があった。
正式に引き受けることになった時、挨拶に会社まで行った。俺の顔を見た途端にあの江上先生が榊原先生ではないと知って露骨に嫌な顔をした社長さんが、俺の顔を見て更に輪をかけて嫌な顔をした。
「君みたいに若い人が担当するの?」
面と向かって、直接そう言われた。
「担当というか、下準備は僕がして、実際の抗弁は江上が担当します」
「大丈夫なの?それで」
「……」
「君はすぐに大丈夫ですと言えないのか」
すぐそばにいた社員の人が、社長、ととりなしてくれて、そこはそこまでになった。その勢いに、気圧された。その後、工場に回って、実際の製造の現場を見せてもらう。
「あの、企業秘密とかで、見せられないとかあれば……」
そういうと、案内をしてくれていた渕上さんに笑われた。
「特許の件でご担当いただくんです。企業秘密も何もありませんよ。先生には」
「あ、すみません」
「その代わり、入る時にはうちのルール、きっちり守ってもらいますから」
そして、管理事務所のあった棟から、工場棟に移って驚いた。
「綺麗ですね〜」
勝手なものだが、工場と言われると汚いイメージがあった。
「まるで病院の中みたいだ」
「先生、工場とかあまり見たことないんじゃないですか?」
渕上さんに言われた。また、未熟者と誹られてる気がしたが、まぁ、その通りなのだから仕方がない。
「すみません。ついこの前まで机に齧り付いて勉強ばかりしていたものですから」
「謝られる必要はないですよ。そういうつもりで言ったわけではないですから」
そういうと、渕上さんはゆっくりと続けた。
「わたしたちの作っているものは、病院で直接患者さんの肌に触れるものから始まって、身体の中に入るものだってあるんです。汚いところで作ってるなんて、ありえないですよ」
ちょっと考えればすぐわかることだろうに、子供みたいにはしゃいだ自分が軽率だった。
そして、クリーンルームに入る。これも、生まれて初めての経験でした。入るまでの手順の厳しさと、入った後のその現場の雰囲気。あれは、写真でも文書でも理解はできなかったと思う。行って見なければ感じることが出来なかった。どれだけ真剣にこの人たちが、ものを作っているのかということが。
もし、断られたら、製造現場は写真等の資料で見せてもらえばいいと考えてた自分が浅はかだった。その日、渕上さんはきっと自分の仕事で忙しいだろうに、嫌な顔一つせずに製造についてや、工程の細かい管理について丁寧に教えてくれた。
「少し休憩しましょうか」
全て見終わった後に、社員食堂で渕上さんが缶コーヒーを奢ってくれた。
「ありがとうございます」
「タバコは?」
「あ、僕は吸いませんがどうぞ」
「仕事中は吸わないようにしてますんで」
「ああ……」
「どうでした?工場」
「綺麗でした」
気の利いたことが言えなかった。
「それにすごかったです」
なにがどうすごいのかも言えない。また、笑われてしまった。
「すみません。工場のどこがどうすごいとかどう言っていいのか」
もし、ここにあの社長さんがいたら、行く末を案じただろう。
「うちの会社はね」
「はい」
「もともとは、普通のプラスチック成型をしてたんです。でも、頼まれて医療用のものを作るようになって、とある段階まで来た時に、当時の経営者が決断したんです。医療用のもののみに専念して、他のものを切り捨てようと」
決断という言葉に江上先生の言葉を思い出す。
「それでうまくいくのか不安に思った社員が社長に反対したら、これは誰かがやらなければならない仕事だから、どうせやるなら真剣にやろうと。それから、ただもう、研鑽に研鑽を重ねて。少しでも安全で安心できるものを作ろうと」
「はい」
「ただ、時代というのはもうそういうものではないのかもしれませんね。ただ、まじめにまっすぐにやっていたら、報われると言ったものではないらしい。ものを一生懸命作るより、お金かけて特許を取ったり、うちみたいなちっちゃな会社に裁判仕掛けたりして、ビジネスチャンスっていうのを広げるほうが賢いのかな」
「……」
また、何も言えなかった。渕上さんは不意に神妙な顔をした。
「うちの社長のこと、すみませんね。先生に失礼なこと言って」
「あ、いや……」
「やめるわけにいかんのですよ。こんなことで。未曾有の高齢化社会が来る。医療がビジネスチャンスだなんて考えで軽々しく参入してくるような輩には譲れません」
終始穏やかな顔をしていた渕上さんが、硬い顔をした。時刻は夕方になりかけていて、食事時を外した閑散とした食堂の広い窓から午後の光が入り込んで、渕上さんの顔を照らしてる。ただの平凡なおじさんが、この時、かっこよく見えました。
「我々も悔しいけど、社長が一番悔しいんです。あの人が一番この会社に対して責任を負ってますから。必死だから、つい、先生にもあんなことを。許してください」
そして、渕上さんは俺にきっちりと頭を下げました。
渕上さんの言葉で、社長さんに感じていたあの嫌な感じが、別のものに変わった。
そして、俺は天秤にかけた。あの社長さんや、渕上さんや、渕上さんと同じような気持ちで、あの綺麗な工場を支えている人たちと、榊原先生と。
自分はずっと、熱くなれる人を羨ましいと思いながら生きてきた。部活に頑張るやつとか、夢を語るやつとか。仲間を大切にして、皆を惹きつけるようなかっこいいこと言って、それが浮かないやつとか。
社会に出てみて、熱いということ、かっこいいということは、また、今まで自分が馴染んできたような少年漫画の中のヒーローとか、映画の中の何かとはまた違うようだった。大人のカッコいいは、熱いは、もっと簡単には見えないというか……。それは奥の方で静かに燃える、決して消えることのない火のようでした。長く続く、消えない火。人から人へと委ねられ、伝えられるもの。
勝てない何かを感じました。






