6 境界線
6 境界線
上条春樹 26歳
月城静香 32歳
春樹
1人で暮らし始めてから1ヶ月ほど経った頃、俺はやっと静香さんに電話をかけた。
「春樹君?」
懐かしい彼女の声だった。
「静香さん、久しぶり」
「久しぶり」
「遅くなってしまったけど、暎万のことでいろいろ相談にのってもらったお礼がしたくって」
「お礼?」
「うん」
「お礼なんていいのに」
「そんなこと言わないで。久しぶりにつきあってよ。静香さんの食べたいもの、なんでも奢ったげる」
「え〜」
「遠慮しないで」
彼女は、パエリアが食べたいと言った。
週末の夜、スペイン料理の店で待ち合わせた。
先に着いて、席に着くとじっと店の前の通りを行き交う人たちを眺めていた。そこに現れる静香さんが見たかったから。人というのは誰かと一緒にいる時と、全くの一人でいる時とで表情が違う。俺に見られてるのを知らないでいる彼女を見つめるのが好きだった。
そして、彼女が来た。
人のこと待たせてるのに、のんびりと歩いて来た。カランとベルを鳴らして店内に入ると、お店の人と一言、二言交わして、周り見渡して俺を見つける。
「ごめん、ごめん」
急いで席まで謝りながら来る。そのちょっとした演出のせいで、まるでずっと慌てて走ってきたような印象が出る。でもね、さっきまでのんびり歩いてたの、見てるからこっちは。
「何、笑ってるの?春樹君」
「いや、別に」
ずるいんだよな。心理のプロだからか、駆け引きがうまいというか……。でも、こういうところもかわいくて好きだった。
「お待たせ」
椅子に座る時に長い髪が揺れて、少しだけ彼女の香りがした。
出会ってから今まで、何度こうやって向かい合ってきただろう?お化粧をした彼女の顔を見つめてきただろう?その重ねられた日々の中で、いつのまにか覚えてしまった。彼女が好きな洋服は、口紅の色は、ピアスの形は、髪を耳にかける仕草や、元気そうにしてても疲れてるときの表情、口癖。
「どうしたの?春樹君。ぼーっとしちゃって」
「ああ、ごめん」
メニューを渡してあげた。
「パエリアは時間がかかるっていうから先に頼んどいたよ。他に何か前菜とか頼む?」
「うん。そうだね」
俯いてメニューを見ている彼女を眺める。
「スペイン料理、好きなの?」
「なんか、この、黄色い色が好きなのかな?パエリアの」
前菜をいくつかと、彼女にしては珍しくお酒を頼んだ。デカンタでくるサングリア。
「ああ、なんか甘すぎなくていい感じ」
一杯目を飲むと、そう言ってほんのり笑った。
「疲れてる?」
「え、わかる?」
「なんとなく」
「そういう春樹君のほうが疲れてるんじゃないの?」
「激務だからね。でも、まぁ、今はまだましかな」
彼女はもう一口サングリアを飲むと、ぼんやりとお店の天井を見ながら話し出した。
「昔ね、大好きだった本があって、ウサギがデリバリーしている話なの」
「デリバリー?」
「そう。それで、そのウサギの料理の秘密はオリジナルの香辛料なの」
「ファンタジー?」
静香さんは吹き出した。
「ウサギがデリバリーしてる時点でファンタジーに決まってるじゃない。やあねえ、春樹君」
「それもそうか」
「児童書なんてたいていがファンタジーでしょ?それでね、その香辛料をね、お客さんに盗まれちゃうの」
「窃盗罪の話か」
「ばかね」
彼女は軽くぽんと俺の腕を叩いた。
「お客さんは捕まらないし、そういう話じゃないの。それで、最初怒ってたり泣いてたりしてたウサギが気を取り直してもう一度一から香辛料を作り直すの」
「へ〜」
「その作り方が面白いのよ。魔法みたいなの。細かいとこわすれちゃったけど、夏の朝の空気を瓶に閉じ込めました。すると……、みたいなさ」
彼女は無邪気に話していた。彼女が子供の頃の話をするのは珍しかった。
「きっとパエリアの香辛料はね、お日様の光とかから作るのよ」
「静香さんはそのウサギが好きだったんだ」
「いいや」
「じゃあ、何が好きだったの?」
「泥棒の奥さん」
「へ?」
彼女はそっと笑った。
「新婚のその奥さんは、ご主人においしい料理を出したくて泥棒をしちゃうの」
「うん」
「ウサギが作った料理を自分が作ったって嘘をついたとこから、のっぴきならないことになっちゃうの」
「うん」
「愛って時に人を狂わせるわよねぇ」
さっきまでぴかぴかと笑っていたのに、ふとその時だけ、彼女は寂しそうに笑った。
しばらくするとパエリアがきた。お日様の色だと言って彼女は喜んだ。ゆっくり食事をして食べ終わると、レジで会計を済ませる。俺の後ろで待っていた静香さんはのんびりと言った。
「春樹君も大人になったね」
「ん?」
「高校生の制服着てた頃が懐かしい」
俺は笑った。
「出来の悪い年の離れた弟が、やっと一人前になったみたい?」
「わかんないな、わたし、一人っ子だし」
それから、彼女を駅の改札まで送る。
「別にそこまで送らなくてもいいよ」
「でも、今日はちょっと酔ってるよね?」
ハンドバッグ、ぶらぶらさせながら歩いている。改札の前まで来て彼女は俺を振り返った。
じゃあね、またねと彼女は言わなかった。
じゃあね、またねと俺も言わなかった。
そのまま、黙って少し見つめあった。
「静香さん、今まで長い間ありがとう。俺に付き合ってくれて」
周りをたくさんの人が通り過ぎていく。俺は彼女の両腕をそっと掴むと端っこに連れてった。
「今日で、消えます。静香さんの毎日から」
彼女は何も言わずに俺を見ていた。
「理由は……、言わないでもいいかな?」
そう言って苦笑した。彼女は笑わなかった。そっと口を開いて、そして、何か言いたそうにした。その瞬間、女の子みたいに無防備な表情をした。でも、それは一瞬だった。
「元気でね」
「うん」
お互いに俯いてしばらく黙った。
「希望は、いつか先の未来で再会したいな」
彼女がそっと顔をあげた。
「その時は今みたいなペーペーじゃなくてさ、ちゃんと先生とか呼ばれるような立派な弁護士になってるから」
彼女は口の端っこを持ち上げて小さく微笑んだ。
「そして、静香さんがもし法的トラブルに巻き込まれるようなことがあったらさ、真っ先に助けに行くよ」
「うん」
それから彼女は彼女の小さな手を持ち上げた。
「約束よ」
小指をそっと俺のほうに差し出してくる。人の忙しなく行き交う駅の傍らで、俺たちはそっと指切りをした。彼女の細い指に自分の指を絡めて。
「うん。必ず立派な大人になる」
そして、彼女は手を振って去っていく。背中を見送る。改札を抜けて……。
どうしてあの時、自分にそれがわかったのか、後になっても不思議だった。だって彼女は寂しそうではあったけど、落ち着いていたし、それに、俺から離れていく時、彼女はまっすぐ前を向いていた。一度もこちらを見なかった。
「ちょっと、あなた!なにしてんですか!」
「すみません。あの……」
気がつけば俺は駆け出して、そして、定期も切符も持っていないから当然改札に阻まれて、ピーピー音が鳴っている改札を……、跳び越えた。
そう、彼女と俺との間の境界線を、この時、跳び越えた。
「後で、聞きます。全部。ごめんなさい」
そばでワーワー言っている駅員さんに両手合わせて頭下げた後に、まだ視界の中にいる静香さんを追いかけた。
「静香さん」
追いついて、肩を捕まえて振り向かせる。驚いた顔した彼女は泣いていた。
「春樹君、どうしたの?」
「……なんで泣くの?」
視界の端に俺を追ってきた駅員さんが、俺たちの様子を見て離れた所で立ち止まってくれているのが見える。
「こんな風に泣かれたら、絶対忘れられないよ」
彼女は口を真一文字に閉じて、泣くのを堪えようとして、にらむみたいに俺を見る。こんな顔、初めて見た。静香さんのこんな余裕のない顔。堪えきれない涙が目尻から頬を伝った。俺はその涙を自分の指で拭った。
「俺、どうすればいいの?」
彼女はもう一度口を開いて、何か言いたそうにした。さっきと同じ、小さな女の子のような表情をして、でも、言えない。そして、もう一筋、涙を流す。その様子がかわいそうで、彼女の手を取った。手が冷たくて震えてる。もう一つの手を取って、二つ合わせて自分の両手で包んだ。
「泣かないで」
「……」
「どうすれば泣き止んでくれるの?」
片手でそっと彼女の肩を抱き寄せた。通り過ぎる人たちが興味深そうに俺たちを眺めていく。
その時、彼女のコートのポケットで携帯が震えた。その振動が自分にも伝わった。彼女は不意に魔法が解けたように、俺からそっと体を離して、そして、目元を拭った。ゆっくりとポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出して画面を眺めた。
「出ないの?」
「うん。いいの」
それから、携帯をポケットに戻した。そして、暗い目で俺をまっすぐ見た。
「春樹君、ごめんなさい。わたしのことは忘れてください」
「でも……」
「それがあなたのためなの」
有無を言わさぬ様子でそれだけ言うと、彼女はきちんとした足取りで今度こそ俺から去っていった。
「あの、君……」
「あ」
先程の駅員さんに話しかけられるまで俺はただばかみたいに彼女の去った方向を見ていた。
「お取り込み中のところをすまないんだけど……」
「いえ、すみません」
駅の控え室みたいな所で、一通りの注意を受けて、ただ、罰金とかを取られることはなく、俺は解放された。
静香
電車の中は混んでなくて座れる席がたくさんあったけれど、座る気になれなくて、立って窓ガラスに寄っかかって夜を眺める。夜の東京の街を。
あの時電話がかかってこなかったら、春樹君に向かって言ってしまっていたかもしれない。そばにいてほしいと。ずっと自分に禁じていた言葉を。
電話がかかってきてよかったんだろう。でも、手放しで喜べない。
なんてタイミング
この男はたまにしか来ないくせに、いつも妙なタイミングで来ては人に干渉する。
駅に着いた。ホームへ降りて改札へ向かう。暗い道を家へと歩く。
これでよかったんだ。何度も自分に機械的に言い聞かせる。暗い道を行きながら、まるで自分の未来のようだと思う。自分には明るく輝く未来が見えない。お日様の色が恋しい。
もう一度、涙がうっすらと滲んだ。
家へ着いてノブを回す。案の定、鍵は開いている。靴を脱いで奥へ行くとソファーに秀がいた。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね」
秀は立ち上がると、コートを脱いだわたしを後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
「外でご飯食べたんだ」
「人と会う約束があったのよ」
「男だろ」
答えないでいると、人の首筋に顔を埋めてきた。
「お前、かすかに男もんの香水の匂いがする」
「離して」
腕の中から逃れた。
「寝たの?そいつと。今日寝てから帰ってきた?」
「……」
「さっき電話した時、やってた最中だったりして」
手に持ってたハンドバッグを思い切り投げつけてやった。秀はバッグ投げつけられて笑った。
「静香、いっつも言ってるだろ?男は寝てみないと、いいか悪いかわかんないぞ」
そういうと、ひょいとローテーブルの上に載せてあった車の鍵を取り上げる。
「今日はお姫様の機嫌が悪いようだから、退散しようかな」
出ていきかけに声をかけてくる。
「今度こそ俺と縁切って、そいつんとこ行くの?」
「あなたに関係ないでしょ」
「そいつがお前のこと満足させられるやつだったらいいな」
そして出て行った。バタンとドアが閉じられて、一人取り残された。今頃、多分、別の女に電話かけてる。そういう男だ。とっくにわかってる。そして、そんな男を、もう何年も自分の生活から追い出そうとして、追い出せずにいる。それがわたしという女。
それが月城静香という女の正体です。春樹君。
あなたに見せないままで消えさせてください。あなたの毎日から。
春樹
自分は負けず嫌いな人間だとずっと思って生きてきた。だけど、最近気づいたことがある。自分は負けるのが嫌いなのではなくて怖いんだ。だから、何かを始める前によく考えるし、一度始めたら人から見えないところでの努力も怠らない。そして、まず、成功する見込みのないことにはトライしない。
だから、何も言わずに彼女の前から消えるつもりでした。
待ったらもしかしたら状況が変わるかもしれないと、費やした時間の長さを思いながら、静香さんは俺の過去になるはずだった。それなのに……。
どうして彼女はあんな風に泣いたのだろう?
泣きたいほどに焦がれていたのは自分だけのはずだったのに。
俺は一体、彼女の何を見てたんだろう?いつも自分のことばかり、自分の気持ちばかり考えてきた。静香さんは今、幸せなんだろうか?俺には語ろうとしない男といて、幸せなのか?幸せで満たされてる女の人が、年下の男と会えなくなるってだけで、あんな風に泣くか?
その数日間、自分はなにをしていても頭の片隅で彼女のことを考えていた。本当に文字通り、寝ても覚めても消えない彼女の面影を追っていた。そして、あの泣き顔を思い出した。あの、まるで小さな女の子に戻ってしまったように泣いてしまったあの顔を。
胸が痛んだ。
心臓の真ん中に太い針を刺されたように。あの顔は自分に消えない痛みを残した。
自分は今まで一体彼女の何を見てきたのだろう?こんなに長くそばにいて、彼女の中にある何かに気づかずにいた。そして通り過ぎようとしていた。
そして、数日悩んだあげく、静香さんに電話をかけた。出なかった。出られなかったのかと思って、何度かかけた。彼女は全ての電話に出なかったし、コールバックもしてこなかった。
今までの自分なら、それが彼女からの答えなんだと思って、何もしなかったと思う。
それが自分という人間なのだから。




