5 苦労は勝ってでもしろ
5 苦労は買ってでもしろ
春樹
「それでは遅くなったけど、上条君の歓迎会をします」
桜木先生が音頭を取って、4人で乾杯した。事務所近くの居酒屋の個室。頑張って仕事を片付けたけど、結局8時スタートになってしまった。
「それにしても貧乏くじ引いたな」
乾杯したとたんに桜木先生が江上先生の前でそんなこというのでぎょっとした。
「上条君って榊原先生の機嫌損ねるようなこと、何かしたの?」
「……」
そっと江上先生のほうを盗み見る。もくもくと枝豆を食べている。答えられないでいると、事務の佐々木さんがくすくす笑い出した。枝豆を食べていた江上先生が口を開く。
「上条君、別に気を使わないでいいよ。うちは榊原先生のとこみたいに大所帯じゃないし。僕はそんな気を使わないとすぐに機嫌を損ねるような人間じゃないから」
「はぁ」
「で、僕も気になっているんだけど。君、何したの?」
「……」
桜木先生は向かいの席から腕組みしたまま身を乗り出していて、江上先生はその横でまたロボットのようにもくもくと枝豆を食べながら返事を待っている。佐々木さんは横でカルピスサワーを飲むふりしながらやっぱり待っている。
「特に何もした覚えはないんですけど……」
「でも、高岡君と君だったら、普通は君を取ると思うんだけど」
「……」
「ま、でも、こっちはラッキーだったんだけどね」
「そうそう。あいつ、口ばっかりで周りに嫌な仕事を押し付けて、佐々木さんもずいぶん苦労したよねぇ」
桜木先生がそう言って佐々木さんに笑いかける。
「自分としては普通にしていたつもりだったんですが、生意気に思われたみたいで……」
「へいこらしなかったんでしょ?」
「へいこら?」
「ご機嫌取りだよ」
江上先生は眼鏡の奥からまっすぐ俺を見た。結構鋭い視線だった。
「ああ……」
榊原先生のことを思い出す。入所して下で働き出すまでは憧れの先生だった。何冊か著作を読んだことがあって。一緒に働き始めてみると、ちょっと残念な面をいくつか見た。正直がっかりした。がっかりしたけど、見下したりしていたつもりはなかったんだけど。
「君は外見で損してるね」
「へ?」
自分でもまぬけだったと思う。でも、すで驚いてしまって思わず変な返しになってしまった。初めて言われた。外見で損してるなんて。
「先生、何言ってんですか。外見で損してるっていうのはわたしや先生みたいな顔のことを言うんですよ。上条君の外見のどこが損してるって言うんですか」
「桜木先生、いつものことですがちょっと言い過ぎですよ」
佐々木さんがか細い声でとりなしている。
「相変わらず桜木くんは思慮が浅いな」
江上先生も乗ってくるとそれなりに口が悪い。わりとハラハラするな。この2人。
「榊原先生は上条君みたいな顔も良くて若くて弁護士やってるような子にへいこらさせるのが好きなんだよ。普通の顔の子だったら普通にしてたらそれで目に入らないが、顔がいいから余計に気を使わないと目立つんだ」
ボカンとした。たしかにその通りなんだけど、そういうことをされてる本人以外が把握していることは少ないと思う。
「ただね、榊原先生のために補足しておくけど、昔はあんな人じゃなかったから」
江上先生はそういいながらもずく酢を食べてる。
「偉くなってからコミュニケーションを取るのが難しくなったけど、きちんと懐に飛び込めばいろいろなことを教えてくれる人だよ」
「はい」
「君は失敗してしまったようだが、少しはへいこらするやり方も覚えたほうがいい」
さらりとそういうと、またもずく酢に戻る。戻ったところで桜木先生が噛み付いた。
「なんで上条君の歓迎会でそんな説教するんですか。せっかく来てくれたのに。先生がそんなだから高岡も辞めるとか辞めないとか騒いだあげく、榊原先生のとこ行っちゃったんじゃないですか」
「愚かだな、桜木君。終わり良ければ全てよしで、我々は高岡というモンスターと上条君をトレードできたではないか」
「そんなんたまたまですよ。上条君に口の利き方を説く前にご自身の口の利き方を直してください」
すると江上先生は眼鏡をきらりとさせた。さすがに怒ったかと思って見ていると、はははははと笑った。そして、こっちを見た。
「だからね、上条君。わたしみたいになりたくなかったらへいこらするやり方も覚えたほうがいい。心から言っている」
「……はい、わかりました」
江上先生は40代後半の先生で、事務所の中では中堅弁護士。他にも何人か江上先生のような中堅の人がいて、それぞれ自分より若い弁護士と一緒にチームを組んでいる。この中から選ばれた人が榊原先生のようなパートナー弁護士になれる。
自分は入所してからずっと榊原先生のところにいたが、江上先生のところにいた高岡とまるでものみたいに交換されてしまった。そして、顔と名前以外よく知らない江上先生のところで歓迎会をされているところだ。
「ま、でも、がっかりしたでしょ。榊原先生のところだったらお客さんも大手ばっかりだし、いろいろ勉強できただろうに」
「はぁ……」
先生はエイヒレにマヨネーズつけたのを持ったまま笑った。
「君は本当に下手くそだなぁ。そこはそんなことないですってとりあえず言っときゃいいのに」
「すみません」
「先生、また説教になってますよ。もう、やめてくださいよ。下が抜けるたびに苦労するの、俺なんですから」
そう言いながら、桜木先生は江上先生のおちょこに熱燗を注いでいる。
「江上先生と桜木先生はもう組んで長いんですか?」
すると2人でこっち見て笑った。
「先生が部屋もちなった時からだからそれなりの年数かな?」
ここでの部屋もちとはアシスタントから抜けてチームを組むことを言っている。
「長いですね」
「腐れ縁だよ」
「桜木君がいなかったらやってこられなかったなぁ」
桜木先生がぱっと顔を上げた。
「やめてくださいよ。気持ち悪い」
「お前も上条君と同じでへいこらする方法を勉強する必要があるなぁ」
それから、ぶっと2人で吹き出して笑い出した。結局仲がいい。
「いつもこんな感じなんですか?」
横にいる佐々木さんに尋ねた。
「そーですねー。こんな感じですかねー」
佐々木さんはそう言いながら、横でのんびりとポテトサラダを食べていた。
「あ、上条先生。全然飲んでないし、食べてないじゃないですか。だめですよ。上条先生の歓迎会なのに」
「すみません」
すると佐々木さんはきょとんとした後ににっこり笑った。笑うとたれ目になる子だった。
「謝んなくていいですよ」
「……」
それからだし巻き卵を俺の取り皿の上にぽんと載せた。
「とにかくなんでもいいから食べてください」
「はい」
言われるとおりにだし巻きを食べた。それをじっと見ていた佐々木さんが言う。
「上条先生ってもっと話しかけにくい人なのかと思ってました」
「え、そうですか?」
「上条先生」
席向こうから桜木先生が声を掛けてくる。
「佐々木さんはいいなと思っても彼氏いるからやめときな」
「ちょっ、先生!」
佐々木さんが横で怒った。
「なんで人の個人情報を勝手にしゃべってるんですか?訴えますよ」
「僕が担当しよう」
すかさず江上先生が言っている。
「そうは言うけど、希美ちゃん。交通整理のようなものだよ。一生懸命渋滞している道を進んだ先にあったホテルが満室だと困るんだよ、男は」
「わたしの前の道は渋滞なんかしていません」
「今、ここにいない彼氏君の代理人として言うけれど、君は無自覚に周りの男を誤解させるような行動や言動を取る人だから。上条先生、佐々木さんは万人に対して親切な人だから、この人のこれで勘違いしちゃだめだよ」
佐々木さんはもう一段ギアを上げて怒った。
「もう、会ったばかりの人にわたしのことあれやこれや言うのはやめてください」
江上先生は二人のやりとりを聞きながら、のんびり熱燗を飲んでいる。佐々木さんが俺の方を見た。
「上条先生、そんな光栄な日が来ることはないと思いますけど、もし、わたしでもいいと思うようなことがあったら言ってくださいね」
「はぁ」
「今の彼氏はいつでも処分しますから」
その佐々木女史の発言に現場にいた男3人が凍りつく。
「……」
江上先生の言うところのへいこらするためには、今、ここで何というべきか、さっぱり思いつかない。
「いいか、桜木」
「はい」
江上先生が口を開く。
「今の発言は議事録から抹消してなかったことにしよう」
「はい」
「気の毒な彼氏君の耳には一生入らないように」
「そんなにひどいこと言いました?わたし」
佐々木さんがあっけらかんとした声で言う。
「やだなー。冗談ですよ。冗談」
ころころと笑っている。冗談でも言っていいことと悪いことがあると、多分今ここにいる男全員が思っている。
「方向が一緒だから途中まで一緒に行こう」
帰り江上先生がタクシーを呼んで、二人で乗り込んだ。
「結局真面目な話は全然出来ずにすみませんでしたね」
「ああ、いえ」
結構飲んでいたと思うのだけれど、先生はあまり酔っていなかった。
「僕たちからしてみれば君が来てくれたのはありがたいのだけれど、君にしてみれば災難だったね。せっかくパートナー弁護士のチームに入れたのに」
「そんなことありません」
そういうと、はははと屈託なく笑った。
「僕に対してはそういうの、要らないから。必要としている人の前でさらりといえるように練習しておきなさい」
行き交う車のライトや街の灯りが先生の顔を照らしては通り過ぎてゆく。車中は暗くなったり明るくなったりを繰り返す。
「新人でパートナーに選ばれる子は結構期待されてるんだよ」
「外見で目立っただけで、きっと使ってみたら大したことなかったんですよ」
ついぽろりとそう言ってしまった。すると江上先生は少し驚いた顔をした。
「自分で自分のことをそんなふうにいうものではないよ」
そして、そう言ってくれた。
ああ、やっぱり。その時、そう思った。
江上先生ってかなり癖があってわかりにくいけど、すごくまともな人だ。まともな大人。
社会人になって大人の世界に入り込んだ時、その世界は今まで住んでいた世界と全く違った。おかしいじゃないか。自分はやっぱり地球の日本の東京にいるのに、なんだか別の星の東京に来てしまったみたいだった。
そして自分が何年も机にかじりついて入りこんだ弁護士という世界にいる大人達は、みんな、まともではなかった。
少しずつ違った形に歪んでいる。
エリートというのは歪んでいるものなのかと思った。見事に右を見ても左を見ても歪んだ人達がいて、そして、自分はその中で息をひそめた。
自分が歪んでないという事がばれたら、殺される気がした。この中で殺されずに生き残るためには、自分を歪めるしかない。
がっかりした。
大人の世界というものに。
祖父も父もこんな所で生きてきたのかと思う。こんな所で生きてきて、でも、家では2人ともまともだった。自分が何年も何年も頑張って自由と代償に手に入れたかったものはこんなものだったのか。
結局、ぐずぐずしているうちに殺されはしなかったけど、放り出された。拾ってくれた人が、俺が社会に出てから初めて出会ったまともな大人だった。なんだ。ちゃんと探せばまともな人がいるのかと今日思った。
「わたしはね、高岡君が辞めると言い出して、それでどうもわたしの悪口を言いながら何かの機会に上手に泣きついたみたいなんだよね。その時に、榊原先生が2人を交換したいと言い出したときに反対したんです」
ぽつりぽつりと話し出した。
「榊原先生はね、強いリーダーシップもあるし、とても優秀な方です。ただ、周りの顔色をうかがうような人ではない。特に下の人のね。昔からそうだったけど、今は特に偉くなってしまったからね。それに、今、榊原先生の周りには、先生のためを思って苦言を呈する人がいないんだよ」
「そうなんですか?」
江上先生はゆっくり頷いた。
「イエスマンばっかりになってしまった。裸の王様みたいな状態なんだ。だけどね。本当は榊原先生はいいことも悪いこともはっきり言ってもらいたい人なんだ。自分が否定されても相手に理があるとわかれば認められる人だった」
そう言って少し遠い目をした。
「表情とかから相手の心情を察することのできる人じゃないけれど、思いやる心は持っていたんです。だから、言ってくれないとわからないから直接言ってほしいといつも言われていた」
江上先生の顔が少しさみしそうだった。しばらくして先生は笑った。
「ああ、すみません。君の話をしていたはずなのに。酔っ払ってしまったかな?」
「あの……」
「僕は昔、榊原先生のアシスタントだったんですよ。僕と先生はね、今の僕と桜木君みたいな関係だったんです。今はもう変わってしまったけどね」
「ああ、そうだったんですか」
「本当はね、先生、周りの人達の気持ちが見えなくて不安なんじゃないかと思うんですよ」
驚いた。この前まで榊原先生を近くで見ていただけに。
「あの榊原先生がですか?」
「君みたいな若い子にはまだまだ見えないだろうなぁ」
いや、全然わからない。あの威風堂々として、周りにいつも人をはべらせている人が。
「周りにいつもにこにこといいことしか言わない人しかいない。だから、本当に自分が慕われているのかどうかわからなくて不安になるのだと思うよ。不安だからよりわかりやすく表情や態度に表してくれる人を求める。あからさまにおべっかを使ってくる人をね」
先生は静かな目でたんたんとそう話す。
「君はただ普通にしていただけ。でも、榊原先生は君に嫌われていると思ってしまったんだ」
「僕は先生を嫌ってなんかいません」
江上先生は笑った。
「そんなのは僕はわかってるさ。でもね、今の榊原先生にはわからないんだよ。毎日のように先生を尊敬していますと言ってあげないと、安心できないんだ。榊原先生は」
「……」
「高岡君は甘えるのが上手だっただけ。君よりもね。だから、君が外されたのは君の能力とは関係のないところでの話だから、気にしないでいい。できるかい?」
「……」
何か言いたくなった。自分のためにこんなに話してくれた江上先生のために。
「自分は……」
「うん」
「苦労は買ってでもしろと思ってますから」
「ん?」
少し恥ずかしくなった。でも、続けた。
「自分の身近には子供の頃に苦労して大人になった人がいて、でも、何の苦労もせずに大人になった自分には勝てないようないい所をいっぱい持ってるんです」
「うん」
「榊原先生のところには自分なんかより優秀な先生がたくさんいて、僕が一生懸命頑張らなくてもいいんです。それだと苦労していることになりませんから……」
江上先生は、はははと笑った。声をあげて。
「今の答えはなかなかよかったよ。合格だ」