3-3 滝の名
横山の言葉は、そこでいったん尽きたように見えた。だが、沈黙は終わりではなかった。次に出す名を、横山自身がまだ口の中で量っている。そんな沈黙だった。
机の上には、絢美のノートが開かれたままになっている。その脇に、再開発資料の束があった。厚い紙。企業ロゴ。行政提出用らしい落ち着いた色調。学術論文の紙とは質が違う。
記録するための紙ではない。通すための紙だった。
横山が、ようやく口を開いた。
「この調査費用は、大学の通常予算だけではありませんでした」
舜一は顔を上げた。
横山は視線を少しだけ外した。責任逃れというより、言葉の順番を探している顔だった。
「外部資金が入っていた。共同研究という名目です。都市空間と民俗的記憶の接続可能性。題目としては、いくらでも整えられる」
「出したのは」
舜一が訊いた。
一拍置いて、横山が言った。
「滝です」
滝。その名が、研究室の空気の中で妙に硬く鳴った。
絢美の口から聞いたことがある。昨夜の告知に混じっていたのかもしれない。だが今、地誌と神社誌と再開発資料の間から出てくると、ただの企業人の名ではなくなった。
紙の束の下から、別の資料の端が覗いている。
洗練されたロゴ。
都市体験の最適化。
群衆流動解析。
景観演出。
舜一は無意識に、その文字を目で追っていた。追ってしまうこと自体が、もう嫌だった。
横山が言った。
「滝誠一郎。再開発の案件に強い人間です。行政と事業者の間を繋ぐ。人の流れを数字にする。見せ方を設計する。……そういうことに長けている」
説明というより、分類だった。名前が紙の上の見出しと同じ種類の言葉に乗せられていく。
再開発。解析。可視化。設計。
どれも、怪しい言葉ではない。むしろ、怪しくないために磨かれた言葉だった。読みやすいフォント。青と灰色でまとめられた図表。
その整いの中に、昨夜の光が一瞬だけ混じった気がした。
大型ビジョン。補正された笑顔。倒れる絢美。
舜一は資料から目を外した。
「絢美は、その会社の仕事で調べてたんですか」
横山は首を横へ振る。
「そう単純ではありません。あくまで学術調査の体裁は取っていたし、私はそのつもりで受けた。民俗が都市計画へどう読み替えられるか。古い語りが現代の人流設計に何を与えるか。研究テーマとして、ありえないわけではない」
岩崎が黙って資料の表紙を見た。舜一も見る。
都市体験の再設計。
その文字だけが、なぜか他より濃く見えた。インクが濃いわけではない。目の側が勝手に拾っている。
「ただ」
横山の声が少し低くなった。
「滝が本当に見ていたのは、土地の由来そのものではなかった」
横山はノートの余白を見て、それから地図を見た。
「彼が執着していたのは、人が何に反応するかです。どこで足を止めるか。どの角度からなら視線が集まるか。何秒見せれば印象が残るか。どう配置すれば群衆の動きが変わるか」
研究室の蛍光灯が、低く鳴っている。
「場所に宿る記憶ではない。場所が、人間にどう作用するか。その反応の型のほうを欲しがっていた」
舜一の胃の底が、ゆっくり冷えた。
昨夜の交差点が戻る。
赤信号。上がる顔。光。音。同じ画面。別々に壊れていく身体。
言葉にしようとすると、舌の奥が苦くなった。
「最初は、都市論の言い換えだと思いました」
横山は苦く笑った。
「人は導線の中を生きる。視線の集まる場所で行動を変える。そういう話としてなら、いくらでも整えられる。ですが……打ち合わせを重ねるうちに、違うと感じるようになった」
「違う?」
岩崎が訊いた。
「由来や意味を知りたいのではないんです。意味は後でいい。まず、どう反応するか。その順序が、あまりに露骨だった」
横山はそこで口を閉じた。
舜一は、机の上の企業パンフレットを見た。表紙の街並みは明るく、清潔で、人が適度な距離を保って歩いている。現実の渋谷とは違う。だが、誰かに見せるための渋谷としては、よく出来すぎていた。
その表紙の隅に、M-KADOの小さなロゴがあった。
舜一は指先が冷えるのを感じた。
岩崎が静かに訊く。
「M-KADOも、その延長だと思ってるんですか」
横山はすぐには答えなかった。
机の端に置かれたパンフレットの束へ視線をやる。舜一もそれにつられて目を向けた。
都市体験の最適化。群衆流動解析。景観演出。
並んだ言葉が、紙の上で静かにこちらを見返している。
「断定はできません」
横山は言った。
「ですが、無関係だとも思っていない。街を設計するという発想の人間が、最後に画面へ手を伸ばすのは不自然ではない。いま人は、建物そのものより、画面越しに街を受け取る時間のほうが長いのだから」
舜一は息を吐こうとして、うまく吐けなかった。
画面越しに街を受け取る。その言葉が、昨夜の残光と重なった。
整えられた夜景を見たあと、現実のほうが崩れた。
舜一はパンフレットの角を見た。紙の端が、ほんの少し反っている。押せば戻る程度の反りだった。だが今は触れなかった。触れた瞬間、反りだけでなく何か別のものまで戻ってしまいそうだった。
横山がノートをもう一度めくった。
本文ではなく、余白を見る。矢印、略記、短い単語。その中の一つに指が止まる。
「そういえば」
舜一と岩崎が同時に横山を見る。
「三澤さん、途中から妙に気にし始めた名がありました」
「何です」
舜一の声は、自分でも少し急いていた。
横山は、余白から目を上げずに答えた。
「将門です」
将門。
研究室の空気が、一段低くなった気がした。
平将門。首塚。祟り。東京の古い怨霊伝承。
名だけなら知っている。だが、知っているはずの名が、今は妙に遠く、同時に近かった。
舜一の視線が、机の上を勝手に滑る。
神社誌。古い地誌。再開発資料。都市体験の再設計。M-KADO。将門。
それぞれ別の紙に載っているはずのものが、目の中で一瞬だけ重なった。
吐き気に似たものが、喉元まで上がる。
舜一は唾を飲み込んだ。
「ノートにも、何度か書いていたはずです。社寺縁起を洗っている途中で引っかかったのか、地誌の記述から繋がったのか……そこまでは覚えていない。ただ、本人は単なる伝承名以上のものとして見ていた節がある」
「先生は?」
横山はそこで初めて、はっきり首を振った。
「私は、東京にいくらでもある古い怨霊伝承の一つとしか思っていませんでした。将門の名は強い。強い名は、土地の由緒や社寺の伝承にしばしば紛れ込みます。だから最初は、その程度のものだと」
その程度。舜一の腕に、細く鳥肌が立った。
怖いのは名そのものではなかった。その名が、いまこの机の上に置かれたことだった。
整ったパンフレットの横。歩行導線の矢印の上。M-KADOの小さなロゴのそば。絢美のノートの余白。
古い名が、現代の資料の中に落とされた瞬間、紙の白さまで少し変わったように見えた。
横山はノートを閉じた。
「正直に言えば、私はその時点で深追いしませんでした」
その告白は、言い訳にも後悔にも聞こえた。
「三澤さんの関心は、いつも少し先に行きすぎるところがある。そこが彼女の資質でもあるのですが……今回は、私のほうが、まだ学問の棚の中で片づけられると思っていた」
舜一は返事をしなかった。
責める言葉は浮かばなかった。浮かんだとしても、口に出す場所がなかった。
机の上の資料が、静かに積まれている。
都市体験の再設計。将門。
その二つの文字が、紙の上では離れているのに、舜一の目の中では離れなかった。
研究室を出るとき、舜一が持っていたのは答えではなかった。
名だけだった。
将門。
その二文字だけが、喉の奥に引っかかったまま残っていた。




