第二十四章「一杯の水」
――冷たい水が、唇に、触れた。
俺は目を開けた。
白い天井。消毒の匂い。規則正しい電子音。火でも、地の底でもない。前の世界の病院の天井だった。
俺は、帰ってきたのだ。
体を起こそうとして、腕に点滴の管が、繋がれているのに気づいた。喉が、渇いていた。枕元に水差しと、コップが、置いてあった。震える手で、それを、取ろうとする。
「あ、起きた。無理しないで」
声がした。若い消防隊員だった。俺の後輩だ。あの火事の現場に、一緒にいた。彼が、コップに水を注いで、俺に手渡してくれた。
一杯の水。
俺はそれを、受け取り、飲んだ。こくりと喉が鳴った。冷たい水が、渇いた体に、沁みていく。ずっと、掬い続けて、乾いていた体に。
「桧山さん、覚えてます? あの現場」後輩が、言った。「三階の逃げ遅れ。桧山さん突っ込んでいって、あの人を抱えて、飛び降りたんですよ。直後に天井が落ちて。二人とも、下の隊員が、受け止めて。……あの人、助かりました。桧山さんのおかげです」
俺はその言葉を、しばらく、飲み込めなかった。
助かった。あの三階の逃げ遅れが。
前の世界を去るときに、消せなかった、あの窓の右端。二度、間に合わなかった、あの一人。今度は――間に合った。俺が抱えて、飛んで下の手が、受け止めて。一人じゃ、なかった。だから、掬えた。
俺は天井を見上げた。あの頭の地図の三階の右端。ずっと、消えなかった、あの一点が。
今はそこに、何も、なかった。ただ、白い静かな天井が、あるだけだった。
夢を、見ていた気がした。長い、長い夢だ。焦げた空と、井戸を数える日々と、木の椀。一杯ずつ手渡す水と、掬われた少女と、老いた火番と、乾いた王の夢を。
夢だったのか、どうか。俺には、分からなかった。だが、掌にはまだ木の椀の木の温もりが、残っている気がした。一人で、燃え尽きるな。掬った者に、次を、掬わせろ。あの言葉の確かな重みが、胸に残っていた。
病室の窓から、街が、見えた。
日が、暮れかけていた。空は青から、朱へ、変わっていく。あの乾いた世界の焦げた空を、思い出した。だが、この空の朱は、灰禍の朱じゃなかった。ただの夕焼けだった。じきに、夜が来て、また朝が来る。当たり前の空だった。
あの後輩が、俺の水差しに水を、足してくれた。
「桧山さん、うなされてましたよ。ずっと水がどうとか、掬うとか、一人で燃えるなとか」後輩が、笑った。「よっぽど、水の夢、見てたんですね」
「……ああ」俺は、コップの水を、見た。「いい夢だったよ。長い、長い夢だ」
蒲生司令の消息も後輩から、聞いた。あの日、別の署の管轄だったはずの現場に、なぜか蒲生も来ていたらしい。そして、俺が飛び込むのを見て、下で受け止める指示を出したのだという。切り捨てろ、と言い続けた男が。
俺は蒲生に、会いには、いかなかった。礼も、言わなかった。ただ、あの乾いた世界で掬った、白髪の男のことを思った。会わなくても、いい気がした。たぶんそれでいい。あの男は、あの男の場所で、残火を掬っている。俺は、俺の場所で、掬えばいい。
退院してから俺はまた、水利調査の仕事に、戻った。
街じゅうの井戸と消火栓と、水槽を一つずつ、歩いて覚えて地図に落とす。誰も、褒めない仕事だ。相変わらず、地味な紙きれを、抱えて路地を歩く。
だが、俺の目には前とは、違うものが映っていた。
同じ、水利図だった。同じ消火栓と、防火水槽の印。同じ、地味な紙きれ。かつて蒲生に、お前が救えるのは地図に載ってる範囲だけだと言われ、言い返せなかったあの一枚。まだ井戸なんか数えてんのかと、笑われた、あの仕事。
だが、俺はもう、知っていた。地図に載っている範囲は、俺が律儀に一つずつ、こぼさず数えれば数えるほど広がっていく。そして、その地図は、俺一人のものじゃない。皆で分け合えば、一人の器では届かない火にも、届く。
神社の裏のあの埋もれた防火水槽を、また見にいった。落ち葉をどけて、蓋を、確かめる。水は、生きていた。いつかこの一つがまた、誰かの町を、救うかもしれない。あの老婆が、手を合わせた、あの水槽が。
この地図は、無駄なんかじゃ、ない。この一つずつの水の在りかが、いつか誰かを掬う。一人でじゃ、ない。この地図を、皆で、分け合って。掬った者が、次を、掬って。
同じ仕事を、していた。だが、俺はもう、うつむいていなかった。
ある日テレビが、遠くの街の火事を、映していた。
炎に包まれた建物。逃げ惑う、人々。俺は、その画面を、見て思った。あの火は、斬れない。放水で、殴り合っても、勝てない。だが、延焼は、止められる。どこで、防火線を引くか。どこに、水があるか。それを、知っている者が、一人でもいれば。
そして、掬った者が、次を掬えば。火より速く、掬い方は、広がる。
画面の中で消防隊員たちが、放水し逃げ遅れを、掬い出していた。一人が一人を抱える。その後ろで、別の一人が、また別の一人を。誰も一人で、全部を、背負ってはいなかった。持ち場を、分けて水を、繋いで。あの乾いた世界の手渡しの列と、同じだった。
俺はいつのまにか、そういう目で、火を見るようになっていた。斬る目でも、逃げる目でも、ない。掬う目だ。あの乾いた世界で、覚えた目だった。
もしまた、あの窓の右端のような場面に、出会っても。今度は、俺は、凍りつかないだろう。一人で、抱えようとも、しないだろう。隣の手を信じて掬う。こぼした分は、次の手が、拾う。そう、知っているから。
その日の帰り道。
小さな公園の水飲み場で、子どもが水を、飲んでいた。俺が通りかかると、その子は両手で水を、掬って俺に差し出した。
「おじさんも、飲む?」
理由なんて、なかった。ただ、水を掬って、手渡す。それが、面白いという、顔だった。焔の教えも、選別も知らない、まっさらな手だった。
俺はしゃがんで、その掌の水を、受け取った。
一杯の水。手から、手へ。
「ありがとう」俺は、言った。「こぼすなよ。次の子の分が、なくなる」
その言葉が、口を、ついて出た。あの乾いた世界で、子どもたちに、何度も言った言葉。ネルに、渡した言葉。掬い方のいちばん、はじめの一行。
子どもは、きょとんと、俺を見た。それから、うなずいて、言った。
「うん。こぼしたら、ぼくが、拾う」
俺は思わず笑った。こぼした分は、次の手が、拾う。この子は、誰にも、教わっていない。ただ、水を掬って手渡すことが、面白いだけだ。だが、その手がもう、掬い方を知っていた。
掬い方は、こうして、伝わっていく。火より、速く。国も世界も越えて。まっさらな手から、次の手へ。
子どもは笑ってまた、水飲み場へ、駆けていった。
俺はその背を、見送りながら、立ち上がった。
胸の奥で、あの言葉が静かに、よみがえった。あの乾いた世界で、何度も、口にした言葉。火番の親父の椀に、注がれ続けた、一杯の意味。
火は、斬れない。
俺はそれを、この街の誰よりも、知っていた。何年も、そのことに、うつむいてきた。強くなれないと、切り捨てられ、燃え尽きようとしてきた。
だが、今は違った。
火は、斬れない。――掬うんだ。
俺は水利図を抱え直して、夕暮れの街を、歩き出した。
どこかで、誰かが、渇いている。どこかで、火が、燻っている。だったら俺のこの地図が、要る。一杯の水を、手渡す手が、要る。
どこかで、誰かが、渇いている。どこかで、火が、燻っている。だったら俺のこの地図が、要る。一杯の水を、手渡す手が、要る。
いつかまた、大きな火に、出会うかもしれない。一人では、掬いきれない火に。そのときは、隣の手を、借りればいい。掬った者に、次を、掬わせればいい。俺は、水の在りかを、示すだけでいい。この恥じることのない地図で。
明日も俺は、井戸を、数えにいく。
地味で無駄に見える、その一つずつがいつか誰かの掬う手になると知っているから。
火は、斬れない。
だが、掬える。一杯ずつ、手渡して。この街のいちばん奥のいちばん渇いた誰かまで。
(完)




