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転生消防士と、世界を焼く選別の王  作者: もしものべりすと


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第二十三章「木の椀」

俺の手は、ゆっくりと光へ、還ろうとしていた。


地上へ出ると、大陸は久しぶりの青い空の下にあった。灰禍は、鎮まった。焦げていた空が晴れ乾いていた大地に、水の道の水が細い筋となって、流れ始めていた。人々が、その水のそばに、集まっていた。掬い掬われた、いくつもの手が。


俺の体が、還ろうとしていることに、ネルは気づいていた。


「行っちゃうの」ネルが俺の透け始めた腕を、見て言った。「あんた、前の世界に、帰るの」


「そうみたいだ」俺は、自分の手を、見た。「掬う仕事が、終わったからかな。呼ばれてるんだ。元いた場所に」


ネルは、しばらく、黙っていた。焼け残りと呼ばれ、置いていかれてきた子だ。別れには、慣れているはずだった。だが、その顔は置いていかれる者の顔じゃ、なかった。惜しむ者の顔だった。


「あたし、あんたに掬われた」ネルが、言った。「火の中から。焼け残りって、呼ばれてたあたしを、生き残りだって言ってくれた。あたし、あの一言で、生きてていいんだって思えた」


「その言葉、覚えてるか」俺は、言った。「焼け残りじゃ、ない。生き残りだ。何度でも、言ってやる。お前は、火の中から、生きて出てきた。その火傷は、隠すもんじゃない。生き残った、勲章だ」


ネルの目に、涙が、盛り上がった。今度は、拭わなかった。流れるままに、しておいた。


俺はふところから、木の椀を、取り出した。ガランが、握らせてくれた、あの椀。縁が欠けて、色の抜けた、火番の親父の形見。この世界で一杯ずつ、水を手渡してきた、椀。


それを、ネルに、差し出した。


「これをお前に渡す」


「……いいの? ガランの形見だよ」


「ガランは、言った。これを次の手へ渡せと」俺は、言った。「俺の次の手は、お前だ。ネル。掬われたお前が、今度は、掬う番だ。この椀で、一杯ずつ、手渡していけ。こぼした分は、次の手が、拾う」


ネルは両手で、その椀を、受け取った。壊れやすい暖かいものにでも、触れるように。あの初めて会った日、俺の台帳にそっと触れた、あの手つきで。


思えばあの日から、この子はずっと、俺の隣にいた。井戸を覗く俺の後ろを、黙ってついてきていつのまにか、水位を読むようになり台帳を書き取るようになった。俺が乾いて倒れるたびに、この椀で、水を汲んでくれた。一人で全部を掬うなと、ガランが言ったその言葉のとおり、俺の隣にはいつもこの子の水を汲む手があった。


俺が割れずに、ここまで来られたのは、ネルがいたからだ。ガランが、いたからだ。俺は、一人で、掬ったんじゃない。掬わせて、もらったのだ。


「あたし、掬うよ」ネルが椀を胸に抱いた。「焼け残りたちを、束ねる。掬い方を、教える。あんたの台帳を、配って水を、開けて回る。あんたが、いなくなっても、掬い方は消えない。人から人へ、燃え広がる。火より、速く。あんたが、そう、教えてくれた」


俺は、うなずいた。それだけで、もう、十分だった。


少し離れて、蒲生が、立っていた。


もう灰王の甲冑は、着ていなかった。ただの老いた男が、水の流れを、見つめていた。俺はそちらへ歩いた。


「あんたは、帰らないのか」俺は、聞いた。蒲生も、前の世界から、落ちてきた男だ。俺と、同じように、還れるのかもしれなかった。


蒲生は首を横に振った。


「俺は、残る」蒲生は、言った。「この世界を、焼いたのは、俺だ。まだ残火が、あちこちに、燻っている。乾いた心が、乾いたままの町が、まだたくさんある。それを、掬って回るのが俺のこれからの仕事だ。……お前に、教わった、掬い方で」


残火。燃え尽きたと思っても、灰の下でまだ、燻っている火。放っておけば、また、燃え上がる。前の世界でも消防士は、火が消えた後必ず、残火を確かめた。ここが、いちばん、気を抜けない。鎮火に見えて灰の底でまた、火が育つことが、あるからだ。


蒲生がこれからやろうとしているのは、そのいちばん地味で、いちばん長い仕事だった。焼いた者だけが、その灰の重さを、知っている。乾かした心の渇きを、知っている。だから、蒲生の渡す水はいちばん深くまで、届くはずだった。それを、一つずつ、消して回る。それが、火を灯した者の償いだった。


「あんたなら、できる」俺は、言った。「あんたは誰よりも、乾いた心を、知ってる。乾いた奴の渇きが、分かる。だから、あんたが水を渡せば、いちばん深くまで届く」


蒲生は、手の中の椀を見た。俺が、掬えばいいと言って、握らせた椀だ。彼はその水を、じっと、見つめていた。何十年ぶりかで掬う側に、回ろうとする者の迷いと決意が、その横顔にあった。


「一人で、抱えるなよ」俺は、言った。「あんたのいちばんの間違いは、それだった。掬った者に、次を、掬わせろ。あんたの隣にも、いつか水を汲む手が、増える。そうしたら、あんたはもう、割れない」


蒲生は、小さく、うなずいた。その目にあの暗い火はもう、なかった。


蒲生は俺を見た。前の世界で俺を、使えないと呼び続けた、あの目じゃなかった。


「桧山」蒲生は、言った。「あの夜お前を、切り捨てろと、止めて悪かった。俺はお前が、俺と同じ地獄に、落ちるのが怖かった。だが、お前は俺と、違う道を見つけた。掬う手を、増やす道を。……お前のほうが、強かった」


「強くなんか、ない」俺は、言った。「俺には隣に、掬う手が、あっただけだ。あんたには、それが、なかった。ただ、それだけの違いだ」


俺はふと前の世界のあの窓の右端を、思った。


何年も頭の地図から、消せなかった、あの白い影。俺が動けなくて、燃やしてしまった、一人。俺はずっと、その一人を一人で、償おうとしてきた。燃え尽きることでしか、許されないと、思っていた。


だが、今は違った。あの一人は、もう俺を、責めてはいない気がした。俺はこの世界で、たくさんの逃げ遅れを、掬った。一人でじゃない。皆で。掬い方を、変えて。あの窓の右端の分も、含めて。償うんじゃない。次を、掬う。それがあの一人へのたった一つの返し方だった。


胸の奥のあの窓の位置が、初めて少しだけ、遠くなった。消えたわけじゃない。だが、もう俺を、焼いてはいなかった。


俺の体が、また一つ、光に溶けた。腕が肩が、白く、透けていく。もう時間がなかった。


俺はネルを焼け残りたちを、水のそばに集まった人々を、見渡した。掬い掬われた、いくつもの手。俺が、いなくなっても、その手は残る。掬い方は、この世界に、根を張った。もう、大丈夫だ。


「達者でな」俺は、言った。「一人で、燃え尽きるなよ。一杯ずつだ。焦らなくていい。こぼした分は、次の手が、拾う」


水のそばに集まった人々が、俺のほうを、見ていた。


最初の集落の年老いた男。塞がれた井戸を開けた町の女。市場の火を止めた、乾いた商都の水商人。寝返った、灰王の兵たち。腕に火傷の痕のある、焼け残りたち。俺が一杯ずつ、水を手渡してきた、いくつもの手がそこにあった。


誰も俺を、変人とは、呼ばなかった。井戸を数える、無駄な男とは。彼らはただ掌を胸に当てて、去っていく俺を、見送っていた。あの神社の裏で、俺に礼を言った老婆のあの手つきで。


俺のたった一人でやってきた、地味な仕事は、無駄ではなかった。このいくつもの手が、その証だった。


ネルが木の椀を掲げた。その椀に水の道の水が、青い空を映して、光っていた。


「ヒヤマ」ネルが、叫んだ。「あんたのこと、忘れない。水の人。井戸を数える、変な人。あたしを、生き残りにしてくれた人」


その声を、最後に。


俺の視界が、白く、溶けていった。


火でも、崩れる音でもない。ただ、静かな水の音の向こうへ。


この世界で、最後に聞いたのは、ネルの声だった。生き残りの声だった。忘れることはきっと、ないだろうと、思った。

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