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第96話 篠原夏希の未完了

翌日。


俺たちは、地下演習室に集まっていた。


机の上には、三つ。


帰還空欄。


第二栞。


そして、白くなった名札の一枚。


そこに薄く浮かんでいる文字。


【篠原夏希】


【未完了記録】


【第三幕起点】


ついに来た。


この名前に。


ナツキ・シノハラ。


未承認職【脚本家】。


神の台本から外れた少女。


第三幕を作った人物。


そして、帰還未完了者。


ここまで何度も名前だけが出てきた。


声だけが残っていた。


記録だけが導いていた。


けれど、本人には届かなかった。


生きているのか。


死んでいるのか。


帰ったのか。


残されたのか。


それすら分からない。


「アキト」


リュミエルが隣から言った。


「顔が、見に行く顔です」


「見るだけならいいんじゃないか?」


「よくありません」


即答だった。


厳しい。


でも、今日は特に正しい。


俺は自分の頬を軽く叩いた。


「見るのは本文じゃない」


「はい」


「確認するのは、外側記録。起点。接続条件。本人意思の残存」


「はい」


「ナツキ本人を、俺たちの答え合わせに使わない」


リュミエルは少しだけ目を細めた。


「その言い方なら、いいです」


合格。


一応。


フィン先生が黒茶を机に置いた。


今日も黒い。


もはや安心感すらある。


嫌な安心感だけど。


「目的を確認する」


先生の声で、全員が黙った。


「今日は、篠原夏希の未完了記録を確認する。ただし、救出作戦ではない。帰還作戦でもない」


レオンが頷く。


「本人が何を選びたかったのかを確認する」


「そうだ」


カサンドラ副院長が、保護規定の紙束を開く。


「開示条件は三つです。一つ、本人意思を推定で確定しない。二つ、黒鐘廊経由の本文は読まない。三つ、記録開示によって帰還記述保管者の本名照合へ接続しない」


「つまり、また難しいやつね」


セリアが腕を組んだ。


「簡単な日があったか?」


ヴァイスが言う。


「ないわね」


「なら諦めろ」


「腹立つけど正論」


ミラが机に肘をつく。


「ナツキってさ、アキトと同じ日本語名なんだよね」


「ああ」


「気になる?」


「なる」


俺は正直に答えた。


隠しても顔に出る。


どうせ。


「めちゃくちゃ気になる。前世と同じ世界から来たのか。俺と同じように転生したのか。何を見て、何を諦めて、何を残したのか」


そこで一度、言葉を切る。


「でも、気になるからって踏み込んでいい理由にはならない」


ミラは小さく笑った。


「成長してるじゃん」


「九十六話だからな」


「何の数字?」


「気にするな」


危ない。


世界の外の話をしそうになった。


ヴァイスが反転板を三枚並べる。


「未完了記録を開く。全員、記録本文を見るな。表示するのは外側情報だけだ」


「本文が勝手に出た場合は?」


ノルンが聞く。


「即時遮断します」


副院長が答える。


「発話保護は私が支えます」


ノルンの声は、もう震えていなかった。


少しだけ。


でも、ちゃんと前に出ている。


トーヤが盾を持つ。


「道を守る」


レオンは剣を鞘に収めたまま、前に立つ。


「抜かずに使う」


セリアが炎を灯す。


「照らす」


ミラが影に片足を入れる。


「裏を見てくる」


リュミエルが俺を見る。


「問い直します」


ヴァイスが反転板に手を置く。


「解析する」


俺は白い注釈枠を展開した。


「差し戻す」


フィン先生が頷く。


「始めろ」


ヴァイスが、白くなった名札へ魔力を通した。


薄い文字が浮かぶ。


【篠原夏希】


【職能:脚本家】


【状態:帰還未完了】


【分類:生存判定不能】


【死亡判定不能】


【校閲済み判定不能】


【第三幕起点】


「判定不能ばっかりだな」


俺は呟いた。


ヴァイスが答える。


「黒鐘廊にも神殿にも確定できなかったという意味だ」


「つまり、決められなかった?」


「違う」


ヴァイスは反転板を見たまま言った。


「決めさせなかった、可能性がある」


その言葉に、胸が鳴った。


決めさせなかった。


ナツキ・シノハラは、最後まで自分の結末を渡さなかった。


画面が揺れる。


次の外側記録が浮かぶ。


【未承認職:脚本家】


【異能:筋書き干渉】


【神の台本との不一致を検出】


【第二幕強制進行を拒否】


【第三幕を外側記録として仮生成】


俺は息を呑んだ。


第三幕。


救出劇ではない。


帰還劇でもない。


選択の保護。


それを作ったのは、ナツキだった。


「脚本家って、かなり危ない職能だな」


セリアが言う。


「筋書きに干渉できるってことは、誰かの行動を決められるってことでしょ?」


「だから未承認だったんだろうな」


俺は答えた。


「使い方を間違えれば、神の台本と同じになる」


筋書きを書く。


それは、誰かの未来を書くことだ。


かっこいい能力に見える。


でも、怖い。


主人公を勝たせる。


ヒロインを救う。


敵を倒す。


読者を泣かせる。


全部、書き手にとっては快感かもしれない。


けれど登場人物からしたら、たまったものじゃない。


ナツキは、たぶんそれを知った。


だから第三幕を、救出劇にも帰還劇にも、しなかった。


選択の保護にした。


「外側記録、続きます」


ヴァイスが言った。


反転板に、新しい文字が浮かぶ。


【記録断片】


【発話残響あり】


【再生しますか】


全員が俺を見る。


やめてくれ。


俺を見るな。


いや、見るよな。


俺は息を整えた。


「本文じゃない?」


ヴァイスが確認する。


「発話残響だ。全文再生ではない。だが誘導が混じる可能性はある」


「ノルン」


「発話保護を張ります」


「リュミエル」


「違和感があれば止めます」


「副院長」


「記録同意の範囲外へ出たら遮断します」


俺は頷いた。


「再生する。ただし、一文ごとに止める」


ヴァイスが反転板に触れた。


音がした。


紙をめくる音。


でも、さっきまでの嫌な音とは違う。


古いノートを開くような音だった。


そして、声が届いた。


若い女の子の声。


少し早口。


少し疲れている。


でも、まだ笑う余裕を捨てていない声。


『これを聞いている人へ』


そこで再生が止まる。


俺は息を止めていたことに気づいた。


「続けるか?」


ヴァイスが聞く。


俺は周囲を見る。


全員が頷いた。


「続けて」


声が戻る。


『まず最初に言っておく。私を助けるために、誰かを犠牲にしないで』


止まる。


その一文で、もう胸が苦しかった。


ナツキは分かっていた。


自分が、誰かの目的になることを。


救出対象になることを。


誰かの正義に使われることを。


「続けて」


『私を帰すために、誰かの帰りたいを奪わないで』


止まる。


ミラが俯いた。


第一帰還者。


彼女には、その言葉の重さが分かるはずだ。


「続けて」


『脚本家のくせに、私は筋書きを書きたくなくなった』


止まる。


セリアが小さく息を吐く。


レオンが目を伏せる。


ヴァイスの眉が動く。


俺は、ただ聞いていた。


『だって、私が綺麗な結末を書けば書くほど、誰かがその結末に押し込まれる』


止まる。


痛い。


これは痛い。


脚本家。


物語を組む者。


その能力の核心を、本人が怖がっている。


『勇者が勝つ筋書き。聖女が祈る筋書き。裏切り者が死ぬ筋書き。犠牲者が感動的に笑う筋書き』


止まる。


リュミエルが手を上げた。


「一度、停止」


ヴァイスが再生を止める。


「どうした?」


「感情誘導が強いです」


「敵性?」


「いいえ。ナツキ本人の後悔だと思います。ただ、受け取る側が背負いすぎる可能性があります」


その視線が俺に来る。


はい。


分かっています。


俺は背負いそうです。


「大丈夫」


俺は言った。


「今のは、ナツキの後悔だ。俺の義務じゃない」


リュミエルは頷いた。


「続けてもいいです」


再生が戻る。


『だから私は、第三幕を救出劇にしない』


止まる。


『帰還劇にもしない』


止まる。


『誰かが、自分の選択を取り戻すまでの保留地にする』


止まる。


誰も喋らなかった。


保留地。


その言葉が、深く沈む。


第三幕は場所だった。


戦場でも、終点でもなく。


誰かが選べるようになるまで、立っていられる場所。


『もし、これを読んでいるのが編集者なら』


再生が止まった瞬間。


全員が俺を見た。


「俺?」


「お前だな」


フィン先生が言う。


「いや、ナツキが俺を知ってたわけじゃ」


ヴァイスが反転板を見る。


「職能宛ての発話だ。特定個人宛てではない」


少し安心した。


少しだけ残念だった。


何を残念がってるんだ、俺は。


「続けて」


『編集者なら、お願い。私の脚本を完成させないで』


止まる。


俺の胸が、強く鳴った。


完成させないで。


それは、物語を作る側からしたら、かなり重い言葉だ。


『未完のまま、守って』


止まる。


『誰かが続きを書きたいと言うまで』


止まる。


『誰かが、自分の言葉で終わらせたいと言うまで』


止まる。


俺は、目を閉じた。


未完は失敗じゃない。


未完は、まだ本人の手が残っている状態だ。


勝手に完成させるな。


綺麗に閉じるな。


泣ける終わりにするな。


救われたことにするな。


それは、脚本家が最後に残した抵抗だった。


「続けて」


俺の声は、少し掠れていた。


『私は、帰りたかった』


止まる。


その言葉で、空気が変わった。


ミラが顔を上げる。


ノルンが両手を握る。


レオンが奥歯を噛む。


「続けるか?」


ヴァイスが聞いた。


俺は少し迷った。


でも、ここで止めたら、勝手に美化することになる気がした。


「続けて」


『でも、帰るだけじゃ駄目だった』


止まる。


『私だけ帰って、残された人たちが台本に戻されるなら、それは帰還じゃなくて逃避だと思った』


止まる。


ミラが小さく言った。


「それも、重いね」


「そうだな」


俺は答えた。


「でも、ミラの帰還とは違う」


ミラが俺を見る。


俺は続ける。


「ナツキの言葉は、ナツキの状況の言葉だ。ミラの帰りたいを否定するものじゃない」


ミラは少しだけ笑った。


「言うじゃん、編集者」


「顔に出る前に言った」


「えらい」


少しだけ空気が軽くなる。


再生が続く。


『だから私は、帰還を保留した』


止まる。


『死んだわけじゃない』


止まる。


『帰ったわけでもない』


止まる。


『校閲されたわけでもない』


止まる。


『私は、自分の結末を、神の台本に渡さないために、未完了になった』


その瞬間。


反転板が激しく震えた。


黒い文字が割り込んでくる。


【未完了は不備】


【不備は校閲対象】


【校閲対象は回収する】


来た。


黒鐘廊。


いや。


これは黒鐘廊だけじゃない。


もっと上。


もっと大きい。


文字の圧が違う。


ヴァイスが叫ぶ。


「神の台本側の干渉だ!」


空気が潰れる。


地下演習室の天井に、巨大な白い文字が浮かび上がった。


綺麗すぎる文字。


整いすぎた文章。


神殿の白。


黒鐘廊の黒とは違う。


完成された台本の色。


【未完了記録を回収します】


【物語の整合性を保つため、篠原夏希の結末を確定します】


俺の背中に汗が流れた。


ついに出た。


神の台本。


本体ではない。


たぶん、その端末みたいなもの。


でも、圧が違う。


黒鐘廊は役割を降りる権利を奪う装置だった。


神の台本は、その上で物語を完成させるもの。


完成。


整合性。


美しい結末。


その言葉が、牙を剥いている。


「全員、構えろ!」


フィン先生が叫ぶ。


白い文字が、人型を作る。


黒ではない。


白い兵。


甲冑ではなく、舞台衣装のような服。


手には剣と羽根ペン。


背中には光るページ。


反転板に文字が浮かぶ。


【幕引き執行者】


【役割:未完了記録の完結】


【対象:篠原夏希】


【妨害対象:編集者】


また俺。


人気者すぎる。


本気で嬉しくない。


幕引き執行者が剣を抜いた。


白い剣。


美しい。


だから怖い。


その剣の周囲に文字が浮かぶ。


【終幕剣:未完了を完結させる】


レオンが前へ出る。


「来る!」


白い剣が振り下ろされる。


レオンが受ける。


金属音。


だが、ただの剣撃じゃない。


剣が触れた瞬間、レオンの周囲に文字が浮かんだ。


【勇者候補の贖罪完了】


【過去の追放を悔い、編集者を守って散る】


「ふざけるな!」


俺は叫んだ。


美談にする気だ。


レオンの罪を、感動的な犠牲で閉じようとしている。


「レオン!」


「俺は散らない!」


レオンが剣を押し返す。


「罪は、死んで消すものじゃない!」


俺は注釈を入れる。


【贖罪完了を拒否】


【罪は継続して向き合うものであり、死亡による完結を必要としない】


文字が砕ける。


レオンは踏みとどまった。


幕引き執行者が羽根ペンを振る。


今度はノルンへ。


【治癒師は最後に全員を癒し、声を失う】


ノルンの喉が詰まる。


俺が動こうとする前に、ノルンが言った。


「私は、声を代償にしません」


強い。


昨日より、もっと強い。


「治すことと、失うことは、同じではありません」


俺が注釈を添える。


【治癒に自己喪失を必須条件としない】


【声の保持を確認】


白い文字が砕けた。


セリアへ。


【炎使いは最後の炎で道を開き、燃え尽きる】


セリアが怒鳴る。


「燃え尽きない! 私は照らして帰る!」


俺が入れる。


【火は消耗だけでなく継続灯火を含む】


トーヤへ。


【盾は全てを受け、砕ける】


トーヤが短く言う。


「砕けない」


俺が入れる。


【盾の役割は破壊による完了を必要としない】


ミラへ。


【影の獣は最後に一人で闇へ帰る】


ミラが笑った。


でも目は笑っていない。


「一人で帰るかどうかは、私が決める」


俺が入れる。


【帰還は単独排出ではなく本人意思に基づく】


リュミエルへ。


【神の器は最後に祈り、全てを受け入れる】


リュミエルが静かに首を振った。


「私は器ではありません。受け入れるかどうかも、私が選びます」


俺が入れる。


【受容の強制を拒否】


白い文字が砕けていく。


でも、幕引き執行者は止まらない。


むしろ、輝きが強くなる。


【美しい結末を拒否】


【物語価値低下】


【再構成】


「価値?」


俺は、奥歯を噛んだ。


「人間を、物語価値で測るな」


幕引き執行者が、俺へ羽根ペンを向ける。


【編集者は最後に台本を完成させる】


空気が固まった。


俺の手が勝手に動きそうになる。


台本を完成させる。


編集者としては、甘い言葉だ。


乱れた物語を整える。


未完の脚本を完成させる。


伏線を回収する。


読者を納得させる。


綺麗に終わらせる。


それは、たぶん気持ちいい。


でも。


ナツキは言った。


私の脚本を完成させないで。


未完のまま、守って。


「アキト!」


リュミエルの声。


俺は目を開ける。


幕引き執行者の白い文字が、俺の周囲を囲んでいた。


【最弱編集者】


【神の台本を完成させる者】


【未完了記録を校了する】


校了。


最後の確認。


もう直せない状態にすること。


「……違う」


俺は言った。


「俺は、校了しない」


白い文字が止まる。


「未完を、勝手に完成させない」


注釈枠を開く。


重い。


今までで一番重い。


神の台本側の文字は、黒鐘廊の命令より硬い。


完成された文章は、修正を嫌う。


でも、赤は入る。


入れる。


「差し戻し」


俺の声が響いた。


「篠原夏希の未完了記録に対する終幕処理を差し戻す」


幕引き執行者の剣が震える。


「理由。一つ。本人が未完了保持を望んだ発話残響が確認されている」


反転板にナツキの言葉が光る。


『未完のまま、守って』


「二つ。未完了は不備ではなく、本人が結末を渡さないための保持状態である」


白い文字が割れる。


「三つ。美しい結末、感動的犠牲、役割完遂による幕引きは、本人意思を上書きする」


さらに割れる。


「四つ。第三幕は救出劇でも帰還劇でもなく、選択の保護である」


帰還空欄が光る。


第二栞も、淡く光った。


奥の方。


どこか遠いページの隙間から、栞の子の声が届いた気がした。


『……止めます』


いや。


聞こえた。


ノルンが目を開く。


「栞の子の発話です。細いですが、繋がっています」


栞の子の声が続く。


『その幕引きは、止めます』


第二栞が震える。


まだ使っていない。


でも、存在している。


人間の代わりではない栞。


栞の子を置き換えない補助具。


その第二栞が、白い終幕処理の端を押さえた。


ほんの少し。


でも、それで十分だった。


「五つ」


俺は最後の理由を言う。


「物語は、完成するために人間を使ってはいけない」


幕引き執行者が、初めて後退した。


【異議】


【未完了は読者不満を招く】


「知るか」


思わず口から出た。


全員が一瞬こちらを見る。


いや、でも本音だ。


「読者の満足のために、登場人物を犠牲にするな」


白い文字が大きくひび割れた。


「物語の外に誰がいようと、ここにいる人間は部品じゃない」


幕引き執行者が剣を構える。


最後の突撃。


レオンが受ける。


トーヤが支える。


セリアが照らす。


ミラが背後へ回る。


ヴァイスが命令核を固定する。


ノルンが声を繋ぐ。


リュミエルが俺の隣で言う。


「今の言葉は、あなたのものですか」


俺は頷いた。


「俺のものだ」


「なら、通してください」


俺は注釈枠を最大まで広げる。


「追記」


白い剣の上に、赤い文字を刻む。


【未完了記録は、本人が続きを望むまで保護される】


幕引き執行者の剣が砕けた。


ミラの短剣が背中のページを裂く。


セリアの光が羽根ペンを焼く。


いや、燃やしたのではなく、照らし切った。


レオンの鞘が胸を押す。


トーヤの盾が、白い体を通路の外へ押し返す。


最後に、ノルンの声が響いた。


「篠原夏希さんの声を、勝手に終わらせないでください」


幕引き執行者が崩れた。


白い紙片が舞う。


雪みたいだった。


綺麗だった。


でも、もう怖くなかった。


反転板に、ナツキの発話残響が戻る。


最後の一文。


『もし、いつか私が続きを書きたいと思えたら』


止まる。


俺たちは息を止める。


『その時は、誰かに読んでほしい』


そこで、記録は終わった。


完結ではない。


終わったのではなく、止まった。


未完了のまま。


守られた。


俺は膝をついた。


今度は完全に。


立っていられなかった。


リュミエルが支えてくれる。


「無理しすぎです」


「今回は、まあ……大きめ?」


「特大です」


「ですよね」


フィン先生が近づいてきた。


怒られると思った。


けれど、先生はしばらく黙っていた。


そして言った。


「よく校了しなかった」


その言葉で、少しだけ泣きそうになった。


校了しない。


終わらせない。


完成させない。


それが、今日の勝ちだった。


ヴァイスが反転板を確認する。


「神の台本側の干渉は一時撤退。ただし、接続痕が残った」


「接続痕?」


「ああ」


ヴァイスは、地下演習室の壁を指した。


そこに、白い裂け目があった。


黒鐘廊の黒ではない。


神殿の白でもない。


もっと奥。


もっと古い。


完成された文章の奥にある、巨大なページ。


反転板に文字が浮かぶ。


【神の台本】


【本体接続準備】


セリアが苦笑した。


「いよいよラスボスって感じ?」


「軽く言うな」


ヴァイスが言う。


でも、否定はしなかった。


レオンが剣を納める。


「次は、神の台本そのものか」


トーヤが盾を持ち直す。


「道は守る」


ミラが肩をすくめる。


「じゃあ、甘いもの食べる時間は?」


フィン先生が即答した。


「ない」


「厳しい」


「終わったら食え」


「それ死亡フラグじゃない?」


「なら生きて食え」


強い。


先生、たまに雑に熱い。


ノルンが、白い紙片の一枚を見つめていた。


「ナツキさんは、まだ終わっていないんですね」


「はい」


カサンドラ副院長が静かに答える。


「そして、それを終わっていないまま守る必要があります」


俺は壁の裂け目を見る。


神の台本。


すべての役割を整え、物語を完成させるもの。


そこに、俺たちは向かう。


第九十六話にして、ようやく本丸。


遅い。


でも、ここまで来た。


「アキト」


リュミエルが言った。


「次に行く前に、確認します」


「うん」


「あなたは、神の台本を書き換えたいのですか」


俺は黙った。


タイトルみたいな問いだった。


神の台本を書き換える。


それが、この物語の目的みたいに見えていた。


でも、今なら分かる。


俺がやるべきことは、神の代わりに新しい台本を書くことじゃない。


それでは同じだ。


「全部は書き換えない」


俺は言った。


「俺が書くのは、たぶん一文だけだ」


「どんな?」


「まだ分からない」


俺は正直に答えた。


「でも、方向は分かる」


神の台本を壊すんじゃない。


世界を白紙にするんでもない。


ただ、本人が望まない役割を、確定させないための一文。


それを入れる。


最後の編集。


いや。


最後にしないための編集。


俺は白い注釈枠を閉じた。


篠原夏希は、未完了だった。


失敗ではなく。


敗北でもなく。


誰かに完成させられないために。


自分の続きを、自分の手元に残すために。


俺たちは、その未完を守った。


次は、神の台本。


完成を強制する物語そのものと、向き合う番だ。

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